神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

京都・福長神社。

2006年09月18日 | ◇京都府 -洛中
井戸と水の神・商売繁盛・五穀豊穣

福長神社

(ふくながじんじゃ)
京都市上京区室町通武者小路下ル福長町538




住宅街の中にある小さなこの神社も、京都の様々な歴史を目撃しています。


〔御祭神〕
福井神
(さくいのかみ)
綱長井神
(つながいのかみ)
宇迦之御魂神
(うかのみたまのかみ)



 京都御所から霊光殿天満宮への道の途中に民家に囲まれてひっそりと佇む神社があります。祀られている御祭神の名前にちなんで福長神社と呼ばれるこの神社は、福長町の地名の起源となった神社でもあります。今でこそ社殿と御神木が1本祀られているだけの小さな神社ですが、元々は井戸や泉を守る水の神である福井神綱長井神をそれぞれ御祭神とする福神社長井神社という2社に分かれて祀られており、延喜式内社にも名を連ねる由緒ある神社でした。福神社長井神社は、現在の京都市上京区一条通猪熊辺りにあった律令制度における国家機関「神祇官(祭祀を司る役所)」の西院に祀られていた「座摩巫祭神(いかすりのみかんこのまつるかみ)」5座のうちの2座で、公家屋敷が立ち並ぶ高級住宅街の中心地に立っていた両社は貴族たちの厚い崇敬を受けていたといわれています。ちなみにその他の3神は生井神(いくいのかみ)波比祇神(はひきのかみ)阿須波神(あすはのかみ)です。





神社に隣接して立つ地蔵堂(左)と、鳥居をくぐってすぐのところにある手水舎(右)。



 時代は下って安土桃山時代。福神社長井神社は1586(天正14)年に建設されることになった関白・豊臣秀吉公の邸宅「聚楽第」の縄張りの中に含まれることになってしまいます。このあおりを受けて福神社長井神社は1つの社殿に合祀され、両方の名前を一字ずつとって「福長大明神」と呼ばれるようになったといわれています。豊臣秀吉公より関白の座を譲位された甥・豊臣秀次公に譲られた聚楽第は、1595(文禄4)年の豊臣秀次公の失脚・切腹の悲劇を受けて取り壊されることになり、それに伴って福長神社も移転を余儀なくされ、現在の地に遷座されました。





福井神と綱長井神を祀る社殿。稲荷神も祀られた事から「福長稲荷」とも呼ばれました。



 1788(天明8)年、京都の街を大火災が襲います。「天明の大火」といわれたこの火災のもたらした被害は応仁の乱を上回る大規模なもので、当時の市街地の実に9割近くを焼き尽くし、京都の歴史上最大最悪の火災といわれました。1月30日から2月2日までの3日間に渡って京の街を焼き尽くした大火は37,000軒の住宅を焼き、京都御所二条城なども灰燼に帰してしまいました。福長神社もこの大火に巻き込まれて全焼。再建はされたとはいえすっかりその規模は小さくなってしまい、今では往時を偲ぶ残滓すらなくなってしまいました。





社殿の奥にある本殿(左)と、境内の一角にポツンと立っている御神木(右)。


アクセス
・京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車、南西へ徒歩1分
福長神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。