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② 祖父・菅原清公の学問立身
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平安時代の高等教育機関である「大学寮」の跡。
1177(治承元)年の大火事で全焼しました。
名門「土師氏」の流れを引く土師古人公は、平安初期の光仁天皇の時代に生まれ、菅原氏の祖とされる人物です。土師古人公は、なかなか頭脳明晰な好人物だったといわれており、当時の「文書経国 (=学問を盛んにして国をつくる)」という国家方針の流れの中で、学問によって立身を図ろうと考えていました。しかし、『土師古人』では土を捏ねて土器を作ったり、葬送に携わる一族だというイメージがついてまわります。特に“死穢”に対する抵抗の強い我が国において、こういうイメージのまま王城で栄達を望むのは厳しいと考えたのかもしれません。
そこでく土師古人公は、781(天応元)に自分たち一族が暮らしている「菅原の里」に因んで「菅原氏」と名乗ることを朝廷に願い出て、勅許を得ることができました。それ以来、学問の名門・菅原氏の歴史が始まります。菅原古人公は研鑽を重ねて学問を修め、地方を統括する国司である遠江介を皮切りに、文章博士、大学頭と立身出世を重ねていきました。ただ、菅原古人公自身は学問以外のことには全く無頓着な性格だったために家計は苦しく、朝廷からの援助を受けてようやく生計を維持する暮らしだったといわれています。
当時、律令国家の教育機関として最高の地位にあったのが大学寮です。大学寮には主に4つの学科があり、学科は「道」と呼ばれていました。
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この中でも、明経博士(正六位下)、明法博士(正七位下)、算博士(従七位上)に比べ、文章道を教授する「文章博士」は最も高い従五位下という身分を与えられていました。五位以上を「貴族」、六位以下を「地下(じげ)」といい、五位以上になって初めて大内裏の清涼殿にある殿上の間に昇殿することが許されたといいます。政権中枢へと上ろうとする者たちにとっては天と地ほどの格差があっただけに、特に位の高い文章博士の地位を目指すものは数多く、そこに登りつめるには血の滲むような努力と、長い忍耐の日々を乗り越えなくてはなりませんでした。
文章道を志望した場合、まず試験を受けて5問中3問以上を正解した者が「擬文章生」となって次の段階へと進む「仮免許」を得ます。さらに省試と呼ばれる試験で詩作を出題され、これに合格するとようやく定員20名ほどの「文章生」になることができました。ここまでは学生の進級テスト、といった感じです。
次の昇級試験はわずか合格定員2名という難関の試験で、これを見事に突破した学生は「文章得業生」(「秀才」とも「博士」とも呼ばれた)となり、いよいよ国家官僚への登用がかかった「方略試」という最終試験に挑戦する資格を得ます。しかし、この方略試は非常に難しく、慶雲年間(704~708年)から承平年間(931~937年)にかけての230年余りの間で、たった65人しか合格する者が出なかったというほどの厳しい試験で、現在の国家公務員試験や司法試験の比にもならないほどの狭き門でした。この厳しい試験を乗り越えたものだけが、定員2名である文章道 のトップ・文章博士に上り詰めることが出来ました。文章博士 はまさに日本の最優秀エリートだったのです。
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京都市南区にある清公公の墳墓。
「菅原清公卿御墳墓通路」と記した石標があります。
770(宝亀元)年に菅原古人公の子として生まれ、菅原道真公の祖父にあたる菅原清公公は、このような難関を乗り越えて見事に文章博士に就任し、大学寮の役人のトップである大学頭や式部大輔、左中弁、弾正大弼など順調に出世を重ねていきました。804(延暦23)年には弘法大師空海や最澄たちとともに遣唐使判官として唐へ渡り、彼の地で研鑽を深めることとなります。ここで唐の文化を学んだ菅原清公公が帰国してから行った施策が、意外な形で現代にまでその影響を及ぼすことになりました。
唐から帰国した菅原清公公が818(弘仁9)年に行った建議によって、朝廷内の儀式や風習が次々に唐風に改められていきました。この際、人名に関しても唐の風習が取り入れられ、それまで藤原武智麻呂の「武智麻呂」や藤原葛野麻呂の「葛野麻呂」など4文字で付けられることもあった名前が、菅原道真の「道真」や藤原時平の「時平」、源融の「融」や源順の「順」など、漢字2文字や1文字の名前へと改められ、女子の名前に「子」を用いる風習もこのころから導入されたといわれています。
また、菅原清公公は文章博士の地位を従五位下という貴族の位に引き上げさせ、それまで正六位下で大学寮の博士の最高位とされた明経博士からトップの地位を奪うなど、政治的にも優秀な手腕の持ち主でもありました。こうして大きな影響力を持つようになった菅原清公公のもとには教えを請う者も徐々に増え、その私邸で多くの学生が学ぶようになりました。これらの学生たちは、菅原家の広大な廊下に集って学問を深めたことからのちに「菅家廊下」と呼ばれる私塾の様相を呈して一種の学閥が形成されるようになりました。
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