天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

宇江佐真理/究極の口吸い

2024-03-11 15:49:07 | 
  
絵­­=安里英晴/宇江佐真理『昨日のまこと、今日のうそ』扉より


宇江佐真理『昨日のまこと、今日のうそ』は<髪結い伊三治捕物余話>シリーズの第13弾である。表題作のほか5編を収録している。
「指のささくれ」という1編は以下のストーリーである。
髪結い伊三治の弟子、九兵衛が嫁とりで悩む。男勝りの気風のいい魚問屋の娘、おてんに見初められる。娘思いの親父は、所帯をもった暁には髪結いの店を出してやると言う。しかし、嫁の実家の資産に頼ったら自分は惨めではないか、そんな人生でいいのか。さらに九兵衛はおてんにそう惹かれていない。嫁にするなら茶店の娘おさくがいいと一人決めていた。それでおてんとの縁談を断ってすぐおさくに結婚を申し入れると、「あたし、好きな人がいるの。ごめんなさい」と断られる。二人の女を一挙に失った九兵衛はいっとき消息をたってしまう。
その九兵衛が復帰するとなんと、おてんが心配して駆けつけて来た。九兵衛に振られて嫁ごうとした相手が彼女の持参金をめあてにしているのに気づき、それを蹴ったきたのである。
「今さらのこのこやって来るなんて、未練な女だと思っているんだろ?」と言うおてんと九兵衛の間を作者・宇江佐真理は巧妙に取り持つ。
以下は、この作家ならではのウイットに富んだラブシーンである。そのういういしい場面を紹介する。

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 「魚新の話を断った後で、お父っつぁんは、しみじみあたいに言った。お前がどんな男を亭主にしようが、おれは実の倅と同じように可愛がるって。あたい、それを聞いて心底安堵したよ。あたいを嫁にしてくれる人なら紙屑拾いだろうが日雇いだろうが構やしないと思ってさ」
おてんは涙を溜めた眼で言う。おてんの髪はそそけていた。この何日か髪を結う気にもならなかったらしい。
 「おてんちゃんの亭主になる奴に髪結いは入っていないのけェ?」
 九兵衛はそう言うとおてんは、言葉に窮して黙り込んだ。
 「髪ィ、結ってやるよ。とびきり気を入れて結ってやらァ。お前のてて親と母親が驚くようによ」
 笑顔で言う。
 「それってどういうこと?」
 おてんは掠れた声でようやく訊いた。
 「さあてな」
 「意地悪。はぐらかせないで、はっきり言っておくれ」
 「んなこと、はっきり言えるか」
 九兵衛はそう言っておてんの頭を引き寄せ、口を吸った。おてんは喉の奥からこもった声を洩らす。
 「人が見るよ」
 「構うもんか」
 九兵衛は腕に力を込める。その拍子に左の親指に小さく痛みが走った。ささくれを無理に剝いた痕が治っていないようだ。それができるのは親不孝だからと言った母親の言葉が蘇る。おてんを振り切れない自分は親不孝かと、ふと思う。…………………… 
 これでいいのだ。九兵衛はここに来て、ようやく決心を固めることができたと思う。指のささくれが疼く。それを忘れるために、九兵衛はおてんの口をきつく吸った。
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このシリーズは、基本的に人情物であるが、惨殺事件もある。けれど作者・宇江佐真理は根っから明るく太陽をめざす人である。不幸を踏まえながらも上を、明かりを見ようとする。それが読む者の励ましとなる。その結果、次々先を読みたくさせる。
九兵衛のおてんの崩れかけた関係を持ち直す展開も宇江佐さんならではであろう。絵に描いたような逆転ホームランである。
挿画担当の安里英晴さんは、本書の収録する6編を隅から隅まで読んで1枚の扉の絵を描いたに違いない。6編の268ページの中で、この場面は一番華がある。「ささくれ」と「口吸い」をぶつけるなど俳句でいう二物衝撃である。「口吸い」という言葉が「接吻」や「キス」と違う抒情を醸すように作者の筆が冴える。作者の究極の抒情を見た思いである。

                
コメント
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