読解の授業では、最初にこれから読もうとする文章のCDをかける。毎回のことだが、その際、生徒には、CDの聴き方は予習の仕方によって一人一人異なるからね、と言っている。
十分に予習ができている生徒なら、シャドウイングをしてみるのも良い方法だろう。(声は出すなと言ってるけど。)それが無理なら、教科書を黙読しながら聞く。音と文字を併せるわけだ。或いは、もう少し上のレベルなら内容を考えながら聞く。一番いけないのが、これ幸い自分の時間だとばかりに辞書を引く、訳を書く等の予習の続きをすることである。こういう生徒を見付けたら必ず注意をする。素直に聞く生徒もいるが、「CDを聞くなんて無意味なことをさせやがって。オレにとって今重要なのは、予習の訳の続きをやることだ」と嫌そうな顔をする生徒もいる。予習の重要性がわかっていないから、目先に囚われるのである。こういう生徒は自分では効率的に勉強をしているつもりだが、思うほど伸びない。(これ、ホント。難関国立でも英語が結局足を引っ張る。)
教室で、クラスメートと同じ時間に同じようにCDを聞くにしても、聴き方は様々あるのだ。自分に必要な聴き方、適した聴き方が出来るかどうかなども含めて、全てがその後の学力を形成する。
授業の数十分の時間には、同じ先生の同じ話を聞くにしても様々な聴き方があるし、様々なその授業の使い方があるわけだ。
いかにして授業を自分のものにするかという「授業を受ける技術(?)」に熟達させるのも、教えるべきことの一つだと思っている。
出来る子は、わかっていることでも復習をするつもりでしっかりといろいろ考えながら関連づけながら聞く。中途半端な子は、「そんなのわかってるや」と「自分がわかっているという事実の確認」のためだけに聞き、それ以上、例えば内容や取得すべき事項まで突っ込んで学習しない。理由はわかる。「だって、知っているもの。オレ、わかってる。それ以上、何をする必要があるの?」--「わかっている、知っている」で思考が停止しているわけだ。わからないときには、一生懸命に聞くほかない。それで、自分にはもっと予習をすることが必要だと認識するのが良い。授業でやっと理解する内容は、最小限にしておいた方が良い。
話はちょっとそれるけど、で、これを言うと、けっこう嫌がられるとも思うけど、高校の授業(英語とかね)とは、基本的には「予習の段階で、ある程度はわかってから受けるべきもの」である。英語は「予習で決まる」と言いきって良い。進学校だったら、多くの先生がそのように言うはずである。実際、辞書を引いて予習をどんどんするだけで、ある程度の基礎(英語の文構造はS+Vだとわかっていることなど)さえあれば、不思議にも英語は読めてくるようになるものだ。
ついでに言うと、こういうことを言うと、「自分で辞書を引いて読めるようになれるのだったら、独学で良いじゃないか。先生も授業も必要がないではないか」と言う人が必ず出てくる。気の毒だが、こういう考えの人は、たぶん、そこそこは出来ても本当に出来るまでには至っていないはずだ。極端に言えば、50分の授業のうちの自分が思いも寄らなかった発見ができた2,3分の重要性の価値を知らないのである。高校の教材なら、発見に値するものは常に何かしらあるもので、ひょっとしたら、クラスメートのちょっとした発言や先生の口調からで生まれる「場の力」が生み出すものかもしれないと思う。独学では決して到達しえない発見である。この重要性がわからないのは、上記の「自分に合った授業の受け方」を知らないのである。ああ、もったいない。
「学力の差」とは、持って生まれた能力差はもちろんのことだが、それ以外の実質は、こういった授業の受け方から生じると思っている。
学校の勉強の要は、「発想の仕方」を学ぶことだろう。知識や方法の習得も重要だが、それで、一般に計測可能なのがこれだから、そっちの方に気が行くことが多い。重要度や効率を謳った学習法は、これを重視する。それで、「習得の結果」としての事項にしか目が行かないように訓練されてしまった生徒は、発想の根源に迫ることがない。けっこうアタマが良いのにもったいないなと思う。
残念ながら、今はそのような生徒が増えているように思う。だから、何が大変と言って、思考を改変させるのが私は大変なのである。
十分に予習ができている生徒なら、シャドウイングをしてみるのも良い方法だろう。(声は出すなと言ってるけど。)それが無理なら、教科書を黙読しながら聞く。音と文字を併せるわけだ。或いは、もう少し上のレベルなら内容を考えながら聞く。一番いけないのが、これ幸い自分の時間だとばかりに辞書を引く、訳を書く等の予習の続きをすることである。こういう生徒を見付けたら必ず注意をする。素直に聞く生徒もいるが、「CDを聞くなんて無意味なことをさせやがって。オレにとって今重要なのは、予習の訳の続きをやることだ」と嫌そうな顔をする生徒もいる。予習の重要性がわかっていないから、目先に囚われるのである。こういう生徒は自分では効率的に勉強をしているつもりだが、思うほど伸びない。(これ、ホント。難関国立でも英語が結局足を引っ張る。)
教室で、クラスメートと同じ時間に同じようにCDを聞くにしても、聴き方は様々あるのだ。自分に必要な聴き方、適した聴き方が出来るかどうかなども含めて、全てがその後の学力を形成する。
授業の数十分の時間には、同じ先生の同じ話を聞くにしても様々な聴き方があるし、様々なその授業の使い方があるわけだ。
いかにして授業を自分のものにするかという「授業を受ける技術(?)」に熟達させるのも、教えるべきことの一つだと思っている。
出来る子は、わかっていることでも復習をするつもりでしっかりといろいろ考えながら関連づけながら聞く。中途半端な子は、「そんなのわかってるや」と「自分がわかっているという事実の確認」のためだけに聞き、それ以上、例えば内容や取得すべき事項まで突っ込んで学習しない。理由はわかる。「だって、知っているもの。オレ、わかってる。それ以上、何をする必要があるの?」--「わかっている、知っている」で思考が停止しているわけだ。わからないときには、一生懸命に聞くほかない。それで、自分にはもっと予習をすることが必要だと認識するのが良い。授業でやっと理解する内容は、最小限にしておいた方が良い。
話はちょっとそれるけど、で、これを言うと、けっこう嫌がられるとも思うけど、高校の授業(英語とかね)とは、基本的には「予習の段階で、ある程度はわかってから受けるべきもの」である。英語は「予習で決まる」と言いきって良い。進学校だったら、多くの先生がそのように言うはずである。実際、辞書を引いて予習をどんどんするだけで、ある程度の基礎(英語の文構造はS+Vだとわかっていることなど)さえあれば、不思議にも英語は読めてくるようになるものだ。
ついでに言うと、こういうことを言うと、「自分で辞書を引いて読めるようになれるのだったら、独学で良いじゃないか。先生も授業も必要がないではないか」と言う人が必ず出てくる。気の毒だが、こういう考えの人は、たぶん、そこそこは出来ても本当に出来るまでには至っていないはずだ。極端に言えば、50分の授業のうちの自分が思いも寄らなかった発見ができた2,3分の重要性の価値を知らないのである。高校の教材なら、発見に値するものは常に何かしらあるもので、ひょっとしたら、クラスメートのちょっとした発言や先生の口調からで生まれる「場の力」が生み出すものかもしれないと思う。独学では決して到達しえない発見である。この重要性がわからないのは、上記の「自分に合った授業の受け方」を知らないのである。ああ、もったいない。
「学力の差」とは、持って生まれた能力差はもちろんのことだが、それ以外の実質は、こういった授業の受け方から生じると思っている。
学校の勉強の要は、「発想の仕方」を学ぶことだろう。知識や方法の習得も重要だが、それで、一般に計測可能なのがこれだから、そっちの方に気が行くことが多い。重要度や効率を謳った学習法は、これを重視する。それで、「習得の結果」としての事項にしか目が行かないように訓練されてしまった生徒は、発想の根源に迫ることがない。けっこうアタマが良いのにもったいないなと思う。
残念ながら、今はそのような生徒が増えているように思う。だから、何が大変と言って、思考を改変させるのが私は大変なのである。
英語ではないのですが,大学のときの先生(教授)で,教科書をただ読むだけという酷い講義がありました.
多くの学生は,そうなると居眠りしてしまうのですが,私は真面目だった(笑)から,懸命に寝ないで聴いていました.
授業中に予習をしているようなものです.
ただ,ボクはその講義スタイルが嫌いではなかった.なぜから,他の講義よりもテスト前に楽だったから.
一度きちんと教科書を読んでいるから,テスト前に見返しても理解が容易なんです.
他の要点だけを板書して説明していく講義では,どうしても抜けが出てくるので,教科書を再度読み直さないといけない.この場合は予習を後でやっているようなものです.
高校と大学と一緒には出来ませんけど,教科書でもなんでもいいですが,それなりの形になって出版されているものなら最初から最後までちゃんと読めば分かるんです.一応,それなりのレベルで理路整然と書いてあるわけですから.
ほり先生の今回のエントリを拝読してそういうことを思い出しました.
別に教師なんて必要ないということがわかれば,とりあえず学びの峠は越えるんですよね.
そうなれば学校の先生は失業ですけど(笑).歯医者さんに似てますね.予防が行き渡れば,虫歯が減るという.学校の先生もそろそろ虫歯治療でなくて予防歯科で生きて行く覚悟が必要ではないでしょうか.などと教職には無関係な人間のたわ言です.
教育界でその種の旧態依然な部分があるのは,やっぱり虫歯を治したほうが,教師にも「やった!」という達成感があるんでしょうね.人間という動物のやっかいな麻薬的感覚ですね.
追記したら、ゾウムシさんのコメントが入ってました。
「ついでに言うと」からです。
でも、「教科書をただ読むだけ」というのは、ちょっとヒドイですね。上記は、そういうのは、想定してませんので、お許しください。
>別に教師なんて必要ないということがわかれば,とりあえず学びの峠は越えるんですよね.
その通りです。
でも、これがわかってない人が結構いる。で、「先生は何をやってるんだ?」と曰う。勉強が、乳母日傘だと思っているわけです。
でも、おっしゃる峠を越えた上で、ちょっとした先生のアドバイスの重要性がわかる、ということに至ると思います。
「教師」とは、生徒が脇道に逸れそうになったときに、ちょいちょいと修正してくれる存在でしょう、と私は思ってますが。やっぱり生徒は、ちょこちょこ大事なところで方向を間違えますから。(答えを教える、というのとはちょっと違って。)
>やっぱり虫歯を治したほうが,教師にも「やった!」という達成感があるんでしょうね.
これが害毒ですね。
よく書いているけど、今は、学校が「教員が仕事をする場」になっているということです。
特に、「生徒に達成感を与える」と言う名目のもと「生徒に達成感を与えた自分(教員)が達成感に埋没する」って感じ。
「生徒の達成感」にしても、結果的に付随的に生じるものなのに、これが目的化しているのが変。それで、自分も達成感を感じたくなるのでしょう。