★北河内路上通信-the Voice of VoICelESs on roadsides in EastOsaka

 北河内路上通信は大阪北河内において、同地域の野宿者と助け合い、共にあろうとする有志によって始められました。

★大阪市東部の公園野宿事情など

2006-10-13 13:12:44 | 野宿者支援
 大阪市東部の某公園の昨夜は冷え込んでいたのか、ベンチで寝ていると街灯が白くかすんで見えた。最初は寝ぼけているのかと思ったりもしたが、ベンチの傍らに捨ててあった自転車のサドルに夜露が浮かんでいるのを目にして間違いないことを知った。風がない分、穏やかに感じていたのだろう。寝る前は花火や叫び声を上げる若い群れがいてうるさかったが、彼らもゴミを散らかしたままで、もういなかった。用があって探していたその公園での野宿の先輩と食べるべく確保しておいたエサの未だ温かなお好み焼きを一枚平らげ、残りを箱で持ち、園内を探したが見当たらなかったので、帰ろうかと思った頃、宵出しの缶をとりに回っていたという当人に出くわした。「やっと会えましたよ」というと、「しばらく雨も降って別の所で寝ててん」と。とにかく会えたので、未だほんのり温かなお好み焼きとたこ焼きを2人で腹いっぱい食べ、仕事の相談をしてくれという本人の話を聞いた。
 一通り話を聞くと、「明日、フリー求人誌のここに電話かけてみるわ」と笑顔で答えたので、行く気十分なのだろう。昨日は重量40キロくらいの缶を八尾方面でとれたという当人は幾分か気分も落ち着いていた。幾ら1人がいいという当人でも、喰っていくための情報は絶対不可欠なのだ。この公園には別に3人くらいは夜間に常宿し、昼間には休息も含めて20人前後の常連の野宿者がそれぞれの時間を過ごし、散っていく。概ね皆、場を確保する努力はしているが、そこで掃除をしたりして居場所を確保しようとしている本人は公園掃除を散歩の片手間でやっている老婦人からも賞賛を受けるほどだ。ただ、他の野宿者とあまり話さないので情報をなかなか得られないというのは共通する。そこをつなぐ試みが必要なのだが…筆者も今は経済的余裕もなく、自分の食うためのことで精一杯というのが現状で、寝る間を惜しんで動いても現実的には限界がある。(それ程フィールドがあるという事だ! 釜ヶ崎だけが窮迫した現場だと思ってるように見える支援物資なども集まるグループなどは、試みだけでも市東部などの周辺部に出てくるべきである)来週は筆者も仕事を探し得なければ喰えなくなる…だからこそ誰よりも相互扶助の大切さが身でもってわかるのだけれども。

★動物園を横切る橋上で…

 このところの天王寺公園における野宿者排除状況は目に余る。同動植物公園事務所の攻撃は管轄の西成公園をはじめ、既に全面封鎖を行われたりして排除された出城公園や愛染公園などにも顕著で、そのやり口はまさに「獣を追うが如く」である。カラオケ小屋排除は別としても、その後の40戸以上の残存小屋撤去は熾烈で、春先の撤去では多くが路傍に散らされた。警察と完全に連携したやり口は卑劣極まりない。そんな同公園の橋上も撤去と6年以上闘って来た現場だが、「冬を前に」ついに終末が近付きつつある。昨夜現在、Tさんの小屋が奴らのつくったフェンス横丁の中で浮島のように残っていた。そこにはかつて橋上両側にあったテント小屋横丁の面影などない。今週初めにたまたま友人と通りかかって、外出先から帰ってきたTさんに出会い、深夜なのに少しだけ立ち話をしていた。談笑しながらも時折、Tさんのさみしそうな表情が見えたのが思い出される。「ここを追い出されたら、この辺でうろちょろするしかないよ」という言葉に静かな闘志とこの列島を確実に覆い尽くそうとしている「厳冬の闇」への不安が見えた。天王寺公園はそして奴らによって「奪われ」、奴らの「カツアゲ装置」としての収奪機能を完成させて行く。それに比してそこで追い出され園内東部で溢れている野宿者=経済難民こそは、本来あるべき「共有地」の姿をその存在でもって問いかけているのだ。有刺突起物と監視カメラや赤外線センサーを備えたアクリル塀で80年代終わりに覆われ「有料化された」空間は、一体誰から、その有料化した空間を、地面を護ろうとしたのかということは明白であったが、奴らはそのオゾマシイ思考回路で更なる最悪の空間を創り上げる事だろう。それを喰い止めようとする事が出来るのは、その状況を知り、その犠牲になってきた個々人のほかにない。

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