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246774 恐怖に支配されてはならない~携帯電話カンニング事件で思う事

2011年03月09日 | アメリカ→官邸・電通→マスコミの日本支配
246774 恐怖に支配されてはならない~携帯電話カンニング事件で思う事
 
猛獣王S HP ( 不惑 営業 ) 11/03/06 PM10 【印刷用へ
『恐怖に支配されてはならない - 携帯電話カンニング事件で思う事』(井上秀純氏)リンクより転載します。
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自身のブログKeynotesで、どうして日本の政治はめちゃくちゃになってしまったのかという考察をした。この中で感覚的によく分からない事があった。

東北の予備校生のカンニング事件はそんなときに起きた。情報がシステムの隙間から漏れ出してして、システム全体が動揺する。最近の流行のようだ。この事件が新聞の一面を飾ったのはこのパターンにはまったからなのだろう。この事件を見て、どうして政治がダメになってしまったのかという理由の一端が分かったような気がした。私たちが持ってた「集団を維持する本能」や「集団に対する信認」が失われている感じがしたからだ。

日本の大学はかつて「安易な警察の介入を許さない」という気風を持っていた。京都大学は特にそうだったように思う。でも、今回は真っ先に警察に頼ってしまった。

新聞によると、予備校生は股に携帯電話をはさんで試験問題を入力したのだという。もしこれが本当だったとすると、試験監督はあまり熱心に監督していなかったことになる。これがYahoo!知恵袋を通じて表沙汰になる。試験監督たちの責任が問われかねない。問題を解決したいが、Yahoo!は協力してくれるだろうか。新聞が面白おかしく取り上げないだろうか。こんな時に「じゃあ、警察に頼ってしまえ」と思ってしまったのかもしれない。これは自己保身だ。何かエクスキューズが必要ですねということになる。こうして受験生が「偽計業務妨害」(ハカリゴトをもって業務を妨害した)首謀者になった。我々は何らかの恐れを潜在的に抱えている。世間は「私たち」を責め立てるかもしれない。であれば、先に受験生をモンスターに仕立ててしまおうというわけだ。でも大学の何が挑戦を受けたのだろうか。

さて、かつて大学は警察が安易にキャンパスに踏み込んでほしくないと考えて権力と距離を置いた。アカデミズムとしては健全な距離だったように思えるし、自信もあったのだろう。どうやら現代の大学にからはこうした距離感は失われているようだ。コミュニティをどう自治してゆくかいうことを社会全体が考えなくなって来ているのかもしれない、とも思う。

社会との間合いの取り方はコミュニティが本来持っている本能に近いレベルの感覚だ。これが失われているということに、我々は少し恐怖したほうがいいのではないか。そして、大学の先生たちは、その瞬間に抱いた「世間から暴力的にバッシングされるかもしれない」とか「自分たちの制度が揺るがされてしまうかもしれない」いう恐怖心を言葉にして説明したほうがいい。

ネット上の好ましくない投稿をすべて偽計業務妨害で処理するのは言論にとっては自殺行為なのではないかと思う。アカデミズムがそれに加担しつつあるということは重要な意味がある。この件で誰かを批判したいとは思わない。勇気を持って反省を口にし、考察すべきだろう。恐怖に支配されてはならない。
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