☆ いんくる~しぶ・は~つ ☆ 

  Inclusive・Hearts いま、ここから。

南大阪での学習会

2012-11-28 14:47:17 | インクルーシブ・ライフ 

先週の土曜日、第5回の学習会開催。

去年のちょうど一年前が第1回でした。

地域の学校に行こうか、特別支援学校に行こうか迷っていた子どもの両親も参加。

「地域は厳しいよ~~~~」

「お子さんのためには特別支援学校で教育を受けた方がいいですよ」

などの言葉の嵐の中で

どうしようか決めかねていた様子。

 

さんざん迷った結果、地域の小学校へ。

「道を歩いていたら、近所の子たちが声をかけてくれるんです」とお父さん。

課題は一杯あるけれど、友だちと一緒に過ごすことを選んだという。

学校の姿勢と子どもを大事にすることから始まると思った。

地域の学校に行ってもつらい思いをして過ごしたという人もいる。

地域の学校に来たからには、まるごとを受けとめ

そんなつらい思いをすることがないように

細かな取り組みが必要と思った。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
責任丸投げワードとしてよく使われる、「友達」という言葉 (スナドリネコ)
2012-12-02 01:56:05
(念のための注 「記事に出てくる『迷っていた子供の両親』が、責任丸投げワードとして使用した」という意味ではありません)

日本国憲法で保障されている「教育を受ける権利」とは、子供たちが「民主的で自由な社会の一員として生きていくために必要な知識・技能・態度等を、結果として身に付けられる」ということを意味しているのだと、私は思っています(この見解が間違いであったら、ご指摘お願いいたします)。
この見解が間違っていないのであれば、その権利の具体的(←ここ重要)な内容として、「すべての子供たちについて、原則として、最低限ここまでの能力(知識・技能等)の獲得を保証します」ということが示される必要があると、私は思います。

しかし、それらの具体的内容が提示されているとは、私には思えません。
提示どころか、「現状において学校では何が行われており、それらが結果として何をもたらしてきたか」ということについて、日本の大人たちがきちんと認識しているとは私には思えません。
そして、これらの現状分析をする際には、「隠れたカリキュラム」を踏まえて考える必要があると、私は思います。

大人たち自身が「具体的内容提示」や「現状分析」についてをやらないで、「友達と一緒に過ごしていたら、結果として身に付けることができる」と無責任にあおる。
身に付けることができなかった(と子供本人がのちに認識した)場合でも、大人は責任感を持たないで済む。子供達に責任が丸投げされてしまう。高々10年前後しか生きた経験のない子供たちに。
こういう学習会みたいだなあなあ、という疑念が私の中に沸いています(「言葉の嵐」という表現にも悪意を感じます)。
返信する
Unknown (kiyoko)
2012-12-04 00:12:57
どう書いたらいいのか、さだまらないでいます。

「教育を受ける権利」について書かれていることに異論はありません。

もう一度「隠れたカリキュラム」について書かれた本読んでみますね。


返信する