本能寺跡
(ほんのうじあと)
京都市中京区蛸薬師通油小路東入ル元本能寺南町346
織田信長公終焉の地
老人福祉施設の脇に建つ石碑。気付かずに通り過ぎてしまいそうです。
四条堀川の交差点を少し北に歩くと、京都市立堀川高校があります。この北側にある交番の角を少し東に入ったところには、今を遡ること400年以上の戦国時代末期、織田信長公が「本能寺の変」で壮絶な最期を遂げた旧本能寺が建っていました。
本能寺は法華宗本門流の大本山で、1451(応永22)年に日隆上人が創建した寺院です。創建当初は油小路に建っていましたが、度重なる火災・戦火のために焼失し、7度も再建・移転を繰り返します。油小路から上京、六角へと移転を続けた本能寺は、1582(天正10)年6月2日に「本能寺の変」が起きたときにはここ堀川の地にありました。
夜陰に乗じて粛々と京都に入った13,000の明智光秀公の軍勢は、空が白み始めた払暁を期して本能寺を取り囲み、一斉に攻撃を開始します。この知らせを臥所で受けた織田信長公は「是非に及ばず」という言葉を残し、奮戦ののち屋敷に火を放ち、劫火に包まれる中で切腹して49歳の短い生涯に幕を閉じました。その後、本能寺は豊臣秀吉公の意向で堀川の地を離れ、寺町の現在地で再建されました。
歴史を大きく変えたこの地にひっそりと建つ石碑に、世の無常を感じます。
1869(明治2)年、少し南に本能小学校が建てられ、1873(明治6)年には本能寺があった「元本能寺」とよばれるエリアへと移転されました。本能寺跡を示す石碑もその正門の脇に建てられていましたが、生徒数の減少に伴って1993(平成5)年に近隣の小学校と合併され、本能小学校は廃校となって校舎も取り壊されてしまいました。
現在その跡地には2005(平成17)年に京都市本能特別養護老人ホームが建設され、それに伴って石碑も建物の西側に移設されました。周囲ではマンション建設に伴う発掘調査が行われ、「本能寺の変」当時のものと思われる焼けた瓦や、めぐらされた堀の跡なども確認されています。
現在の本能寺に関しては、当ブログ「京都・本能寺。」に掲載しております。ぜひご覧ください。
アクセス
・阪急電鉄京都線「大宮駅」下車、北東へ徒歩5分
・嵐電「四条大宮駅」下車、北東へ徒歩5分
本能寺跡地図 Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.
拝観料
・無料
拝観時間
・常時開放
証言 本能寺の変―史料で読む戦国史藤田 達生八木書店このアイテムの詳細を見る |
嵐山の紅葉、とっても色づいててきれいですね
竹林、ライトアップしてなかったんですか!?
そういえば、夜は行ったことないかも。。
天竜寺、野宮神社、竹林、ほんとに大好きな場所なので、また行きたくなってきました
あ、本能寺は、私も何度か前は通ってます。
意外ですよね、思いがけない所で。
普通に、見逃してしまいそうです。