神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

京都・晴明神社。

2006年06月17日 | ◇京都府 -洛中
方除け・災難除け・病気平癒

晴明神社

(せいめいじんじゃ)
京都市上京区堀川通一条上ル806



堀川通に面して立つ大きな鳥居。「陰陽師」安部晴明公を祀る神社です。


〔御祭神〕
晴明御霊神
(安倍晴明公)



 白峯神社で日本代表の必勝祈願をした帰り道、晴明神社に立ち寄りました。堀川通に面したこの神社は陰陽師として有名な安倍晴明公を御祭神に祀る神社で、その屋敷があったとされる場所に建てられています。しかし、その屋敷は陰陽寮があった現在の二条城の近く、当時の京都御所の土御門の傍にあったともいわれていますので、若干場所が異なる感じもします。





復元された旧一条戻橋(左)と、二の鳥居(右)。境内が拡張される前は一の鳥居でした。



 晴明神社は1007(寛弘4)年に建てられたといわれています。陰陽師として朱雀天皇から一条天皇までの6代の帝に仕え、朝廷から篤い信頼を受けていた安倍晴明公が1005(寛弘2)年9月26日に85歳という長寿を全うした翌々年、その遺業を讃えた一条天皇が「稲荷大神の生まれ変わり」といわれた彼の御霊を鎮めるために創建したといわれています。墓所は、嵯峨野の渡月橋の近くの右京区嵯峨天竜寺角倉町にあって天龍寺が管理していましたが、1972(昭和47)年に晴明神社が飛び地境内として購入し、管理を行うようになりました。

 創建当初は現在の数倍の広さの社域を持っていましたが、応仁の乱から安土桃山時代を経て徐々に規模が縮小され、社殿も長らく荒れた状態が続いたそうです。この状況を憂慮した氏子の方々が1853(嘉永6)年、1878(明治11)年、1903(明治36)年、1928(昭和3)年の式年祭ごとに社殿・境内の整備を進め、1950(昭和25)年には堀川通に面した土地を境内に組み入れ、大通りから拝殿への参道が完成しました。2003(平成15)年には御鎮座壱千年祭を斎行し、社殿の修復や境内の整備が行われ、社務所も新築されました。





手水舎(左)とその脇にある晴明井(右)。千利休が茶の湯に使ったといわれています。



 御祭神の安倍晴明公は平安時代に活躍した陰陽師で、現在も高い人気を誇っています。しかし眉目秀麗な美男子で、呪術や妖術を自由自在に駆使して魔界の者と戦うというドラマや映画でのイメージが強くなっていますが、実際の安倍晴明公は、40歳を過ぎてようやく歴史の表舞台に登場した「遅咲きの陰陽師」といった方が良いのかもしれません。

 安倍晴明公は、921(延喜21)年に大膳大夫安倍益材安倍保名という説も)の子として生まれたと伝えられています。その出生については大阪の阿倍野で生まれたという説や讃岐国(香川県)で生まれたという説など諸説があり、しかも「安倍保名が狩りで追われてきた白狐を匿ったところ、その狐が女性となって現われ、結ばれて夫婦となった2人の間に生まれたのが安倍晴明公」だという伝説も残されています。幼い頃から修験道の開祖・役小角の末裔といわれる賀茂忠行賀茂保憲親子に素質を見込まれて天文道・陰陽道を学び、村上天皇に仕えていた頃には唐へ渡って伯道仙人から教えを授かり、ここで学んだ暦学や天文学を体系的にまとめて「陰陽道」という学問を確立させました。優秀な学者であり実務家、というのが等身大の安倍晴明公だったのではないでしょうか。





至るところに安部晴明公の象徴ともいうべき五芒星が散りばめられている拝殿。



 「陰陽道」を確立した安倍晴明公は、京都御所の土御門の近くに住んでいたことにちなんで「土御門家」を興し、師匠筋にあたる賀茂家とともに天文道・暦道を受け継いでいきます。天文道を伝承した土御門家は、応仁の乱の戦火を避けて若狭国に移り、そこを中心に陰陽道を統括していきます。現在も福井県には天社土御門神道本庁があり、安部家の子孫が土御門神道司官として陰陽道を受け継いでいるそうです。

 江戸時代に入ると賀茂家が受け継いでいた歴道に関しても土御門家が統括、暦の発行権も賀茂家から土御門家に移るなど、陰陽道の実権を一手に握ることになります。しかし明治維新の結果、陰陽道は廃止されたうえ暦の発行権も新政府に移り、陰陽頭土御門晴栄を最後に安倍晴明公の血筋は歴史の表舞台から姿を消すことになりました。





五芒星が描かれた御神燈(左)と、本殿の隣にある地主社・斎稲荷社・天満社(右)。



 晴明神社から南へ100mほどのところにある一条戻橋は、現世と来世を結ぶ橋といわれていました。この橋は菅原道真公との因縁浅からぬ三善清行公が没した時、急報を聞いて熊野から駆け付けた息子・浄蔵が父の葬列に追い着いた場所で、浄蔵がその死を悲しんで一心に祈ると奇跡的に父三好清行公が一時蘇生したという伝説に因んでその名が付けられたそうです。

 ここは酒呑童子の鬼退治伝説で有名な源頼光公の四天王の一人・渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした場所とも伝えられています。また、安部晴明公がこの橋のたもとに式神を封じて都の守りに充てたという伝説も残っています。「戻る」ということに縁起を担いで、先の大戦で前線へと出征する日本兵たちは必ずこの橋を渡ったといい、逆に今でも「戻る」のを嫌って婚礼や葬儀の列はこの橋を避けるという風習が残っているそうです。





拝殿前の安部晴明公像(左)と厄除桃(右)。桃は魔除けの力を持つといわれています。


アクセス
・京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車、南西へ徒歩10分
・JR「京都駅」より京都市バス⑨番、「一条戻り橋」下車、北へ徒歩2分
晴明神社地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・9時~18時(年中無休)

公式サイト




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