★北河内路上通信-the Voice of VoICelESs on roadsides in EastOsaka

 北河内路上通信は大阪北河内において、同地域の野宿者と助け合い、共にあろうとする有志によって始められました。

★河内路傍夜話ー首のすげ替えなんて意味がない

2007-10-29 01:05:41 | Weblog
 昨夜深夜の東大阪・布施の気温は駅前の電光温度計で12度と肌寒かったが、給料日後最初の土曜日となった昨夜は世間一般の懐の暖かな酒飲みが吠え、うなり、騒ぎフザケて暴れ、ゲロを吐き、路傍に眠る動物園のような夜となった。おかしな事にこんな日に布施署は警戒に出てこない。ともかく、そんな騒がしい市長選前の夜だが、路傍では体感気温も更に下がっている。酒飲みどもの酔いつぶれて無防備ににわかに寝てる連中には金があるなら帰れと怒鳴りつけてやることがある。そりゃそうだろう、そんな甘ったれた奴らに犯罪者呼ばわりされる野宿者はたまったもんではないからだ。
 ともかく、春宮団地を蹴散らし住民を追い出してそびえ立った東大阪市役所やカルフールのある荒本へ向かった。市長選の幟が中央大通りに沿って吹きおろす生駒颪ではためき、選挙公報板から候補者どもがほくそ笑む市庁舎のたもとの路傍やベンチにも幾人かの野宿者は健在だ。ここは大阪市内はもちろん、布施よりも体感気温が下がる厳しい場である。近くには小寄せ場としての長田もあり、佐川などへの日雇い仕事のバスも迎えに来る場がある。このせいか、元春宮団地であった場につくられた府立中央図書館などの周辺には野宿者が一定量いつも健在だった。いずれにせよ選挙などには関係なく此処では既に冬の序曲が聞こえていた。首が変わったところで何も変わりはしない。共産党だろうともっと酷い連中だろうと、議会制民主主義の茶番劇に参加している市場の競り師どもや役人ども、利権ボスどもには痛くも痒くもない。奴らの根ざすところが権力機構の一部である限り。
 また一人、巡回相談員に唆されて路傍を去っていた河内の元野宿者が自立支援センター退所後に釜ヶ崎近辺の飯場に「就職」していたものの、布施の路傍に「戻ってきた」・・・この厳しい路傍に。昨年より酷い状況のこの路傍では甘ちゃんのこの人はとてもしのげないだろう。どうしたものか。排除の前に暗躍する巡回相談員よ、たまにはキッチリ責任を持ってはどうだ?

★大阪市南東部、テント群に切迫した撤去の危機

2007-10-27 22:13:45 | Weblog
 大阪市内の総ての野宿者支援組織と称するものが、全く関心を払わない(釜ヶ崎の反失連やNPOは当然ながら論外)テント群が存在することは以前にも述べてきた通りだが、その平野区内のテント群のうち撤去の危機にある2戸は今週までのところ、撤去は免れたが、長引く状況が思わぬ状況をもたらしている。先週、この場所に警察が何故か機動警ら部隊移動詰め所(機動隊のカマボコのようなもの)を置きはじめ、連日夜も警備しているのだ。偶然かもしれないが、テント2戸の撤去に際して大阪市ゆとりとみどり侵攻局南部方面公園事務所が「不測の事態に備えた」ということであれば笑わせてくれる。権力を背景にした真のテロリストどもが何ほどのことを恐れねばならないのか?

 このところ、河内でもカントリの野宿者からの切迫した声が聞こえて来る。希望的観測とは裏腹に、貧困の裾野がますます広がりカントリ人口が減っていないばかりか増えており、調子に乗ったある釜ヶ崎のごみ業者(釜ヶ崎の運動関係も御用達だった)のせいで、買取業者がつぶれたりしている。この結果、競争相手があったころの低頭さとは180度逆に変化を遂げてキロ当たりのレートを落とした上(その地区の業者は145円であるが、この業者は最近150円から135円に下げた)、麻袋に自らの都合で移し替えさせて計量し、3キロ分の支払いを削るという出張買取を行っているという地区まであるという報告が寄せられている。こんなカントリの野宿者を食い物にする業者をのさばらせる事はためにならない。カントリで生計を立てている貧困者の側に立つならば、こんなことに関心を持たない運動とは何なのか?

Fw:★大阪河内の路傍より

2007-10-20 03:21:23 | Weblog
 一雨止んで、また冬が近付く・・・雨の後にも咲き香る木犀の香りと共に冷気もまた感じられる今夜の河内の路傍は晩秋を感じさせるような肌寒さだ。先週に賃金奪還のために行くことになった長野県南佐久郡某所の農場にいた時、一足早い晩秋の寒さを味わってきたが、そこまでではないにせよ、徐々に冬の足音は確実に近くなりつつある。この河内の地に来る前に大阪市南東部の残存テント群を確認したところ、本日までのところでは撤去を免れていたが、住人の自転車が部品どりされて屑鉄と化しており、近隣の某所に住人らしい一人がいるのを確認することになったことを思うと状況は厳しいと言わざるを得ない。
 それはともかく、今週火曜日まで日雇い仕事を共にした河内の野宿者が何故か身内に捕捉されて長野で奪還した賃金とその後の日雇いの賃金を迷惑料として根こそぎ払わされたという。
 せっかく、これからそれを元手に週給の仕事までステップアップして行こうとしていた本人にとっては大きな打撃である。本人は「あれは自分のまいた種やし納得ですわ」と言っていたが、有り金全部を払わせた方も払わせた方だとも思えた。ともかく、来週にまた本人は缶取りをしつつ日雇い仕事に行くことになるだろうが、それをとりあえずの元手にしつつこれまで通り地道に経済再建すると淡々と語った。 そんな状況に関係なく不幸事は襲いかかるようで、その本人らが段ボールを敷いてささやかな休息を得ている場にある、この地でも数少ないベンチが今週、撤去された。これまで見てきた中では此処ほど徹底的に野宿者が深夜のみ世話になるベンチを根絶やしにする街は他にない。結果的にこの街はお金を費やさぬ限り老人などにも休息の場を提供しない冷たい街となっている・・・見せかけの景気回復とは裏腹に今も産業が冷え込んだ街をより寒からしめる事を次々とやってのける不明さには全く恐れ入る。大体、この街のクソ役所は闇が深すぎるのか、マスメディアもメスを入れることがない。ボッタクリ福祉(ヤミ福祉)業者どもや利権ボスなどが大阪市内や八尾の小物
の比ではなくゴロゴロしているような街であるのにだ。奴らは片づけるものを間違っているとしか思えない。
 いずれにせよ、来たるべきこの冬は、この地の野宿者にとって正念場となるだろう。雪やこんこではないが、公共空間適正化なる追い払いの先兵である巡回相談員どもやボッタクリ福祉のブローカーどもは喜び、この地の野宿者は場を失い萎縮して丸まって厳冬の闇夜をやり過ごす・・・という構図が見える。大阪市内からの野宿者などが缶を取りに来るこの地では、まさに「収奪される植民地」を見ることが出来る。野宿者のみならず、年金生活者、障害者などの貧困者同士が喰っていくために缶の取り合いをしている貧困の裾野はますます広がる一方だが、「大本営発表」の数字のマジックと希望的観測に楽観視し踊らされた運動などには明日はないだろう。
ビリー・ブラッグじゃないが、which side are u on?(あんたはどっちの味方なん?)が突きつけられている事を忘れてはならない。

★ネッカフェ宿借りIN神戸

2007-10-15 02:09:33 | Weblog
 今日も朝早い日雇い仕事に備えて神戸某所のネッカフェで宿を得た。ここはマットフロアもあり、大阪のネッカフェより少し安い。それでいて1000円以内は有難い。おまけにシャワーも。ここのところ、賃金取り返しやらでまともに寝ていないので、今日は5時過ぎまでよく眠りたい。
 長居公園で昨日まで「大輪まつり」が行われていたとか。どうでもいいが、長居公園テント村の歴史を載せた小冊子が「販売」されていたとかいう話には恐れ入った。その「歴史」とやらはどんなものか確認して見たかったが、編纂した連中には書けない歴史がある。長居公園聞き取りの会(どんどん名前を切り約め「ききとり」になってからの事は興味もないので不明)でのみ動いていた当時学生の個々人が、闘争現場のことを書けるとは思えないが、彼らの書いた「歴史」はどんなものか確認しておきたい。あの激烈な2001年始から同4月にいたる闘争時にそこにいなかった彼らに、それがどう書かれているのかをシッカリ確認しておきたいのだ。当時の闘争を批判した血迷った学者どもの一人である東海地方の御仁がその冊子に何か書いているというから、一層油断ならない、不愉快な歴史が書かれているに違いない。ちなみに、筆者が当時撮っていた写真群は間違った歴史を上塗りされるために使われたくないので、そういった目的には使用されることを断固拒否する。既に使われている「前略、路の上から」(釜パト冊子)の長居公園10年史内の写真は無断使用である! それだけならまだしも、そのエトキが致命傷だ。正解を言ってやろう、あの写真は2002年春のものなんかではない。2000年9月の写真だ。都合のよい歴史修正は今すぐ取り下げよ!

同志が倒れた

2007-10-08 10:37:58 | Weblog
 先週、同志が倒れ、病院に救急搬送されたとの報を聞いた。この同志は結成よりの釜パトメンバーだった。詳しいことは分からないが、仕事の虫になって無理をしていたらしい身体をしばらく養生した上で退院してこいといいたい。どんなにすれ違おうが、10年以上、黒旗を心に掲げて戦場を共にし、四面楚歌の長居闘争をもくぐり抜けてきた人間。必ず平癒して戻って来い…必ずだ。

*last week, An anarchist comrade was carried to the hospital...

an anarchist comrade living in osaka told me that an anarchist comrade having engaged in homeless liberation movement in osaka for over 10 years was suddenly carried to the hospital on last week. details of his situation...i have not heard yet. anyway, i strongly hope that... go easy and get well soon.

河内夜話ー昨夜も徹夜監視

2007-10-07 20:18:48 | Weblog
 世間では連休の昨夜は、幾分か冷え込み肌寒い夜となった。何処からともなく流れてくるモクセイの香りも感じられるこの未明の布施の路傍は14度。24時前に段ボールを用意してそのついでにゴミ袋一杯のアルミ缶を発見し、缶取りをしている野宿者に手渡すべく持って帰って巡回を開始する。この夜は比較的おとなしいようだった。仲間たちのイビキなどが聞こえてくる頃、見上げればオリオンは真上に。用意してあった段ボールに暫し横たわる。その後も監視は続けたが何事もなく皆が撤収完了後、挨拶だけをして引き上げた。雨が降る前に一眠りして田刈りをすべく帰路を急いだ。

★大阪市南部方面公園事務所の市南部での撤去策動続く

2007-10-07 13:22:15 | Weblog
 ご高名な大阪市内の野宿者支援運動とやらの釜ヶ崎しか念頭にない諸氏はもちろん、現釜パトメンバーすらが、興味もなく、その存在など殆ど知らず記憶にもないテント村が大阪市南部方面公園事務所管内に存在する。その南部方面公園事務所管内で数少ないテント小屋集住地の一つが先週来、フェンスを張られるなどして撤去される危機に瀕していることなど当然知るはずもなく祭りの準備に忙しいようだ。それもそうだろう、大阪キタの越年越冬闘争時に拡大広域パトロールをするのだが、それも政官財民はもちろん、釜ヶ崎で動く赤い運動内部の敵とも対峙しつつ2000年8月-2001年4月に至る長居闘争を闘った今は無きメンバーたちしか、まともに野宿拠点群を把握して回れないという有様だろうから。今も長居公園仲間の会を名乗っている6年前はいなかった御仁たちが何と言うかは未知数だが、2000年8月21日正式発足当初の長居公園仲間の会は園内しか政治的な思惑で興味のない釜ヶ崎活動家たちと、その周辺部まで把握し面として大阪全体を見据えた野宿者最終解決=野宿者一掃プログラムに徹底して対峙しようとした当時の釜パトメンバーらの呉越同舟の支援体制で当事者組織としてスタートしたが、10月5日の忌々しい長居公園シェルター第二回現地説明会での「強制撤去はしない、粘り強く話し合い解決していきたい」などという大阪市側役人ども(建設局・鍵、競技場・松浪ら)の書面ではない薄っぺらな言葉を信じて釜ヶ崎活動家らは大挙して「もう大丈夫や」などと言いつつ長居公園から消えて行き、10月16日から鳴り物入りで始まる園内テント現地調査には大阪市側の人間として現れる恥知らずさだった。11月には旗色だけが赤い釜ヶ崎活動家らは総崩れとなり、それらの多くは長居に止まらず現地の当事者組織を支援せず、見捨て、襲撃に対応して当時の釜パトが主張して始まった徹夜パトに参加するなどして止まった部分ですら現地闘争団本部テント(今の園内南駐車場東側自販機の裏に2戸のテントを設けていた)で酒を飲んでくだをまいては現地の真剣に闘う野宿の仲間とトラブルを起こすというような失態まで演じた。筆者の記憶では、腰砕けの赤い活動家の「寒いから徹夜パトはやめよう」などというナサケナイ一言で最後の徹夜パトが行われた12月10日段階で釜ヶ崎活動家らは長居公園から完全撤退した。その後、廃墟のようになった長居公園内で着々と建設が進められた「長居仮設一時避難所(通称:長居シェルター)」の傍らの堅牢な造りの小屋を来るべき反シェルター闘争時の闘争本部とすべく補強改造し、あくまでも闘う準備を確信的に行っていたのは大阪キタの野宿の仲間たちと当時の釜パト、そして残存を決めた園内の野宿の仲間たちだった。その現地闘争団本部には改装と同時に確信を持って闘うべく「一切の権力機構への徹底した戦闘意思を示す」黒旗も現地調達でこしらえ掲げられていたが、何者かによって破り捨てられ、年末の長居シェルター開設が始まった。飼われていた犬などが彷徨う廃墟となった園内で、放火なども起こる中、元住人の許可を得て廃材をせっせと獲得し、ストックして来るべき闘いに備え、大阪市内をキタに長居に振り子のように動くのはもちろん、越年越冬闘争も度重なる放火とも現地夜警を積極的に担って闘いつつ文字通り寝食を忘れて動き回った。それぞれが能力の倍をはるかに超えた動きをする中で方針が練られ闘争が続けられたのだ。現今のように活動家に事欠かないような恵まれた状況では決してなかったのだ。
 …その時の釜パト活動家らがやっていたようになど、現メンバーらがやれるかどうかは別として、彼らは純粋に大阪キタと釜ヶ崎などのみの野宿者支援組織としての役割を居直っているとしか見えない。それは結成段階の「誰に見取られることもない最後の打ち捨てられ、放り出された個々人と等身大で向き合い、共に助け合って生きるすべを獲得するために闘う」というあり方からは程遠いといわざるを得ない。確かに、それが戦線拡大を生み、今はない釜パトが破産したということも積極的に出来るだろうが、現今のようにコンパクトにまとまるよりは少しでも初心に帰るべきではないか。(といっても大半は結成の動機すらもリアルタイムには知らないはずだが。でも何故か10年史を書いたとか…一体その「歴史」とやらは誰に聞いたのか?)筆者は釜パトではないし、増してや現「釜パト」を名乗る組織にも希望をもはや持たないが、その今は押しも押されぬ高名さを利用するためにだけ名称に固執するなら、もうその暖簾は昨年10月の忌々しい処断以降、外しても当然だったのではないか? 色の強弱はともかく赤い色つきだろうと、クーデターならクーデターらしく刷新してはいかがかと思うのは言い過ぎだろうか。

路傍転戦

2007-10-04 01:53:28 | Weblog
 先方の都合ゆえの仕事帰りの野宿。飯をくおうにも店も無し。手持ちのタオルを烏龍茶で浸し体を拭いて臭いを抑えて風呂がわり。臭いなどと言うなら銭湯にくらい入らせろ、糞会社! 空港の街の路傍で待機して早朝の仕事始まりに備えさせるなんざ覚悟しろ。金のためにそこまでやるほどガリガリ猛者じゃあるまいし金なんざ欲しくないぞ。それより大事な安眠と休息をよこせ。

日雇い転戦

2007-10-03 00:36:23 | Weblog
 ここ数日、放火襲撃された野宿の仲間と日雇い仕事で転戦している。今日は某所の行きつけである安い「寝っカフェ」に久しぶりに来た。ここは個室でシャワーもあり、なかなか使い勝手が良い。少々狭いかもしれないが、禁煙エリアがあり安いのがうれしい。始発まで十分寝れそうだ。ここ最近、徹夜監視パトなどでまともに寝ていないので、今日はともかく明日に備えて眠ることにする。神のない神無月…襲撃に遭い落ち着いて寝れない日雇いの同僚でもある野宿の仲間にとって、一時でもささやかな睡眠の機会になれば幸いだ。短いけれどもささやかな甘露な睡眠にアルコールはないがオレンジジュースで・・・乾杯。

★大阪市が平野区内でまたもやテント小屋撤去

2007-10-01 02:02:24 | Weblog
 釜ヶ崎界隈だけで世界が動いているかのように考えている人々には市内周辺部のことすらもはや関心のない事だろうが、同じ大阪市内の平野区内に市南部方面公園事務所が残存テント一掃を完成させようと必死になっている公園がある。(敢えて名称は出さない)その残存テント小屋4戸と居住の野宿者4名に対し、先週公園事務所の魔手が予想通りに延び、既に先週金曜日までに1戸が破壊され、気の弱い住人はどこかへ消えた。また、その横の小屋にも既にフェンスは延ばされようとしており、裏側から囲おうとしているフェンスが「はよ出て行け、もう囲うぞ」という無言の恫喝となっている。ここを回ってきた平野夜回りの会が把握しているかどうかは不明だが、もはや勢いに乗った南部方面公園事務所のやりたい放題となっている。不祥事をやらかし処分を受けている役人どもがいる同方面公園事務所がこんなことを「公園適性化」の名の下にやっているのだ。長居で今年2月に闘わず、ナメられるパフォーマンスをやって「抵抗した」という人々の恥さらしのせいで役人どもに野宿者は「抵抗できない奴ら」と侮られてしまった事は、告知もせず立ち入り禁止の黄色帯広テープでぐるぐる巻きにし、「不在」とみなしたテント小屋をいきなりフェンスで囲う周辺部での役人どものやりたい放題にも現れている。(当時周辺部の仲間たちは「芝居やってテントを守らん奴らのせいでナメられる」と心の底から怒っていたが、そんな声を何故かパフォーマンス首謀者らはくみ取ることはないらしい。そのことに失望した野宿者たちは元々運動に期待していた人たちだった。今年も10月に祭りをやるようだが、その背景で南部方面公園事務所が祭り騒ぎとは別に着々と排除に動いていることを忘れないでもらいたい)彼らは反省することもないが、その事によって周辺部で頑張っていた野宿の仲間たちがナメられ軽くあしらわれた事を重く受け止めねばならない。
ともかく長老が失踪してその小屋が有無を言わさず撤去されフェンスで囲われて以来、ここは公園事務所や巡回相談員の強い口調や甘言をあしらえる人がいなくなり、訪問しても反応が無い状態にすらなっていた。「釜ヶ崎に来ない連中は知らない」などという無礼で失礼な態度の運動は、ここでも周辺部の野宿者を「少数者」として見捨てている。そんな運動に何の未来があるというのか? 運動とやらに少なくとも筆者はもう何の希望も持たない。いずれにしても全く釜ヶ崎中心主義者たちの思考回路には閉口させられるばかりだ。残念だが、それが現実らしい・・・