『アルツハイマー型認知症(以下、「AD型認知症」と略記する)』を発病する直接の原因となる「第二の要件/加重要因」とは、(自分なりに追及する特定の「テーマ」が無く、生き甲斐なく、趣味なく、交友なく、運動もせず、目標となるものが無い)という、ナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」が、開始され、継続することです。そして、「発病の加重要因」であるナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」が、開始される為には、その「キッカケ」となる「生活状況の大きな変化」(或いは、「生活上の大きな出来事」)の発生という関門が有るのです。
「左脳偏重」(或いは、「仕事中心」)の(価値観)を、『第二の人生』に入っても変えることが出来ない人達は、「AD型認知症」を発病するリスクが或る程度高いのですが、(他方で)、生き方に対する考え方(価値観)に/特別の問題がない人達の場合でも(或いは、趣味や遊びや人付き合いや運動など、自分なりの「テーマ」や目標や生き甲斐がある人達でも)、「生活状況の大きな変化」或いは、「生活上の大きな出来事」の発生に遭遇したときに、その状況に対する/当の本人の受け止め方次第で/、ナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」に入って行くことが、相当の割合で、起きて来るという現実の実態を、直視してみる必要があるのです。
注)私たち「二段階方式」が「三段階に区分」する「AD型認知症」の症状は、軽い方から順番に、「軽度認知症(小ボケ)」、次いで「中等度認知症(中ボケ)」、最後が/末期の段階である「重度認知症(大ボケ)」となるのですが、『「AD型認知症」のことを、極めて重度の物忘れの症状が特徴の「神経変性疾患」だと、憶測により誤解した儘の』世界中の全ての権威機関は、本当の意味での早期の段階である「小ボケ」及び「中ボケ」を、無知に因り見落としていて、末期の段階である「大ボケ」の段階で初めて、発病だとする愚を犯しているのです。
ナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」が始まる分岐点は、2つあります。(1つは)、「生活状況の大きな変化」或いは、「生活上の大きな出来事」に遭遇するかどうか/、(そしてもう1つは)、遭遇した「生活状況の大きな変化」或いは、「生活上の大きな出来事」の発生に直面した時に、従来培ってきた自身の生き方を維持出来ない状況の発生に負けて、心が折れてしまい、何事に対しても「意欲」を喪失してしまうことになるか/ならないかの問題なのです!!
「生活状況の大きな変化」或いは、「生活上の大きな出来事」との遭遇に負けてしまい、心が折れて、(「意欲」を掻き立てたり、特定の対象に「注意を集中」したり、或いは異なる複数の対象に「注意を分配」したり)する機会、『前頭葉』機能が活性化する「新たなテーマ」を見つけ出すことが出来ない人は、「機能発揮上の二重構造」の関係から、(①「前頭葉の三本柱」の機能の出番が、極端に少ないことに端を発して、②「評価の物差し」の機能の出番が極端に減って来て、③「実行機能」が働く機会も極端に減ってしまい、ナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」が開始されて、継続して行くこととなるのです。その行き着く先に、『AD型認知症』の発病の最初の段階である、「軽度認知症(小ボケ)」の段階が有り、次いで、「中等度認知症(中ボケ)」の段階を経由して、最後は、末期の段階である「重度認知症(大ボケ)」の段階へと至るのです。
この場合の、『重要な注意点』として、以下の(四つ)が有るのです。
(一つ目)は、『意識』が覚醒した/目的的な世界は、①「評価の物差し(=意識の首座=自我=脳の中のホムンクルス)」に因る評価/注意/関心/観方に従い、②「注意の分配力」の機能が、③「実行機能(Executive Function)」を駆使して、④所定の目的を実行し、⑤所期の目標を達成して行く世界なのです。
上記に説明した、「意識の機能構造(二段階方式が、世界で初めて提示する機能構造なのです)」が、『AD型認知症』の発病及び症状の重症化の進行と密接不可分の関係に在って、『AD型認知症』の発病のメカ及び真の正体(本態)は、①廃用症候群に属する/②老化・廃用型の/③生活習慣病に過ぎない/と主張する、私たち「二段階方式」が提示する結論を導いてくれているのです。
(二つ目)は、『AD型認知症』の発病である場合、即ち、廃用性の加速度的で異常な機能低下が進行して行く際は、(より高度な機能から順番に)機能の衰えが、進行して行くのが特徴なのです。順番とは、『①前頭葉機能』⇒「②左脳」⇒「③右脳」⇒「運動の脳」の、厳密な順番が存在していることなのです(世界初で、私たち「二段階方式」だけが提示出来ている特徴)。
(三つ目)は、本当の意味での早期の段階であり、①症状の回復が可能である「軽度認知症(小ボケ)」は、「社会生活」面だけに重大な支障が有り及び②症状の重症化の進行の抑制が未だ可能である「中等度認知症(中ボケ)」は、「家庭生活」面にも重大な支障が有り、③末期の段階であり、為す術が何も残されていない「重度認知症(大ボケ)」の段階は、「セルフ・ケア」の面にも重大な支障が有る為に、「介護」が必要となるのです。
(四つ目)は、本当の意味での早期の段階である「軽度認知症(小ボケ)」の「標準的な滞留期間」は3年間であり、「中等度認知症(中ボケ)」の「標準的な滞留期間」は2~3年間となります。
猶、末期の段階である「重度認知症(大ボケ)」には、「標準的な滞留期間」は存在していなくて、(大ボケ)の枠の中で、「身体がもつ限り/症状が、更に重いものになって行く」だけなのです。
また、注意すべきは、『(小ボケ)と(中ボケ)については、「標準的な滞留期間」の存在が確認される』と言う訳なのですが、このことを言い換えると、『本当の意味での「早期の段階」である「軽度認知症(小ボケ)」及び「中等度認知症(中ボケ)」の段階の場合には、日々の「脳の使い方」としての「生活習慣」の具体的な内容/在り方が、「左脳」及び「右脳」に、①良い影響/又は、②悪い影響を及ぼして』、①良い影響である場合は、『同じレベルでの滞留期間が長くなり』、②悪い影響である場合には、『同じレベルでの滞留期間が短くなり、次の段階へと重症化が進行する』こととなるのです。極めて多数で/極めて精緻な/この「脳機能データ」の解析から見た時、エーザイが、「アミロイドβ仮説」を理論的根拠に開発した『レカネマブ』の効能の評価に際して、上記に取り上げた、『脳の老化のスピード差』をもたらす『生活習慣の要因』を排除することも無く、効能の有無、即ち「因果関係の有無」を評価したデータを、根拠としていることには、致命的な欠陥が有ると言うことになる訳なのです。
即ち、効能の有無の評価に、極めて主観的な評価基準の内容であり、主観的な評価結果を単に数値化するだけの手技である「CDR」に依拠した評価であることに加えて、この致命的な欠陥が、重ねて存在しているのであり、「AD型認知症」に対する「治療薬」との謳い文句とは裏腹に、余りにもお粗末な代物(①早期の段階であろうとも、症状の進行を遅らせる効能は、皆無なのであり、/②あるのは、脳出血/脳浮腫/脳の萎縮の副作用だけ)と言うしかないのです。
猶、このことに関しては、『脳の老化のスピード差をもたらす生活習慣要因』と言う「脳機能データ」として、私たち「二段階方式」方式は、実務化/マニュアル化しているのです【下図を参照】。
「前頭葉」機能の老化を加速させ、「AD型認知症」の発病の引き金となるナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」が始まる「キッカケ」となる「生活状況の大きな変化」、或いは、「生活上の大きな出来事」とは、どのようなことを言うのか。それを要約すると、次の2つの類型に集約されます(分かりやすくする為に、典型的な事例を取り上げて/例示的に説明しておきます)。
『20年間も、30年間も長く続く「第二の人生」が、当たり前となってきた現在、誰にでも、何時でも起きて来そうなものばかりだとは、思いませんか』
※ 第一の類型(「生活状況の大きな変化」の発生)
波乱万丈というのは余りないケースだと思うのですが、私達が「第二の人生」を生きていく上でも、自分を取り巻く「生活状況」に、様々な変化が/誰でも/何時でも/起きて来るものなのです。
運や不運、幸福や不幸、事故や事件、家庭内の問題、組織内での様々な人間関係の軋轢など、自分を取り巻くそうした「生活状況(環境)」が、様々に変化して行くものなのです。
時には、思いもよらない状況や環境の変化が起きてくる中で、それでも頑張って生きていこうという「意欲」(状況や環境の変化に対する対策や対処の仕方を考え、自分なりの「生き方」を実践していこうとする意欲)をこれまで支えて来てくれた「核となる生活習慣/自分なりの生き方」が、継続出来なくなってしまうような「生活状況の大きな変化」が起きて来ること、それが、ナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」に入っていくことになる「キッカケ」/の『一つのパターン』なのです。
以下に、具体例をいくつか示して、説明しましょう(私たち「二段階方式」が、北海道から九州に跨る全国的規模、452の先駆的な市町村との、有償で/有期の『「二段階方式」のソフトの使用許諾契約の締結』に因り、①対象を「AD型認知症」に特化した活動であり(医行為が介入して来ない為に、保健師さんが、全業務を/一元的に/管理し、実施出来る為であり、且つ、様々な種類が数ある認知症の内の大多数、90%以上を「AD型認知症」が占めていることが、最大の理由)、②「早期発見と早期治療」の実施による/症状の回復及び発病自体の予防を明確な目的とした、③『住民参加型の地域予防活動』の実践展開の具体的な指導(マニュアル化/実務化済であり、保健師さんが実践し易いように、図式化/様式化が徹底していて、理解し易いように/ 使い易いように、工夫して書かれている)の顕著な成果により、世界でも極めて稀な、極めて精緻で/極めて多数の「脳機能データ(生きた高齢者の、「前頭葉」機能を/精緻なレベルで評価/判定したデータであることが、特徴) 」を集積し、解析した根拠を基礎とした主張内容であること並びに、『主張内容が正しいことについて、疫学的方法により、実証済みであることが、特徴』なのです。
憶測にすぎず、権威だけを笠に着た、誤りダラケの提示規定内容である『DSM-Ⅳ』の基準やら、発病/症状の進行との間の因果関係の実証さえ出来ていない、出鱈目な内容の『アミロイドβ仮説』等とは、異次元のレベルと質を誇るのです。
☆ 趣味や遊びや人付き合いや運動を楽しむ体験というものが殆ど無くて、言わば「仕事一筋」の人生を送って来た(且つ、その生き方を良しとする価値観)人にとっての「定年退職」:
「左脳」(仕事)中心の生活だけを生き甲斐に「第一の人生」を送って来た人は、定年退職や家業の廃止や家業を息子に譲って/仕事がない毎日が始まり、「左脳」を使う機会が極端に少なくなっても、趣味や遊びや人づきあいや運動など、「右脳」や「運動の脳」を使う機会となる「テーマ」への切り替えが出来ないのです。その為に、(時間だけはたっぷりあるのに、することがない)毎日、{「前頭葉」機能(前頭前野の穹窿部に局在する複合機能体を言うものとする)の出番が極端に少ない}ナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」で、日々を過ごすことになるのです。
文字通り/「仕事一筋/仕事一辺倒/会社人間/企業戦士」(左脳偏重)の価値観と生き方で/「第一の人生」を渡って来ていて、そうした「生き方/価値観」に対する自分なりの満足感/達成感が有り、その一方で、右脳(趣味や遊びや人付き合い)がらみの体験にも、運動の脳(スポーツや運動)がらみの体験にも、乏しかった人生だったのです。その為に、「趣味とか/遊びとか/人付き合いとか/運動とか」に対して、価値がおけなくて/、そのような「些事」に熱中することが、出来ないのです。
そうした「些事」が、自分が(自分ほどの者が)「第二の人生」を生きて行く上でのメインの「テーマ」となる日常等には、価値が置けないと感じるのです。そうした「価値観」を引きずっている限り、「第二の人生」に入っても、「前頭葉の三本柱」の機能である「意欲」や/「注意の集中力」や/「注意の分配力」を積極的に使う機会となる「テーマ」自体を見つけることが出来ないのです。
そうした考え(自分なりの「第一の人生」を支えてきた価値観)を引きずる「高齢者」は、やっと出会った(見つかった)趣味や遊びや交遊の機会なのに、その「楽しみ方」を知らないのです。「趣味や遊びや交遊を、自分なりに、楽しむべき機会」なのに、そのやり方がまるで「仕事そのもの」なのです。「第二の人生」での「趣味や遊びや交遊」のやり方に、「第一の人生」での「仕事」を遂行するとき使っていた「ルール」を適用しようとしてしまうのです。そのうえ、「周りの目」とか、「周りが自分のことをどう考えているか」ばかりを、気にするのです。
こうした「左脳(仕事)」偏重の価値観が根底にあるので、「第一の人生」では/顧みることもなく見過ごしてきた「テーマ」、結果よりも体験することや経過を楽しむことを重要な価値とするような「テーマ」の設定が出来ないのです。趣味や遊びや人付き合いや運動も、全てが「仕事」を目的とするときと同じやり方(或いは、同じ「目標」設定のやり方)でしか、出来ないのです。
その結果、やっと見つけた「テーマ」も、(体験すること自体や体験する過程)を自分なりに楽しむことが、出来ないのです。
第一の人生での「仕事」と同じように/結果重視で設定した「目標」を達成出来ないことで、次第に「やる気/意欲」を失くして行き、途中で止めてしまうのです。そして、(一度、失敗を体験すると)、失敗を恐れて/他の新しい「テーマ」には、挑戦しようとしなくなるのです。終いには、『有り余る時間を、持て余すことになり」、ナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」を日々過ごす中で、出番が極端に少ない「前頭葉の三本柱」の機能/ひいては、『前頭葉』機能が、老化を加速させて行くことになるのです(=廃用性の加速度的で異常な機能低下が、日々進行して行く!!)。
☆ 「遊び」も、「運動」も、「人付き合い」も楽しむことがなく、やっと見つけた「特定の趣味」だけが生き甲斐の人が、その「趣味の会への参加を中止」せざるを得なくなること:
もともと人付き合いが苦手だった私が、誘われて行き始めた「趣味」にのめり込んで、「第二の人生」を生きる上での大きな「支え(生き甲斐)」となっていたのです。
ところが、「趣味の会」の先生が高齢を理由にその会を中止されてしまったのです。普通なら、他の会に参加することや、他の趣味を見つけることを考える筈なのに、私にはそれが出来ないのです。その特定の「趣味の会」が中止されたら、他の「テーマ」を見つけることが出来なくて、そのままナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」に入って行くことになるのです。
☆ 親や兄弟、子や孫、友人、ペットなど大事な人や動物との「別離や死別」:
親や兄弟(特に、自分より年下である場合は、ショックが大きい)との死別で/心が折れて、何事に対しても「意欲を喪失」して、ナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」に入って行くのは、或る意味で理解が出来るのです。両親が共稼ぎの孫の親代わりとなって、孫の世話を一身に引き受けてやってきて、それが「唯一の生き甲斐」になっていた私にとって、進学を契機に孫が自分から手離れていくと、もう何もしようとしなくなるのです。気が抜けてしまい、心に空洞ができてしまって、別の「テーマ」を探そうという気にもならないのです。そのまま、ナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」に入って行ってしまうのです。
※ 第二の類型(「生活上の大きな出来事」の発生)
本人から見て(客観的な評価ではなくて、主観的な評価であることが重要)、生きる意欲をなくしてしまうような「出来事」が発生し、解決の糸口さえも見つけ出せないままに、その状況が継続されることで心が折れて、「意欲」を喪失して、拠るべき「新たなテーマ」を探すことも見つけることも出来ないで居る内に、ナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」に入っていくことになるのです。
☆ 自身の重い病気の発病や大きな怪我など:
趣味を楽しんだり、人付き合いを楽しんだり、小旅行を楽しんだりする生活があって、それなりに/生き甲斐や喜びを得られる機会があり、自分なりの目標や喜びや生き甲斐がある生活を送っていたのに、大きな怪我(ex.骨折)をして/長期間入院したり、病気になって/床に臥せるだけの毎日を過ごすようになると、意欲や注意の集中力や注意の分配力が働く「テーマ」が何もない生活になるのです。(お友達が入れ代わり立ち代わり訪ねて来てくれ、世間話に花を咲かせる毎日を送れる人なら、話は、別なのですが、現実は、そういう訳にはにはいかなくて)、その状況自体がナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」の継続になってしまうのです。
☆ 子供の失業や借金問題、孫の不登校など家庭内の「重大な心配事」の発生とその状況の継続:
子供の失業や借金問題、孫の不登校など/家庭内の「重大な心配事」が発生し、解決策を見いだせないまま、その状況が継続していると、趣味であれ、遊びであれ、人付き合いであれ、運動であれ、買い物その他の用事であれ、(何をしていても、何時も、何処にいても)、「心は、何時も、上の空状態」なのです。「心、此処に在らず」の状態の下では、「前頭葉の三本柱」の機能の出番が無いのです。
(いつもそのことが、気がかりで、心配で、心にかかっている)ので、何かの「テーマ」をやっていても、そのことに注意の集中力を働かそうにも/集中出来ないのです。頭を回転させようにも注意の分配力の機能が働かなくて、何もやっていないのと同じような状態なのです。
こうした他人には言えない「身内の重大な問題」が発生した時、普段の生活状況では、たとえ趣味や遊びや人付き合いの集いに参加していたり、スポーツや散歩を友人たちとやっていても、「心はいつも上の空状態」で、何かを楽しむ心の余裕もないのです。家庭内の問題を抱える状況が発生し、継続していると、人に会うのも恥ずかしいので、趣味や遊びの集いにも次第に出て行かなくなるのです。だからといって、自分の力ではどうすることも出来ない為に、いわゆる「うつ状態」と言われるような精神状態に陥りがちなのです(「うつ病」ではなくて、「老人性うつ」)。そのうち何かをする気力もなくなり、意欲もなくなって、家に閉じこもりがちの生活になっていくのです。生き甲斐なく、趣味なく、交友なく、運動もせず、目標もない、ナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」に入っていくことになるのです。
☆ 夫(妻)が重度の認知症や重い病気を患い、「介護に追われるだけ」の毎日:
『前頭葉』と言う複合機能体としての機能は、「意識」が覚醒した/目的的な世界に於ける/脳全体の司令塔の役割りを担っていて、自分の置かれている状況を判断し、その状況に沿った「テーマ」を考え付き、「テーマ」の実行内容や程度や態様を/ケース・シミュレーションした上で、最終的な内容を決定し、左脳や右脳や運動の脳に指令を出す司令塔の働きをしているのです。
「重度認知症(大ボケ)」の段階の症状が出ているということは、その人の「前頭葉」機能は/殆ど機能していないレベルにあるのです。「大ボケ」の症状が出てくるようになると、脳の機能を「中ボケ」のレベルにもどすことさえも、最早出来ないのです。「大ボケ」のレベルの中で、更に重い症状を出すようになって行くだけなのです。
(脳の働きがもたない一方で/身体がもつことがその特徴である)「AD型認知症」の「重度認知症(大ボケ)」の段階の症状を発現しているということは、言い換えると、脳全体の機能の更なる衰えが、進行しているということでもあるのです。「前頭葉」機能だけでなくて/「左脳も、右脳も、運動の脳」の機能も、殆ど働かなくなる状態に向かって、同時進行的に衰えて行っているのです。(市町村での多数例に基づく助言)なのですが、妻(夫)が「中ボケ」(或いは、「大ボケ」)レベルの夫(妻)を世話するだけの生活習慣を続けていると、高齢者であるその人(妻又は夫)も、やがては、「AD型認知症」を発病して、「小ボケ」のレベルに入っていくケースが多いことを/問題提起(警告)しておきたいのです。
※ 第二の類型と第一の類型の同時発生
☆ 東日本大震災の発生と発生後の生活状況:
東日本大震災は、世界にも例がないほどの未曾有の大震災でした。被災した高齢者は誰でも、「生活上の大きな出来事」としても/「生活状況の大きな変化」としても、共に言葉では言い表すことも出来ない程の衝撃を受けられたと思うのです。我が身だけでなくて、家族や兄弟や親類縁者を含む一族の思い出が詰まった地域全体が被災し、街全体が壊滅的な被害を受けたのです。家族や親族を失った人たちも多く、生活の基礎である家屋や店や勤め先や田畑や船や筏までもを失った人も多く、景色も思い出も消失してしまったのです。その上、被災から2年が経過したというのに、復興が遅々として進んでいないのです。『この先の生活自体が、全く見えないという状況に置かれている』のです。支援も途切れてきて、日々の生活にさえ大きな不安を抱えている状況なのです。
こうした現実の中で、「前頭葉の三本柱」の機能である「意欲や/注意の集中力や/注意の分配力」の機能を発揮する機会が多い「テーマ」を/どのようにして見つけろというのか、被災した高齢者に求められる筈が無いのです。とはいえ、ナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」が継続している状況の下では、出番が極端に少ない「前頭葉」機能が、廃用性の異常な機能低下、加速度的な機能低下を必ず、起こして行くことになるのです。「キッカケ」を契機にして、ナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」が日々継続するようになって、「小ボケ」の期間が3年間、「中ボケ」の期間が 2~3年間、発病してから 5~6年間が経過すると、「大ボケ」になるのが「大原則」なのです。だからこそ、東日本大震災を被災した「高齢者」の今後の生活状況を、私たちはとても心配しているのです。
○ 「キッカケ」となるか/ならないかは、『当の本人自身の受け止め方』が、Keyポイント
(本題に戻って)同じような「生活状況の大きな変化」(或いは、「生活上の大きな出来事」)が発生した時、生活状況(或いは、出来事)の発生に対する個人ひとりひとりの受け止め方が異なるので、「生活状況の大きな変化(生活上の大きな出来事)」が、発生した後の、日々の「脳の使い方」/生き方/「生活習慣」)は、人それぞれに、異なるのです。
或る人(A)は、「生活状況の大きな変化(生活上の大きな出来事)」の発生が「キッカケ」となって、気持ちが落ち込み(心が折れてしまい)、何事に対しても『意欲』を喪失して、ナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」が始まるのに対し、或る人(B)は「生活状況の大きな変化(生活上の大きな出来事)」の発生があっても「キッカケ」とはならないで、(心が折れてしまわないで)「意欲」を取り戻し、何等かの「新しいテーマ」を/自分なりに見つけ出して、日々の生活をそれなりに楽しんでいくことが出来るのです。
このことは、次の例示のように、具体的に考えると理解しやすいと思います。
(我が国ではよく見かけるケースなのですが)「定年退職」で仕事を取り上げられてすることもなくなり、3年もたつと見る影もなく衰えボケてしまう人もいれば(この段階では、未だ「小ボケ」)、「定年退職」で自由な時間がいっぱいできたのをきっかけに、自分なりに趣味や遊びや人づきあいを楽しんで、生き生きと生活していく人もいるのです。
或いは、世間でよく言われるように、「夫を亡くしたおばあさん」は半年もたつと楽しげに生活をエンジョイするようになることが多いのに対し、同じように「妻を亡くしたおじいさん」の多くは次第に元気をなくしていくのです。
前者と後者とを区分けるキーポイントは、発生した「生活状況の変化(生活上の出来事)」を当の本人がどのように「受け止めたのか」にあるのです。「AD型認知症」を発病することになるかならないか、それは「生活状況の変化(生活上の出来事)」の発生に対する「本人の受け止め方」次第ということになるのです。その結果、本人の心が折れてしまい、「意欲」を喪失してしまったかどうかが、キー・ポイントとなるのです。
「AD型認知症」の発病を回避するには、ナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」の継続という「第二の要件(加重要因)」の充足を/回避しなければならないのです。「第二の要件」の充足を回避するには、上述した事例に見るような「生活状況の大きな変化(生活上の大きな出来事)」が発生した時、その「生活状況の大きな変化(生活上の大きな出来事)」に対して、本人自身が負けないことが必要不可欠となるのです。「AD型認知症」の発病を左右する直接の原因は、アミロイドβの蓄積でも、タウ蛋白の沈着でも、アセチルコリンの不足でもないのです。
その時遭遇した「生活状況の大きな変化(生活上の大きな出来事)」の発生と継続を「キッカケ」として、心が折れてしまい、何事に対しても「意欲」を喪失した為に、ナイナイ尽くしの「単調な生活習慣」に入って行ったこと(及びその継続)が、直接で/真の原因なのです。
○ 参考までに、「キッカケ」の或る種の例示をしておきます!!):
□ 仕事の第一線を退くこと
(定年退職、家業の廃止、家業を息子に譲る、嫁に家事を譲る)
□ 世話役を降りること(子供や孫の手離れ、地域の世話役を退く)
□ 配偶者の死亡(特に、妻が死亡したときの夫)
□ 趣味や遊びやお茶飲み会などの「集いの会」の中止
□ 重大な病気や怪我、身体上の不具合、配偶者の看病生活
□ 重大な災害により、財産や家族や友人や思い出を失うこと
□ 家庭内のトラブルや心配事
□ 友人や自分自身の転居
□ ペットの死亡
□ 兄弟姉妹の死
□ 周囲との接触もない孤独な一人暮らし
注)本著作物(このブログ A-50に記載され表現された内容)に係る著作権は、(有)エイジングライフ研究所に帰属しています。
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