223504 「もう同じ過ちは繰り返すな! 2009年に得た厳しい教訓」~ジョセフ・スティグリッツ~①
猛獣王S ( 30代 営業 ) 10/01/05 PM10
『ジョセフ・スティグリッツ教授特別寄稿「もう同じ過ちは繰り返すな! 2009年に得た厳しい教訓」』リンクより転載します。
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ノーベル賞経済学者のジョセフ・E・スティグリッツ教授(コロンビア大学)は、世界は2009年に5つの教訓を学んだという。どれも重要だが、どれも過去、学んだことのあるものでもあった。われわれはいつになったら経験を生かせるのか。
第一の教訓は、市場は自己修正がきかないということである。
まったくのところ、適切な規制がなければ市場は暴走してしまいがちなのだ。2009年、われわれは再び、なぜ(アダム・スミスの言う)「見えざる手」が実際に「見えざる」ことが多いのか、その理由を思い知らされた。なぜなら、そんな「手」は存在しないからだ。
銀行が私利を追求しても(=貪欲)、それは社会の幸福にはつながらない。いや、銀行の株主や社債保有者にさえ幸福をもたらさない。もちろん、家を失いつつある住宅所有者、職を失いつつある労働者、老後の蓄えが消滅してしまった年金生活者についても同様だし、銀行救済のために数千億ドルを払わされる納税者にとっても得るところはない。
「システム全体が崩壊する」という脅迫を受けて、本来は人生の緊急事態に遭遇した不運な個人を救うためのものであるセーフティネットが、市中銀行に対して、さらには投資銀行、保険会社、自動車会社、さらには自動車ローン会社にまで寛大に差し伸べられた。こんなにも巨額のカネが、これほど多くの人びとから、かくも少数の者の手へと渡った例は過去にない。
■銀行救済は盗人に追い銭
われわれは普通、政府は富裕層から貧困層へと富を移転させるものだと考えている。だがここでは、金持ちにカネを譲り渡しているのは、貧しい人びと・平均的な人びとなのである。ただでさえ重い負担を課せられている納税者は、本来は経済の再生を目指して銀行の貸し出しを支援するために自分たちが払った税金が、巨額のボーナスや配当に化けるのを目にした。配当とは、利益の分け前であるはずだ。しかしこの場合は、単に政府からのプレゼントを分配しているだけなのだ。
「銀行の救済は、どれほど理不尽であろうと融資の回復につながる」というのが口実だった。しかし、融資の回復など実際には起きなかった。起きたのは、平均的な納税者が、多年にわたり自分たちから(略奪的融資や暴利のクレジットカード金利、不透明な手数料を通じて)カネをだまし取ってきた金融機関に、救済資金を与えたという状況なのだ。
救済は根深い偽善を白日の下にさらした。貧困層のための小規模な福祉制度に対しては財政の緊縮を説く者が、いまや世界最大規模の「福祉」制度を声高に要求する。自由市場の長所はその「透明性」にあると主張していた者が、結局は、非常に不透明な金融システムをつくり上げ、銀行が自行のバランスシートさえ理解できないようにしてしまう。そして政府も、銀行に与えるプレゼントを隠蔽するために、ますます透明性の低い救済方式に手を染めるよう誘われている。「アカウンタビリティ」だの「責任」だのと論じていた者が、今では金融部門での債務免除を求めている。
第二の重要な教訓は、なぜ市場は、所期の意図どおりに機能しないことが多いのかを理解する、という点である。
市場の失敗には多くの理由がある。今回の場合は、「破綻させるには大き過ぎる」金融機関が歪んだ動機を与えられていたことである。ギャンブルを試みて成功すれば、彼らは利益を懐に収めて立ち去る。失敗すれば、納税者が負担することになる。さらに、情報が不完全な場合、市場はうまく機能しないことが多い。
そして、情報の不完全性は金融の世界にはつきものなのである。外部性は至るところに見られる。ある銀行の破綻によりコストが他の者に転嫁され、金融システムの破綻は世界中の納税者・労働者にそのコストを負担させる。
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続く
猛獣王S ( 30代 営業 ) 10/01/05 PM10
『ジョセフ・スティグリッツ教授特別寄稿「もう同じ過ちは繰り返すな! 2009年に得た厳しい教訓」』リンクより転載します。
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ノーベル賞経済学者のジョセフ・E・スティグリッツ教授(コロンビア大学)は、世界は2009年に5つの教訓を学んだという。どれも重要だが、どれも過去、学んだことのあるものでもあった。われわれはいつになったら経験を生かせるのか。
第一の教訓は、市場は自己修正がきかないということである。
まったくのところ、適切な規制がなければ市場は暴走してしまいがちなのだ。2009年、われわれは再び、なぜ(アダム・スミスの言う)「見えざる手」が実際に「見えざる」ことが多いのか、その理由を思い知らされた。なぜなら、そんな「手」は存在しないからだ。
銀行が私利を追求しても(=貪欲)、それは社会の幸福にはつながらない。いや、銀行の株主や社債保有者にさえ幸福をもたらさない。もちろん、家を失いつつある住宅所有者、職を失いつつある労働者、老後の蓄えが消滅してしまった年金生活者についても同様だし、銀行救済のために数千億ドルを払わされる納税者にとっても得るところはない。
「システム全体が崩壊する」という脅迫を受けて、本来は人生の緊急事態に遭遇した不運な個人を救うためのものであるセーフティネットが、市中銀行に対して、さらには投資銀行、保険会社、自動車会社、さらには自動車ローン会社にまで寛大に差し伸べられた。こんなにも巨額のカネが、これほど多くの人びとから、かくも少数の者の手へと渡った例は過去にない。
■銀行救済は盗人に追い銭
われわれは普通、政府は富裕層から貧困層へと富を移転させるものだと考えている。だがここでは、金持ちにカネを譲り渡しているのは、貧しい人びと・平均的な人びとなのである。ただでさえ重い負担を課せられている納税者は、本来は経済の再生を目指して銀行の貸し出しを支援するために自分たちが払った税金が、巨額のボーナスや配当に化けるのを目にした。配当とは、利益の分け前であるはずだ。しかしこの場合は、単に政府からのプレゼントを分配しているだけなのだ。
「銀行の救済は、どれほど理不尽であろうと融資の回復につながる」というのが口実だった。しかし、融資の回復など実際には起きなかった。起きたのは、平均的な納税者が、多年にわたり自分たちから(略奪的融資や暴利のクレジットカード金利、不透明な手数料を通じて)カネをだまし取ってきた金融機関に、救済資金を与えたという状況なのだ。
救済は根深い偽善を白日の下にさらした。貧困層のための小規模な福祉制度に対しては財政の緊縮を説く者が、いまや世界最大規模の「福祉」制度を声高に要求する。自由市場の長所はその「透明性」にあると主張していた者が、結局は、非常に不透明な金融システムをつくり上げ、銀行が自行のバランスシートさえ理解できないようにしてしまう。そして政府も、銀行に与えるプレゼントを隠蔽するために、ますます透明性の低い救済方式に手を染めるよう誘われている。「アカウンタビリティ」だの「責任」だのと論じていた者が、今では金融部門での債務免除を求めている。
第二の重要な教訓は、なぜ市場は、所期の意図どおりに機能しないことが多いのかを理解する、という点である。
市場の失敗には多くの理由がある。今回の場合は、「破綻させるには大き過ぎる」金融機関が歪んだ動機を与えられていたことである。ギャンブルを試みて成功すれば、彼らは利益を懐に収めて立ち去る。失敗すれば、納税者が負担することになる。さらに、情報が不完全な場合、市場はうまく機能しないことが多い。
そして、情報の不完全性は金融の世界にはつきものなのである。外部性は至るところに見られる。ある銀行の破綻によりコストが他の者に転嫁され、金融システムの破綻は世界中の納税者・労働者にそのコストを負担させる。
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続く
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