先週の土曜日、第5回の学習会開催。
去年のちょうど一年前が第1回でした。
地域の学校に行こうか、特別支援学校に行こうか迷っていた子どもの両親も参加。
「地域は厳しいよ~~~~」
「お子さんのためには特別支援学校で教育を受けた方がいいですよ」
などの言葉の嵐の中で
どうしようか決めかねていた様子。
さんざん迷った結果、地域の小学校へ。
「道を歩いていたら、近所の子たちが声をかけてくれるんです」とお父さん。
課題は一杯あるけれど、友だちと一緒に過ごすことを選んだという。
学校の姿勢と子どもを大事にすることから始まると思った。
地域の学校に行ってもつらい思いをして過ごしたという人もいる。
地域の学校に来たからには、まるごとを受けとめ
そんなつらい思いをすることがないように
細かな取り組みが必要と思った。
日本国憲法で保障されている「教育を受ける権利」とは、子供たちが「民主的で自由な社会の一員として生きていくために必要な知識・技能・態度等を、結果として身に付けられる」ということを意味しているのだと、私は思っています(この見解が間違いであったら、ご指摘お願いいたします)。
この見解が間違っていないのであれば、その権利の具体的(←ここ重要)な内容として、「すべての子供たちについて、原則として、最低限ここまでの能力(知識・技能等)の獲得を保証します」ということが示される必要があると、私は思います。
しかし、それらの具体的内容が提示されているとは、私には思えません。
提示どころか、「現状において学校では何が行われており、それらが結果として何をもたらしてきたか」ということについて、日本の大人たちがきちんと認識しているとは私には思えません。
そして、これらの現状分析をする際には、「隠れたカリキュラム」を踏まえて考える必要があると、私は思います。
大人たち自身が「具体的内容提示」や「現状分析」についてをやらないで、「友達と一緒に過ごしていたら、結果として身に付けることができる」と無責任にあおる。
身に付けることができなかった(と子供本人がのちに認識した)場合でも、大人は責任感を持たないで済む。子供達に責任が丸投げされてしまう。高々10年前後しか生きた経験のない子供たちに。
こういう学習会みたいだなあなあ、という疑念が私の中に沸いています(「言葉の嵐」という表現にも悪意を感じます)。
「教育を受ける権利」について書かれていることに異論はありません。
もう一度「隠れたカリキュラム」について書かれた本読んでみますね。