トホホおやぢのブログ.....

アンチエイジング、自転車、ダイエット、スイム、ラン等々、徒然なるままを・・・

旅のつれづれに思ふこと

2022-07-06 13:45:00 | 他愛無き事
 6月の中旬に僕は新潟の長岡を訪れる機会が有った。最近は歳のせいか疲れが残るので弾丸出張は控えるようにしているので、実はアポイントメントの間に時間があることが多い。こんな時は時間を有効に生かすに限る(笑) それに長岡は母方の家系からすると因縁浅からぬ場所。長岡藩士であった先祖は、戊辰の役の際に魚沼(石打)や群馬の沼田に落ちのびてきたらしいと聞いている。それに、まだ見ていないけど、いま上映されているらしい司馬遼太郎原作の”峠”の映画の舞台でもある。
 その主役であった家老・河井継之助の記念館と山本五十六の記念館はわずか数百メートルほどしか離れていない場所にあった。
 山本五十六が合理主義者だったの原点は、彼が尊敬する河井継之助あると伝えられている。そんなことを思いながら、真夏日の中シャッター街化している長岡の街中を徘徊していた。

山本五十六記念館の中は撮影禁止だったので近くの公園にて




常に戦場に在り.....言葉尻だけを考えれば好戦的と思われそうだが、彼の行動と言動の歴史をみると決してそうではない。
要は、平和を守るためには、最悪の場合を考えて準備しろということだが・・・・・
今のウクライナの状況と被って、複雑な気持ちになった・・・・

日米開戦反対の立場であった、山本五十六も 絶対服従の軍の規律のガバナンスの中で
不本意な戦争に突入してしまったとの気持ちを察するに・・・・






当たり前だけれど、河井継之助も山本五十六も達筆すぎて、残された手紙などを、読み解くことが今の僕にはできなかった(現代語訳もある)。でも、書は河井継之助よりも、山本五十六の方が上手に見えた(笑) 当時はワープロもPCもないのだから、毛筆は人の絶対的な心得だったのかもしれないが、すごいな~~~~

 7月になって、仕事で徳之島に出向くチャンスがあったが、台風が原因の欠航で奄美大島から徳之島に向かう船が欠航になってしまい、DNSになってしまった。予定を繰り上げて鹿児島に飛んで営業活動しようと思ったけれど、AUの携帯電話がつながらず、仕事に影響がでた。
 お陰で、知覧と鹿屋の特攻記念館を見学する時間ができた。


知覧の特攻基地の存在は、地元桶川の熊谷飛行隊の桶川分教場跡地にある記念施設でしっていた。今回行ってみて初めて知ったけれど、知覧の基地は海軍と陸軍で共用で使っていたのかと思っていたけれど、どうやら陸軍専用の施設だったようだ。

名機 隼


なぜか錦江湾で引き揚げられた ゼロ戦(海軍)が展示してある
そういえば、大西瀧次郎中将(海軍)=特攻隊の発案者の遺書も展示してあった。


出撃命令がくるまで、特攻隊員が過ごした宿舎(復元)

多くの遺書が展示されている、本人たちの気持ちを察するに 涙無くしては読めない。
本心がなかなか、書けない時代の中で 唯一若妻にあてた手紙が、表現しがたい気持ちにさせた・・・よくまぁ、許されたなと思う。
地元、埼玉県桶川から飛んで戦死されたであろう人の記録もあった。また、旧式の戦闘機、もしかした複葉機みたいな飛行機で特攻をしたような記録もあった(時間が無くて、本当の事実は確かめ切れていない)それにしても、死を前にして彼らが書く文字はなんと美しいのだろうか?毛筆も万年筆らしき遺書もあったけれど、文字が綺麗だ。自分が悪筆であるがゆえになをされ感じる。
 それにしても、特攻で死ぬことが誉れと強いるような世の中になってはならないとつくづく思い、知覧(陸軍)を見てなおさら、鹿屋(海軍)の特攻記念館を訪れなくてはとの思いに至る

 錦江湾を挟んで反対側の大隅半島に海軍の鹿屋特攻隊基地はあったらしい。いまでもそこには航空自衛隊の基地がある 


この基地の前に記念館はあった。遺族へのプライバシーもあるので中の主な部分は撮影禁止


記念館に入る前に、まずこの飛行艇の大きさに驚く.....戦前に、こんなもの拵える技術力ってすごいなと....知識として知っていたものの、現物を目の前にするとただただ感服。すごいぞ川西航空機!!!!!





無くなった隊員の遺影と、いくつかの遺書。海軍の特攻であっても陸軍の特攻であっても、人の気持ちは一緒......

まず最初に死ありきという作戦は繰り返してはならない。軍人である以上、結果としての死は覚悟しなければならないのだろうが.....

 軍人ではないが、自衛隊員でも、こんな服務宣誓をするのとしっているかしら??
【 私は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。】
 
 こんなマインドで、職務遂行してくれていることには感謝しかない(中にはそうでない人もいるかもしれないけれど)彼らの立場に立ってみれば、文民統制が基本とはいえ、くだらない政治家の方針で命をかけて戦いたくないよね。そうしてかんがえると選挙って大切だわな・・・・・


読書・・・・

2021-01-19 13:47:00 | 他愛無き事
 正月休みに読もうと思っていた本。3.11の被災地である東北は、妻の実家が宮城であり20代の多くをそこで過ごした自分の歴史の中では大切な存在。
日本酒の味をしったのも、牡蠣が本当に旨いと思ったのも東北だった。
宮城から福島の亘理・相馬を経て茨城に続く道は、当時オートバイが主な足だった僕にとってはとても魅力的なエリアだった。
  正月休みに宮城の”あぶり焼かき”を肴に日本酒でも飲みながら、読もうとしたこの本は、酒と牡蠣の魅力がありすぎて完飲・完食したときは、まだ10ページも届かなかったよう思う(苦笑)



まだ半分も読み終えていない自分が軽々な言えないが、今の状況と似ているような気がするのは、穿った見方だろうか????
・見えない敵、放射能もウィルスも見えない
・パニックを防止する為?の控えめな報道
・誰も責任を負わない
・学習しない為政者たち
・過ちを認めない為政者たち

3.11迄には、読み終えたい

台風19号の傷跡

2020-01-17 20:29:00 | 他愛無き事
 3.11の時にBEFORE&AFTERの両方を知ってこそ、被害の甚大さに気付かされる事を肌身で知りました。その時友人のボランティアも応援に一緒に行った仲間は、南三陸町よりも、震災前にトライアスロンで訪れた七ヶ浜エリアの変貌ぶりを、より身近に衝撃を受けたようでした。南三陸町もサラリーマン時代いオートバイで何度もいっていましたが、七ヶ浜の方がトライアスロンで何度も訪れ、流失して何もなくなった家の基礎をみながら、ここがランコースだった。ここらへんで、ばあちゃん達が応援してくれていたなと思い出すと僕もおもわず涙がでました・・・・

 より現実を知ってもらいたいという思いから、BEFORE&AFTERで見ていただいた方が、深刻な事態だったということが理解いただけると思います。素人考えですが、スーパー堤防はよく頑張ったと思います。




 でも、スーパー堤防が整備されていない中・上流域で決壊や越水が何か所もあった事実はあまり報道されていません。

 昨年暮れに上記の写真の早俣地区を訪問する機会がありました。通称サイクリストの間では物見山街道といわれる道沿いの、なじみのあるエリアです。ここには3.11の津波の被害を彷彿させるような損害が広範囲でありました。

1階はほぼ水没しています。水が上がった痕跡が壁に明確に残っています



この写真も水が上がった痕がよくわかりますね

これらの写真は、トラ仲間の金子さんが、早俣地区にボランティア行き、被災者の方からもっと現実を知らしめてもらいたいということでコピーさせていただきました。

玄関の下に土がない、これは土が流されたのではなく、家が流されたのです。

上の写真の裏から撮影した画像です。建築まもなく気密性が高いので、基礎(写真手前)から家は浮いて流されずれてしまったということです。

このエリアに皆さんは、正月を自宅で迎えることができなかったそうです。

もう少し真剣に温暖化の問題について考え、できる範囲で行動してみたいと思います。


台湾に学ぶ・・・

2019-11-20 14:55:00 | 他愛無き事
 台湾の老人が、日本の国家『君が代』を歌っている映像みた日本人のおばさんの発言、『あんな歳になっても、覚えているなんて! 子供のころよほど酷く無理じいをさせられて覚えさせられたんだろうね。可哀想で涙がでる・・・・』表現の不自由展・ あいちトリエンナーレ2019の取材のTVドキュメンタリーの一コマである。
 基本的に政治・宗教的な話は、SNS上の話題にはしたくないが、このおばさんの発言は、僕の体験と知識の中では看過できない。もしかしたら、おばさんの言うような台湾のご老人もいるかもしれないが、そんな単純なものではないと少なくとも自分は思うし、そのおばさんのシンプルな感情的発言に対して、違和感を持つ台湾の人達が数多くいることを知ってもらいたいと思う。
 残念ながら現在の歴史教育の中でどれだけ正確に教えているのか知らないが、1895年から1945年の50年間、台湾は日本国だった。日本国台湾県だった。だからその50年間は日本の施政下で、彼らにとって国歌は「君が代」だったのだ。仮に1895年に生まれた台湾の人が、50年間慣れ親しんだ国歌を歌うことが苦痛だったのだろうか?

 戦後、中華民国としてスタートするが、1947年外省人と本省人(内省人)との対立から2.28事件が発生し、その後戒厳令が1987年まで続く。補足すると、外省人とは中国本土から戦後台湾に来た人たりを呼び、本省人とは日本の統治下で戦後を迎えた人達である。
 少なからず日本に縁のある蒋介石の国民政府は、日本にとって戦後賠償問題で在外資産の没収だけで済むという配慮ある判断してくれた。一方、日本の施政下で教育を受けたインテリには2.28事件以降は、徹底的な本省人の弾圧と排除を行った。そして日本が50年間してきたことを徹底的に否定したのだ。いまのどこぞの隣国のように・・・・必ずしも、本省人達は蒋介石政権下での国のあり様を歓迎していない。
 このような事実は、軽率な感想を漏らしたおばさんも、その映像を流した某国営放送のディレクターも知らないのだろう。

 私の友人のお父さんで、4~5年前に亡くなった方は日本語が堪能で・・・・というより多分日本語で物事を考えていたような気がする。(元総統の李登輝も難しいことを考える時は日本語で思考すると言われている)
 彼は終戦時日本海軍の軍人でパイロットだったた。特攻隊に志願したものの終戦末期で特攻する飛行機がなくて生き永らえた人物である。日本の大学出身で学徒出陣したらしい。何度か彼の自宅に訪問したのだけれど、彼の自宅の居間には昭和天皇と皇后の写真が飾られている。最後の訪問になった約10年前に、彼の息子から(息子は日本語は喋れず、私との会話は英語)「親父は最近、Senileだ」=老人性ボケ と玄関前で言われ、えっ!?ボケ爺さんの相手しなきゃいけないの!?なんて正直失礼にも思ってしまった。しかしながら、いざ実際に会ってみると、全くその気配は無いどころか・・・
「神田さん、日比谷公園で活動しているらしい、年越ナントカ村って何あれ!?僕が知っている日本政府は、民間にそんなマネはさせない。もっと頼もしかった。情けないよね」
ですって!ぜんぜんぼけてないじゃん!お父さんがトイレにいった隙に、お母さんに「息子さんが、父上がボケていると言っていたのですが、ぜんぜんそんなことないですね」と聞いたら、笑いながら「最近は、TVとしか会話しないのよ。日本語放送みて、会話している。台湾語話すのめんどくさいみたい」
 ある意味、日本の敗戦とう史実は、戦後こんなに時を経てから親子の断絶をもたらすのか!?と驚いた半面、歴史の罪というか複雑な心境になる。
 もっと強烈だったのは、このお父さんに帰り際に、寂しそうに
「神田さん、僕らは所詮トカゲのしっぽだから・・・」
と呟かれ、かえす言葉が見つからなかった・・・・・

 彼のイデオロギーは決して、日本の統治下で強いられたものではないし、彼が選択したことであることは間違いがない。少なくともこのような老人が台湾には少なくないことは、仕事を通じて知っているし、元総統の李登輝の経歴を見れば、このお父さんとも共通する部分が多い。彼らが歌う「君が代」の映像を某国営放送が、おばさんの非見識な発言と一緒に安易のオンエアすることに少なからず不快感と残念さを覚えるし、あの君が代を歌っている人達は、トカゲのしっぽである私たちをもっと知って欲しい・・・言い換えれば、台湾が歩んだ歴史を学んでほしいというメッセージにも聞こえる・・・








ステキなカレィ(彼?加齢?)

2013-08-04 21:21:00 | 他愛無き事
田舎にあった、山に関する本を処分することにした。
処分といっても、捨てる訳ではない。
捨て去るには、僕の人生で、あまりにも重い。
重量的にも(笑)、思い出的にも・・・


幸い運よく、その価値を理解して(たぶん)
貰ってくれるくれる方いたので、
娘を嫁に出す気分に近い・・・・
(娘の子供は、いないのでこれもたぶん)

様々な思いが交錯する。
山に散った後輩のこと、先輩のこと・・・
登山というスポーツは、死という現実が身近にある。
しかし、その当事者だった自分自身、現実の問題として
考えていなかったような気がする。
身近な人達が、亡くなった現実を目の前にしても・・・・


貰ってくれる方は、この本の中にも登場するほどの
その昔、若きし日頃はそこそこのクライマーだった・・・・
その後は、数十年?山とは縁遠い人生だったはずなのだが、
何を血迷ったか・・・・
最近また、再燃して来年はエベレストを究めようとしている。
そのキッカケについて、聞く事は忘れたが、
まるで、初恋の女との再会というか、再燃というか・・・


本を整理していてあることに気が付いた。
山や岩壁を登ることが、自分の人生の全てと勘違いしていた頃は、
正直、野山に咲く花に僕は全く関心が無かった。
それを証明するように、嫁に行く多くの本の中には、
その手の書籍は全くなかった。
いま、日頃楽しんでいる自転車で自然に触れる機会には、
必ず花に目が行くし、重要なサイクリングのポイントだ。


何時の頃から、花に関心を持つようになったのか覚えていない。
社会人になって、ヒマラヤへの挑戦を諦め、
しばらくして、中年になった頃
「人間は必ず死ぬ」という
運命を意識するようになった頃からだと思う。
そして、花や季節を楽しむことが出来るようになった。
正直、楽しむというよりは、生あるうちにあと何回体験できるのか?
という切迫した気持ち?からかもしれない・・・


先日も、近所の荒川の土手で、キスゲに似た、ノカンゾウの花の小さな群落を見つけた。
それは、何度か訪れた尾瀬ヶ原に咲くニッコウキスゲの群落を思い出させた。
そして、また訪れてみたいと、心底思った・・・



当時は、夏の尾瀬という場所でさえ、少し退屈な場所だと思っていた。
より難しい岩壁を登れるクライマーが、何おいても至高であるという錯覚を持ち、
ハイカーやワンゲルの人達が訪ねる場所を小馬鹿にしたような
傲慢とも言えるような考え方だったかもしれない。
今思えば、恥ずかしいことだが・・・

中年になってから、自転車を楽しむようになった。
サイクリングに行くと”追いかけっこ”も楽しいけれど、 
景色や花に目が行く。

ハイスピードで、目を▽にして、サイクリングロードを
わがもの顔に猛スピードで走っている若い人たちを見ると
なぜが、自分が山を登る事だけに夢中になっていた時代のそれと
似ているような気がする・・・・

土手に咲く、小さな花には、
昔の自分のように、関心は無いようだ。

それを責めるつもりは、まったくない。
それは、その時代、その時に 自分たちなりに
大切な瞬間を過ごしているに違いない
かつて、山が全てだった自分のように・・・

今は、カレィ(加齢)は、いまいましい現実でもある
と思いつつも、
今迄、見えなかっり、気が付かなかったことが、
いつの間にか見えるようになった幸せを実感している。
ひっそりと野山に咲く花に、愛おしさや憐みを感じ、
季節毎に景色が変わることに感動できる感覚が肥える。

青春時代とは違って見えるもの感じるものの
次元と言うか、多様性が広がるというか・・・・
悪くはない
それはそれで、ステキと思う。