天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

永遠のマドンナ奥坂まや

2018-08-15 06:48:32 | 俳句


『俳句』8月号、口絵に「季語と俳人」に奥坂まやの写真があった。若々しくはつらつと撮れている。
背景は井の頭公園で、この近くに住んでいたころひとり吟行に訪れたなどと紹介されている。
まやさんの俳句が2句紹介されている。

銀漢に露一顆なる地球かな まや
露ですぐ思うのが川端茅舎の<金剛の露ひとつぶや石の上>でありこのつつましさが俳句本来のものとずっと思ってきた。ところがまやさんの露は、地球という存在さえ一粒の露でしかないと言う。この豪胆さが奥坂まやという俳人のすべてといってもいい。豪胆にして諸行無常の味わいを背後にはらむ。

原爆忌巨大画面に手が犇く まや
まやさんのこの季語への執着はすさまじい。ぼくの知るかぎり原爆忌の句はほかに3句ある。この句は、川のなかへ逃げ込み全身ただれた瀕死の人たち、または死者が水の上に手だけが出ている地獄の光景を思ってしまう。しかしそれはあまりにもえげつないので、ワールドカップで歓声を上げている人たちの歓喜の手をまず思うべきかもしれない。
作者も平和なサッカー観戦の無数の手から無残な死者のそれに感慨が転じていったのかもしれない。いずれにせよ手に視点を絞り「手が犇く」と描写したのが冴える。
作者は昭和25年7月16日生まれ。小生よりぼくより1歳半ほど年上であり原爆投下のとき生れていないはずである。それなのにどうして目撃したかのように惨い死を書き続けられるのか。才能のある人は見なかったものまで見えて怖いと思う。

まやさんは「移ろい滅びゆく仲間」という短文を寄稿している。
まやさんは学生のころ小説を書いていたという。夫(中山玄彦)に誘われて俳句に入る。
「移ろい滅びゆく仲間」というのは次のようなことらしい。
俳句は、季語との交感によって「諸行無常」を受け入れる。内面に立て籠もっていた私は、俳句を作って、外部に、季語の世界に、開かれた。季語と私たちは、この宇宙に束の間存在し、移ろい、消え失せてゆく仲間なのだ。


まやさんに誘われて吟行をはじめて経験したとき30年ほど前のこと。
まやさんから10句提出と言われ仰天し「10句ですか?」とけげんな顔をすると「鷹に入ったんだから当然でしょ」と跳ねつけられた。
ベンチに座ってなにやら書くまやさんを背後からこっそりのぞいた。するとノートは文字でびっしり埋まっていた。蟻の巣をのぞいたみたいに文字で真っ黒であり、すべて俳句であった。まやさんには未来永劫勝てないと悟った瞬間であった。まやさんはぼくのマドンナなのだ。
コメント
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