パソコン教室きらく館教室日記

教室での出来事や塾長の生活を綴ってみます

あ~! 世界遺産「石見銀山」

2013-10-07 12:29:35 | 塾長の生活
10/5 出雲大社の次に行ったのは、2007年に世界遺産に指定された「石見銀山」です。

世界遺産に登録までの経緯は、簡単なものではなかったようです。
『2007年5月、遺跡の「顕著な普遍的価値」の証明が不十分であることを理由に「石見銀山」の登録は延期となりました。
日本政府や地元は「世界遺産への登録は極めて厳しい」と判断しましたが、ユネスコの日本政府代表部は、110ページにわたる英文の「補足情報」を送るなどして、石見銀山の特徴である「山を崩したり森林を伐採したりせず、狭い坑道を掘り進んで採掘するという、環境に配慮した生産方式」を積極的に紹介し、巻き返しのための外交活動を展開しました。
その結果、「21世紀が必要としている環境への配慮」がすでにこの場所で行われていたことが反響を呼び、6月28日、世界遺産(文化遺産)としての登録が満場一致で決定されました。』

観光客がまず来る場所は、「石見銀山世界遺産センター」です。ここから各観光地区に向けて路線バスが15分おきに発車します。
『一般の観光コースは、
<町並みコース>
大森バス停 → 五百羅漢 → 旧川島家 → 熊谷家住宅 → 大森代官所跡
<銀山コース>
清水谷精錬所跡 → 龍源寺間歩 → 豊栄神社 → 石見銀山公園

『自然との共生栄えた銀山が衰退後、自然に溶け込みながらその遺跡を残して現代に至っている。
これを人類共通の財産として後世に引き継いでいきたい。(太田市観光協会)』

事前に、何人かの感想を聞いてみたものの十分その値打ちを説明してもらえることはありませんでした。
「見学は期待しない方がいい」「ほどほどでいい」という見解が多かったように思います。
そして私自身事前に観光案内などをみてもその価値がよく分からず、それほど期待もしていなかったと言えます。

私たちが、巡ったコースは一般観光コースではなく、一グループ20名までのガイドさんの付く「本谷地区ツアー」でした。

バスで約30分山の中を進み、バスをおりました。
 
さらに標高差300mほどの山を登っていきます。
一見変哲のない山歩きが続きます。

金生坑 → 大久保間歩 → 露頭掘り跡 → 釜屋間歩 を見て回りました。
※間歩は、江戸時代以前の坑道の呼び名、坑は、明治以降の坑道の呼び名
 金生坑

  大久保間歩

大久保間歩は最大の坑道跡で、入坑前の受付所で全員長靴に履き替え、ヘルメットをかぶり、懐中電灯を渡されました。
坑内は低いところは頭を打つくらいの高さしかなく、水たまりとぬかるみの真っ暗闇の坑道を奥へ奥へと進んでいきます。
坑内の写真はストロボで明るく写せていますが、この後の動画でも分かる通り、懐中電灯だけが頼りです。

  釜屋間歩

※釜屋間歩は、山師の安原伝兵衛が発見したといわれる坑道。
 発掘調査で見つかった階段やテラスなどの岩盤加工痕が四方に広がる。

ガイドさん付きのツアーはここで終わり、下山した後、当時(江戸時代)の鉱山町の風情を伝える大森町並み地区に向かいました。

石見銀山の政治経済の中心地だったところです。
武家や商家、社寺仏閣など様々な建物が混在しているのが特徴です。
往時の繁栄を感じ取ることができます。
 
 

大久保間歩入口



大久保間歩内




見て楽しめたり感動できる雄大な景観やうつくしい見晴らしを持たない「石見銀山」です。
世界遺産に登録されて6年目、
ここを訪れた多くの人にとって世界遺産としての価値を語ることは難しいのではないでしょうか?
また地元の方々にとっても同じく価値を広く知らせることがどれほど困難かを想像することができます。

室町時代から戦国時代に至る毛利氏の繁栄そして江戸時代の繁栄に大いに貢献したのは、ここ「岩見銀山」だったと言えます。
中国明朝時代に銀貨の原料として提供し、さらに陸と海のシルクロードを通ってヨーロッパへも流れ、世界の銀産出量の1/3を供給しました。
アジアの東のはてに「ジパングあり」のうわさを知って、当時の冒険者ははるばる海を越え種子島に渡り着いたのです。
その後、商人や宗教家(キリスト教徒)も来日しました。いずれ日本を植民地にしようという意図もあったのでしょう。

景観や壮大さを誇る多くの自然遺産や文化遺産と違い、
深い歴史知識から鉱山で働いていた人々の生活までを理解した方の語りによって
初めて世界遺産としての値打ちを知ることができたように思います。

ジパングの時代から営々と、世界では類いまれな日本人の気質と命を吹き込んで、様々に形を変えて
今に至るまで日本が世界に貢献できたことに思い至り、胸が熱くなりました。

これから「岩見銀山」を訪れるなら、地元の方が語ってくれるツアーに参加することをお勧めします。




出雲大社

2013-10-07 10:46:56 | 塾長の生活
長男夫婦に誘われて4人で行った1泊ツアーは、出雲大社、石見銀山、松江城周辺、境港水木しげるロード巡りでした。

深夜1時に大阪を出て、早朝7時半に福岡から来た長男夫婦と出雲大社駐車場で合流しました。
出雲大社60年に一度の遷宮の年とは言え、この時間さすがに人はまばらで、大鳥居をくぐって大社をゆっくり拝観することができました。

  

<因幡のシロウサギ>
大国主命には大勢の兄弟がいた。兄弟たちは因幡にいる評判の美女・八上姫を妻にしようと、大国主命を荷物持ちとして因幡に向かう。途中、淤岐の島からこちらに渡るためワニをだまし、全身の皮を剥かれて苦しんでいるシロウサギに出会う。
兄弟たちは「海水に浸って風に吹かれればいい」と嘘を教え、その通りにしたシロウサギは塩水が傷にしみ、痛さに泣き伏していた。
そこに遅れてやってきたのが大国主命。話を聞いた命は、「真水で体を洗い、ガマの穂にくるまれば、もとのような肌になる」と教える。その教えどおりにすると、ウサギの体はもとどおりになった。
ウサギは「兄弟たちは八上姫を妻にはできず、あなたこそが結ばれるでしょう」と予言。その予言どおりに八上姫は大国主との結婚を希望した。

『幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)』
 

           

 時に海を照して依り来る神あり。
 吾在るに由りての故に汝その國造りの大業を建つるを得たり。
 吾は汝が幸魂奇魂なり。
 大國主神これ吾が幸魂奇魂なりけりと知りぬ。

古事記また日本書紀に述べるところであります。
出雲大社の御祭神大國主大神はこの幸魂奇魂の"おかげ"をいただいて神性を養われ「ムスビの大神」となられました。
生きとし生けるものすべてが幸福になる「縁」を結ぶ"えんむすびの神"と慕われるゆえんであります。
およそ人が人であるということは幸魂奇魂というムスビの"みたま"をわが身にいただいて靈止すなわち人として生かされているからであります。
大神からいただいたこの"いのち"を感謝して大切に正しくこれを生かしきりましょう。
出雲大社ではこの御神教にちなんで
 さきみたま くしみたま
 まもりたまひ さきはへたまへ
と唱して御神縁を祈念いたします。
この「ムスビの御神像」は大國主大神が有難く「幸魂奇魂」を拝戴される由縁を象徴しております。


<国譲り>
大国主命が築いた葦原中つ国を統一しようと考えたのは高天原の天照大神。
交渉の使者としてまず、天穂日命を送るが大国主命に簡単に服従。続く天若日子は大国主命の娘と結婚してしまう。そこで登場するのが建御雷神だ。
談判の場は稲佐の浜。「否、然(NoかYesか)」と国譲りを迫る建御雷神に大国主命は、「息子の事代主神に聞いてほしい」と答える。美保関に釣りに行っていた事代主神は呼び戻され即座に服従するが、もう一人の息子・建御名方神が現れて力比べをいどむ。
しかし建御雷神の強さはけたはずれで建御名方神は敗走。信濃の諏訪湖に追いつめられて降伏する。こうして葦原つ中国は天照大神の子孫に譲られることになった。
このとき、大国主命の「見返りに壮大な御殿を作ってほしい」という願いによって造営された宮殿が出雲大社の神話上の機嫌と言われる。
囲碁、天照大神の子孫は「目に見えること」を、大国主命は縁結びなどの「目に見えないこと」を司るようになったという。

  

  

今まで知らなかった「出雲大社」「大国主命」「神話時代」のことなどをこの機会に知ることができました。