パソコン教室きらく館教室日記

教室での出来事や塾長の生活を綴ってみます

原爆記念日、終戦記念日を迎えて思うこと

2018-08-16 14:35:25 | 塾長のまじめな話
原爆の被害、悲惨な敗戦の痛手は、日本人の心に深く刻まれました。
二度とこのような被害は繰り返したくない、平和への悲願はほとんどの日本人が共有していることでしょう。
だから、戦争があったことのために自己そのものに対して否定的(自虐的)に受け止めているように思われます。

中国や韓国など隣国から「日本は侵略戦争をし、アジアに多大な迷惑をかけた」と言われ続け、日本人自身もそのように思い込んできました。
本当にそうでしょうか?

「原爆は落とした方が悪いのか、落とされた方が悪いのか」「日本人は侵略戦争を戦ったのか」考えみたいと思います。

広島平和記念公園の中にある原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませんから」
主語がないこの文章、一体過ちを犯したのは誰なのでしょうか?
日本人自身に「自分たちが悪かった」と暗示させる言葉です。
しかし、その言葉をただ繰り返すのではなく、アジアの人たちの公平な見方や公平な声に心の眼を向けてみましょう。

タイの戦後初の文民首相で、首相になる前にタイの日刊新聞「サイヤム・ラット」紙の主幹を務めた作家でもあったククリット・プラモード氏が、
1955年に同紙上に載せた「12月8日」と題した詩を紹介します。
 ※12月8日は、日本軍が真珠湾を攻撃し開戦した日

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タイ 「東南アジア諸国が欧米と対等に話ができるのは日本のおかげ」

「日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは難産して母体をそこなったが生まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは一体誰のお陰であるのか。
それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。
12月8日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意された日である。
さらに8月15日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。
我々はこの二つの日を忘れてはならない」

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<私の感想>

大東亜戦争は、日本に大きな惨状をもたらし終結しました。
その結果、欧米諸国はアジア植民地という権益を失い、アジア諸国は独立し、自らの努力と犠牲と苦労を自らのものとすることができるようになりました。
長い歴史から見て、人々はこの結果をどう評価するでしょうか?

大きな犠牲と代償を伴う戦争に「していい戦争」と「してはいけない戦争」があると認めたくはありません。
しかし、振り返って人々の悲惨な戦いの後に人類に貢献できた戦争があったのも事実です。
例えばアメリカの南北戦争は、アメリカ史の上ではもっとも悲惨だったと言われていますが、人を奴隷として扱う「奴隷制度」廃止につながりました。
人類史上の汚点となる「奴隷制度」、でも経済の基盤である制度が話し合いで廃止されることはあり得なかったでしょう。
それをもって「正義の戦争」とは言いません。

平和を愛し、節度をわきまえ、人の道を重んじる日本人の値打ちと誇りは代々受け継がれてきたものです。
大東亜戦争に従軍した世代の方々は少なくなっています。
この世代の日本人が、欧米諸国のような他国を植民地にすることを目的とした戦争をしたわけではありません。
戦争の中で誇り高く生きあるいは死んでいった彼らを、今を生きる日本人が名誉回復せずに、だれがするのでしょうか?
子々孫々に至るまで「悪かった」と言い続けることが正しいとは思えません。



<その他アジア各国の日本を称賛する声を紹介します>

【ビルマ】

ビルマには、イギリスに滅ぼされた王朝最後の王子が残した伝承がありました。

「いつか白馬にまたがった雷帝が東方からやってきて、ビルマを救出し解放する。雷帝の稲妻の進撃は英国軍を追放する(参考図書『雷帝、東方より来る』)」というものです。

日本は、後の首相オンサン、大統領ネウィンを始め、多くの志士を軍事訓練し独立義勇軍を結成して英国軍と戦いました。

英国軍の一個大隊は戦わずして潰走(かいそう:戦いに負けた隊が四分五裂になって逃げること)、英駐留部隊も2日で陣地を放棄するなど、首都ラングーンを陥落させ後に、義勇軍は独立政府を樹立、ビルマはイギリスから解放されたのです。

第15軍司令官・飯田中将はビルマの民衆に向かってラジオから次のような布告を発しました。

「親愛なるビルマ1500万の民衆に告ぐ!日本軍のビルマ進撃の目的は、最近百年間の搾取と圧政を事とせる英国勢力を一掃し、ビルマ民衆を解放して、その宿望たる独立を支援し、もって東亜永遠の安定確保と世界平和に寄与せんとするに外ならぬ。しかして勇敢なるビルマ独立義勇軍兵士よ、今こそは祖国の独立と栄光のために決起すべき秋(とき)なるぞ。必勝不敗の大日本帝国軍は諸士とともに進軍す。進め必勝の信念の下に!」

━━━バー・モウ元首相(自伝『ビルマの夜明け』)

「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかし真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった。」

━━━ウー・ヌー元外相 (1943年8月1日独立時の演説)

「歴史は、高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためにのみ生命と財産を犠牲にした例をひとつくらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える。」

【インド】

「藤原機関」は、「英国からのインド独立運動の支援」を任務としていました。

同機関の国塚少尉は、「至誠、仁愛、情熱」をもってインド兵に接しました。日本軍はインド兵を殺さないという噂が広まると、英国軍に所属していたインド兵が次々に投降してきたのです。

国塚少尉の「至誠」に心を開いたモン・シン大尉は、インド独立のために立ち上がる決意を固め、インド国民軍は日本軍と同盟関係を結んだのです。

インド国民軍は、英印軍のインド将兵を自軍に引き入れることでインド国民軍は日を追って増えていきました。

「英軍降伏」の報がもたらされ、国塚少尉とモン・シン大尉が外に飛び出すと、いっせいに万歳の声があがりました。

その後のマレー・シンガポール攻略戦は、1200キロの距離を72日で快進撃し、兵力3倍の英軍を降伏させて、10万余を捕虜とした名作戦として世界から賞賛されています。

━━━グラバイ・デサイ弁護士会会長・法学博士(1946年 デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市〈ふじわら・いわいち〉機関長に対する挨拶)

「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で30年早まった。」

━━━P・N・レイキ最高裁弁護士(靖国神社への書簡より)

 「太陽の光がこの地上を照らすかぎり、月の光がこの大地を潤すかぎり、夜空に星が輝くかぎり、インド国民は日本国民への恩を決して忘れない。」

【インドネシア】

オランダの植民地で大東亜戦争が始まると僅か9日間でオランダ軍を排斥した日本軍は、軍事訓練を指導して4万名のインドネシア人将校を養成。敗戦後も日本に帰らず残留して、インドネシアの独立を支援し共にオランダ軍と戦いました。

━━━サンパス元将軍 復員軍人省長官(1957年来日の際の発言)

「特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せずインドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれたことです。日本の戦死者は、国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲賞を贈っているが、それだけですむものではありません。」

【マレーシア】

イギリス植民地時代、マハティール首相は、「イギリスの植民地時代には民主主義など存在しなかった。専制的で権威主義的な支配であった」と述べ、マレイ大学副学長ウンクアジズ氏は「日本軍の大東亜戦争があったため、マレーシアの独立は50年早まった」と述べています。

━━━ラジャー・ダト・ノンチェック元上院議員(1988年クアラルンプール邸にて土生良樹氏への言葉)

「私たちアジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。日本軍は、永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、驚異の感動と自信とを与えてくれました。(中略)マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育をおこなってくれたのです。」

━━━ガザリー・シャフィー元外務大臣(1988/7/19 於・赤坂プリンスホテル)※日本政治家の「大戦において貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」との挨拶に対して。

「日本はどんな悪いことをしたというのか?マレー半島で南下したときの日本軍は凄かった。わずか3ヶ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。日本は敗れたが、英軍は再び取り返すことができずマレーシアは独立したのだ。」

PL花火の思い出

2018-08-12 09:48:56 | 教室情報
今年の花火は、例年より発射本数が少なく、時間も大分短く早々に終わってしまった印象です。
正直に言うと少しがっかりでした。
写真撮影にも身が入らずうまく撮れなかったので、Yさんに写真をお借りしました。

      

<<過去にさかのぼってみます。>>

<2016年PL花火>

45分に凝縮された音と光はやはりいいものだ。
毎年味わい方は変わっても、最後の打ち上げが終わって暗闇が戻った時、
今年も良かったと思える。


<2015年PL花火>
2015年PL花火大会その1


2015年PL花火その2

昨年のクロージングは少しがっかりさせられてしまったので、今年はあまり期待していませんでした。
しかし、今年は8時過ぎ、しとやかに始まり、徐々に盛り上がり、エンディングの前にこれまでみたことのない花火の連続打が出て、しばらくの沈黙の後、フィナーレを迎えました。お見事!!


<2014年PL花火>


数千発もの花火が一瞬で上がるラストは、まばゆい光と腹をつんざく轟音!
真昼のごとき輝きと轟音で、夏の祭りは終わりを告げます。




<2013年PL花火>


今日は、PL花火大会でした。
午後8時から上がり始め、8時45分にクライマックスを迎えました。
毎年、打ち上げている時間が短くなり、物足りなさを感じる反面、
単調な間延びした繰り返しが減った分飽きのない凝縮された充実さも感じられました。


<2012年PL花火大会>

7時55分に始まり、8時45分にクライマックスの歓声とどよめきで終わりました。
台風の接近のため、開始前少し雨が降りました。それがかえって過ごしやすさ招き、風が花火の煙を吹き飛ばし、花火大会として絶好の気候を呼び込んでくれたようです。