パソコン教室きらく館教室日記

教室での出来事や塾長の生活を綴ってみます

「時代祭」バスツアー その3

2013-10-29 12:49:10 | 教室のイベント
時代祭が終わって、遅い時間の昼食をホテル京都ガーデンパレスでいただきました。
食事後「清水寺」にバスで向いました。
途中、修学旅行生のツアーやその他ツアーのバスで渋滞しており、
清水寺近くの駐車場についたのは5時近くになっていました。
帰途集合時間が6時だったので1時間しかなく、2年坂3年坂でお土産を買うくらいで留めることになりました。

すでに夕闇が迫っていました。



空が暗くなりかけ、街灯がともり始めた街の景観も味わいがあって悪くはありません。
一人歩きながら、この時この場所の趣きに酔えた一瞬でした。

二年坂三年坂


京都そして時代祭を詳しくご紹介していただいた添乗員さん、ありがとうございます。
安全運転で帰ってこれました、運転手さん、ありがとうございます。
参加されたみなさん、お疲れ様でした。次回をお楽しみに。



集合記念写真を作成しました。
色付きのフレームも準備しました。お好みの写真を差し上げます。


「時代祭」バスツアー その2

2013-10-26 13:41:12 | 教室のイベント
10月22日正午、いよいよ時代祭の行列行進がスタートしました。

観客席は5列あり立ち上がることができないので、最前列以外では前の人の頭が入ってしまいます。
それならと、最後列の後ろで三脚を立てて撮影することにしました。
かなり気温が高く、2時間立ったままのデジカメとビデオカメラ両方の撮影はきつい作業でした。

撮り終えて、写真を整理してみるとかなりバラツキが多いことに気付きます。
撮りやすかった対象、特に声・音楽や目立つ振付や衣装の行列を撮影したものが多く、
比較的地味な装いや関心の薄い衣装の行列は撮っていなかったり。
撮っておかなければいけない写真がなかったり。
事前の知識の吸収が足りなかったのでしょうが、
とても1回だけでは知ることができない重みを感じることができたのも事実です。
※小さな写真はクリックすると大きな写真にリンクします

明治維新「維新勤王隊列」
♪ピーヒャラ、ラッタッタと士気を鼓舞する軍楽隊の軽快なリズムに錦の御旗がひらめきます。
官軍の旗印、錦の御旗は、赤地の錦に金色の日像、銀色の日像を刺繍していました。
     

明治維新「維新志士列」
20歳~30歳の若さで明治維新を成し遂げた青年たちの功績を讃えて、列に加わりました。
 

江戸時代「徳川城使上洛列」
徳川幕府は、朝廷の重要な儀式などに将軍の名代として親藩または譜代の大名を城使として上洛させました。
大礼の時などは1700人に及び、一般の大名行列よりずっと盛大で格式の高いものでした。
  

江戸時代「婦人列」
江戸時代の京都で話題となり活躍した女性が登場します。
この時代は階層・年齢・季節などによって数々の服飾が現れ、結髪と衣装だけでも人物を特定できるところから、
個性豊かな女性の服装を網羅した列となっています。
  

安土・桃山時代「豊公参朝列」
豊臣秀吉公は、戦国の世を制して天下統一を成し遂げ、人臣最高位の関白太政大臣に昇り詰めたびたび参内しました。
最高級の牛車に『一日晴れ』と称される規定外の華やかな装束をまとった5名の大名が従います。
   

  

安土・桃山時代「織田公上洛列」
応仁の乱後、京都はさびれ果てていました。
織田信長は、正親町天皇のお召しに応じて兵を率いて上洛し、皇居の修復や街の復興に尽力しました。
この時代は鉄砲の伝来によって戦闘も変化し甲冑の多くは胴丸で、各部に鉄板を多用した当世具足と、
戦国武将の心意気を示す派手な兜飾りや馬印が特徴です。
  



室町時代「室町幕府執政列」
武家風俗を中心とするもので、足利将軍を中心とした当時の武士の軽武装姿を表現しています。
  

吉野時代「楠公上洛列」
後醍醐天皇が配流先の隠岐からの還幸にあたって、楠木正成が一族郎党を率いて兵庫に出迎え先駆して上洛しました。
多種にわたる華麗な甲冑や武具が一目に見ることができます。
 

「中世婦人列」
広い意味で中世と呼ばれるのは平安時代後半から桃山時代に至る時代を指します。
歴史上の人物だけではなく、職業集団ともいえる大原女、桂女の女性風俗も加わっています。


鎌倉時代「城南流流鏑馬列」
馬上から的を射る流鏑馬は、平安時代から武士のたしなみとして盛んに行われていました。
後鳥羽上皇は朝廷権力の回復を図るため、流鏑馬に託して城南離宮に近畿10余国の武士1700名余りを集め、
北条義時追討の挙兵を準備されました。
狩装束の射手武士を中心に童、弓袋差等の郎党を従えた5組で構成されています。


藤原時代「藤原公暁参朝列」
平安時代中期以降、唐様式の影響が薄れ、日本独自の国風文化が成熟し、こわ装束が起こり大いに容儀が整えられました。
装束は藤原氏全盛期の王朝風俗で、宮中での儀式に参加する文官・武官の夏正装姿です。
警護の随身や童等様々なお供も加わり、華やかな様子を表しています。


「平安時代婦人列」
この時代は女性の服装が大きく変化する時期で、遣唐使の廃止頃から日本文化は国風化の道をたどることになります。
奈良時代の様式の百済王朝明信から常盤御前・横笛・巴御前というように歴史に名を残す女性に託し、時代風俗の変化を示した構成です。
   

延暦時代「延暦文官参朝列」
文官が朝賀のため参朝する様を表しています。
服装は位袍と呼ぶ重複で、身分によって色が定められています。
平安遷都から間もないため、唐風が色濃く残されています。


「神餞講社列」
いよいよ祭事に携わる列となります。
前駆の神職に続き、神前にお供えする神饌唐櫃を先頭に、浄衣姿の膳手6人、騎馬した白装束姿の正副御饌長、
供奉する20人の水干姿の講員で構成されています。
いずれも神事にたずさわるための装束姿です。


「前列」
神幸列の前陣として直前を行くのが「前列」です。
御賢木に続いて警護役として金棒を持つ中座、キリコ座・ブチ座の下雑色や上雑色が続きます。
次いで華やかな迦陵頻伽・胡蝶の舞人、さらに、道中に雅楽を演奏する伶人や供奉の人々が続き、祭りの雰囲気が高まります。


「神幸列」
一年に一度両御祭神が市中を巡行され、市民の安らかなることを親しくご覧になる行列です。
江戸時代後期の様式に倣った御鳳輦には、前に孝明天皇、後に桓武天皇の御神霊が鎮座されています。


「白川女献花列」
比叡山に源を発する白川の流域に住み、季節の花を売り歩くことを業とする女性が白川女です。
その歴史は古く、平安時代中ごろから御所に花を届けていたとも言われています。





「時代祭」バスツアー その1

2013-10-24 20:59:23 | 教室のイベント
10月22日(火)恒例の秋のバスツアーを行いました。
「ルンルンツアーバス旅行~時代祭り」の企画をそのまま利用し、バスは貸切にしてもらいました。
観覧指定席、ホテル京都ガーデンパレスでの京料理付きです。
参加人数は24名。
台風27号が近づいており、前日翌日の天候が雨という綱渡り日程でした。

 8時50分 教室集合
 9時 教室出発
 11時 京都御苑着
 12時  行列行進開始
 14時  行列行進通過
 ~15時 昼食
 ~18時 清水寺周辺散策
 19時 教室到着・解散

時代祭とは、
 1895年(明治28年)、平安遷都1100年を記念して平安神宮が創建されました。
その時、平安神宮の大祭、建造物、神苑の保存のため、市民により平安講社が組織され、記念事業として時代祭が始まりました。
祭が行われる10月22日は、桓武天皇が794年(延暦13)に長岡京から平安京に都を移された日。

明治維新から延暦時代へさかのぼって、順次風俗、文物の変遷を再現します。
現在は20列、2000人に達し行列の長さは2キロに及びます。

※京都御所出てすぐの赤丸のところが、私たちが観覧した場所です。

祇園祭、葵祭とともに京都三大祭の一つに数えられ、 維新勤王隊を先頭に、正午、京都御所建礼門前を出発、
烏丸通、御池通、河原町通、三条通から平安神宮まで4.5キロ間に一大時代絵巻を展開します。


第70回KPSフォーラム例会

2013-10-13 11:33:49 | KPSフォーラム例会
今回で第70回になります。
開催場所は、奈良県北葛城郡上牧町にあるパソコン教室T&Hです。

 
街全体がのんびりとして、生活しやすそうな印象を抱かせる広々とした幅の道路
「パソコン教室T&H」は感じ良くまとまった外観と同様にきれいに整備・整頓された教室内でした。

  
道路を挟んだ向かいのインド料理のお店「ASIYANA」で、いつものようにお昼の食事会から始まりました。

今日の議題は、
(1)Action Packについて 12:45~14:15(約1時間半)
今回は記録を確認し、スキルテストのポイントをつかみ、全員で資格条件を獲得することを目標にしました。

(2)PowerPoint2010(アニメーション活用)さるかに合戦 14:15~15:45(約1時間半)
最近重要さをましてきたPowerPointを取り上げました。
ビジネスソフトとしての捉え方から、生徒さんが楽しめるホームユース、個人として利用の仕方を知ることに重点をおき、
授業として活用することを目的としていました。

 

(3)各教室からの報告

市販の時計に、文字盤に写真や画像をパソコンで加工し入れ替えてオリジナル時計に。
 

ノハナ(スマートフォンアプリ)を利用して、
撮った写真からアルバムに。
 
                      そろそろエンディングネートが必要になってきたか?
                      作成希望者が結構多い。


評判のあまりよくないSurfaceRTだけれど、価格麺から、Word・Excel+ネットを外で活用したい人には結構おすすめ。


セキュリティ対策のこと、作品作りのこと、パソコン選び、スマートフォンやタブレットのことなど、
たくさん意見を交換でき、生徒のみなさんに役に立つ情報の収穫がありました。
参加された先生方、今回もありがとうございました。

最後に記念撮影

イチゴの苗を植えました

2013-10-12 11:21:52 | 塾長の生活
昨日、浦さんからイチゴの苗をいただきました。
イチゴの種類は分かりませんが、
「以前浦さんからいただいたイチゴはとても美味しかった」と評判でした。
3年前、教室内でLEDでイチゴの栽培を試みたことはありましたが、
光量が足りずうまくいきませんでした。
今回は太陽の下でおいしいイチゴをたくさん実らせるために、自宅のベランダで育てることにしました。



土は、園芸用の土に「苦土石灰」を混ぜ合わせ、「配合肥料」「牛骨粉」を加えました。
5株の苗を植えて、液肥をたっぷりかけて植え付け完了しました。
美味しいイチゴがたくさんなりますように。




あ~! 世界遺産「石見銀山」

2013-10-07 12:29:35 | 塾長の生活
10/5 出雲大社の次に行ったのは、2007年に世界遺産に指定された「石見銀山」です。

世界遺産に登録までの経緯は、簡単なものではなかったようです。
『2007年5月、遺跡の「顕著な普遍的価値」の証明が不十分であることを理由に「石見銀山」の登録は延期となりました。
日本政府や地元は「世界遺産への登録は極めて厳しい」と判断しましたが、ユネスコの日本政府代表部は、110ページにわたる英文の「補足情報」を送るなどして、石見銀山の特徴である「山を崩したり森林を伐採したりせず、狭い坑道を掘り進んで採掘するという、環境に配慮した生産方式」を積極的に紹介し、巻き返しのための外交活動を展開しました。
その結果、「21世紀が必要としている環境への配慮」がすでにこの場所で行われていたことが反響を呼び、6月28日、世界遺産(文化遺産)としての登録が満場一致で決定されました。』

観光客がまず来る場所は、「石見銀山世界遺産センター」です。ここから各観光地区に向けて路線バスが15分おきに発車します。
『一般の観光コースは、
<町並みコース>
大森バス停 → 五百羅漢 → 旧川島家 → 熊谷家住宅 → 大森代官所跡
<銀山コース>
清水谷精錬所跡 → 龍源寺間歩 → 豊栄神社 → 石見銀山公園

『自然との共生栄えた銀山が衰退後、自然に溶け込みながらその遺跡を残して現代に至っている。
これを人類共通の財産として後世に引き継いでいきたい。(太田市観光協会)』

事前に、何人かの感想を聞いてみたものの十分その値打ちを説明してもらえることはありませんでした。
「見学は期待しない方がいい」「ほどほどでいい」という見解が多かったように思います。
そして私自身事前に観光案内などをみてもその価値がよく分からず、それほど期待もしていなかったと言えます。

私たちが、巡ったコースは一般観光コースではなく、一グループ20名までのガイドさんの付く「本谷地区ツアー」でした。

バスで約30分山の中を進み、バスをおりました。
 
さらに標高差300mほどの山を登っていきます。
一見変哲のない山歩きが続きます。

金生坑 → 大久保間歩 → 露頭掘り跡 → 釜屋間歩 を見て回りました。
※間歩は、江戸時代以前の坑道の呼び名、坑は、明治以降の坑道の呼び名
 金生坑

  大久保間歩

大久保間歩は最大の坑道跡で、入坑前の受付所で全員長靴に履き替え、ヘルメットをかぶり、懐中電灯を渡されました。
坑内は低いところは頭を打つくらいの高さしかなく、水たまりとぬかるみの真っ暗闇の坑道を奥へ奥へと進んでいきます。
坑内の写真はストロボで明るく写せていますが、この後の動画でも分かる通り、懐中電灯だけが頼りです。

  釜屋間歩

※釜屋間歩は、山師の安原伝兵衛が発見したといわれる坑道。
 発掘調査で見つかった階段やテラスなどの岩盤加工痕が四方に広がる。

ガイドさん付きのツアーはここで終わり、下山した後、当時(江戸時代)の鉱山町の風情を伝える大森町並み地区に向かいました。

石見銀山の政治経済の中心地だったところです。
武家や商家、社寺仏閣など様々な建物が混在しているのが特徴です。
往時の繁栄を感じ取ることができます。
 
 

大久保間歩入口



大久保間歩内




見て楽しめたり感動できる雄大な景観やうつくしい見晴らしを持たない「石見銀山」です。
世界遺産に登録されて6年目、
ここを訪れた多くの人にとって世界遺産としての価値を語ることは難しいのではないでしょうか?
また地元の方々にとっても同じく価値を広く知らせることがどれほど困難かを想像することができます。

室町時代から戦国時代に至る毛利氏の繁栄そして江戸時代の繁栄に大いに貢献したのは、ここ「岩見銀山」だったと言えます。
中国明朝時代に銀貨の原料として提供し、さらに陸と海のシルクロードを通ってヨーロッパへも流れ、世界の銀産出量の1/3を供給しました。
アジアの東のはてに「ジパングあり」のうわさを知って、当時の冒険者ははるばる海を越え種子島に渡り着いたのです。
その後、商人や宗教家(キリスト教徒)も来日しました。いずれ日本を植民地にしようという意図もあったのでしょう。

景観や壮大さを誇る多くの自然遺産や文化遺産と違い、
深い歴史知識から鉱山で働いていた人々の生活までを理解した方の語りによって
初めて世界遺産としての値打ちを知ることができたように思います。

ジパングの時代から営々と、世界では類いまれな日本人の気質と命を吹き込んで、様々に形を変えて
今に至るまで日本が世界に貢献できたことに思い至り、胸が熱くなりました。

これから「岩見銀山」を訪れるなら、地元の方が語ってくれるツアーに参加することをお勧めします。




出雲大社

2013-10-07 10:46:56 | 塾長の生活
長男夫婦に誘われて4人で行った1泊ツアーは、出雲大社、石見銀山、松江城周辺、境港水木しげるロード巡りでした。

深夜1時に大阪を出て、早朝7時半に福岡から来た長男夫婦と出雲大社駐車場で合流しました。
出雲大社60年に一度の遷宮の年とは言え、この時間さすがに人はまばらで、大鳥居をくぐって大社をゆっくり拝観することができました。

  

<因幡のシロウサギ>
大国主命には大勢の兄弟がいた。兄弟たちは因幡にいる評判の美女・八上姫を妻にしようと、大国主命を荷物持ちとして因幡に向かう。途中、淤岐の島からこちらに渡るためワニをだまし、全身の皮を剥かれて苦しんでいるシロウサギに出会う。
兄弟たちは「海水に浸って風に吹かれればいい」と嘘を教え、その通りにしたシロウサギは塩水が傷にしみ、痛さに泣き伏していた。
そこに遅れてやってきたのが大国主命。話を聞いた命は、「真水で体を洗い、ガマの穂にくるまれば、もとのような肌になる」と教える。その教えどおりにすると、ウサギの体はもとどおりになった。
ウサギは「兄弟たちは八上姫を妻にはできず、あなたこそが結ばれるでしょう」と予言。その予言どおりに八上姫は大国主との結婚を希望した。

『幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)』
 

           

 時に海を照して依り来る神あり。
 吾在るに由りての故に汝その國造りの大業を建つるを得たり。
 吾は汝が幸魂奇魂なり。
 大國主神これ吾が幸魂奇魂なりけりと知りぬ。

古事記また日本書紀に述べるところであります。
出雲大社の御祭神大國主大神はこの幸魂奇魂の"おかげ"をいただいて神性を養われ「ムスビの大神」となられました。
生きとし生けるものすべてが幸福になる「縁」を結ぶ"えんむすびの神"と慕われるゆえんであります。
およそ人が人であるということは幸魂奇魂というムスビの"みたま"をわが身にいただいて靈止すなわち人として生かされているからであります。
大神からいただいたこの"いのち"を感謝して大切に正しくこれを生かしきりましょう。
出雲大社ではこの御神教にちなんで
 さきみたま くしみたま
 まもりたまひ さきはへたまへ
と唱して御神縁を祈念いたします。
この「ムスビの御神像」は大國主大神が有難く「幸魂奇魂」を拝戴される由縁を象徴しております。


<国譲り>
大国主命が築いた葦原中つ国を統一しようと考えたのは高天原の天照大神。
交渉の使者としてまず、天穂日命を送るが大国主命に簡単に服従。続く天若日子は大国主命の娘と結婚してしまう。そこで登場するのが建御雷神だ。
談判の場は稲佐の浜。「否、然(NoかYesか)」と国譲りを迫る建御雷神に大国主命は、「息子の事代主神に聞いてほしい」と答える。美保関に釣りに行っていた事代主神は呼び戻され即座に服従するが、もう一人の息子・建御名方神が現れて力比べをいどむ。
しかし建御雷神の強さはけたはずれで建御名方神は敗走。信濃の諏訪湖に追いつめられて降伏する。こうして葦原つ中国は天照大神の子孫に譲られることになった。
このとき、大国主命の「見返りに壮大な御殿を作ってほしい」という願いによって造営された宮殿が出雲大社の神話上の機嫌と言われる。
囲碁、天照大神の子孫は「目に見えること」を、大国主命は縁結びなどの「目に見えないこと」を司るようになったという。

  

  

今まで知らなかった「出雲大社」「大国主命」「神話時代」のことなどをこの機会に知ることができました。