目指せ!映画批評家

時たまネタバレしながら、メジャーな作品からマイナーな作品まで色んな映画を色んな視点で楽しむ力を育みます★

ニュースの天才 ★★★

2005-08-24 11:29:49 | ★★★
DVDで「ニュースの天才」を見ました。
なかなか面白い映画でした。粗筋を紹介しますと、ニューリパブリック誌の若手記者が次々にスクープをモノにしていくわけですが、実はそれらは自作自演の捏造記事だった!というお話で実話をもとにした映画になっています。
主演はスターウォーズ新三部作でアナキンを演じたヘイデン=クリステンセン。なかなかいい味を出していたように思います。特に自信家の顔から、追い詰められて憔悴していきすっかり覇気を失っていく顔への変わり様はまさに絶妙でした。いい演技だったと思います。どこか危うさがある若者を演じさせるとかなりいい味出しますね、彼。存在感はかなりあるので後は細かい演技でデティールを追求していけばかなりいいセンいきそうですね。
映画自体は実話をうまく描けてはいるんですが、あと一歩足らないと感じました。その物足りない部分はひょっとするとヘイデンの重厚感だったのかもしれませんが、演出なども割合地味でもう少しいい感じに派手にしてくれてもよかったように思います。DVDにはメイキングや実際に事件を起こした記者へのインタビューなども収録されていますのである種の伝記映画的性質もあるように感じました。まあ地味でも仕方ないのかなあ。
つい7、8年前の事件なのでご存知の方も多いと思います。米国において唯一大統領専用機にそなえてある雑誌で、権威のある雑誌として名をはせています。しかし、記者というのは一部の売れっ子記者を除けばみんな結構大変で自分が書きたい記事を書くことすらままなりませんし、売れっ子になるためになりふり構っていられない人も多いようです。
捏造記事の作成過程についてなどはDVD本編を見ていただくとして、この事件はかなり痛烈に現代社会を風刺しているように思います。
なにしろ、100パーセントの捏造記事が各界の、特に政治家の読者に支持され、追求と告発がなければみんな信じきっていたわけですから。
私はここに情報社会極まれり、と思いました。
いまや現実と仮想現実の境界は曖昧で私たちは情報の真偽を確かめる術を持ってはいますが、目の前を流れる数多くの情報の量は圧倒的で、選別し、吟味する時間などありません。
世界各地で様々な事件や事故が起こり、イベントが行われ、ニュースの量も膨大です。
誰か声の大きい人(権威ある人)が「実はあの銀行は巨額の負債を抱えていて危ない」と言えばきっと多くの人々はその銀行の預金を引き出し、銀行はあっという間に経営難になるでしょう。
流言飛語。疑心暗鬼。氾濫する情報はいずれ、また新しい情報に淘汰されていきその繰り返しは留まることを知りません。

例えば政治家がみんな読んでいる権威ある雑誌でも情報の真偽など不確かなもので、例え嘘の情報であったとしても記事として面白ければ世の中は受け入れた。この事実はまさに現代の情報社会を批判する材料であり、また人々がどれくらいニュースソース(情報源)に無頓着かということを表しています。
今晩のニュースで地球の裏側で大地震が起こったという誤報があっても数多くの日本人は確認する術すらありません。(そりゃあ現実には映像がなければ疑わしい話ではありますが)きっとニュースを見た人はそれをそのまま受け入れるでしょう。
大事なことはニュースを見て情報を享受することなのか、それとも本当に起こっている事実を知ることなのか。
それすらわからなくなった現代人の痛々しい姿をこの事件は痛烈に批判していると感じました。
ぜひとも話のタネにこの映画をご覧になることをお勧めします。
ここからはネタバレ。


主人公についてですが…本人インタビューの最後に編集長は主人公の記事も言葉も二度と信じない、と語りました。編集長は主人公を信じようとして、様々なアプローチで捏造の真偽に迫ります。そして主人公は最後には解雇されてしまいます。彼の記事は捏造で、全ての供述もソースも捏造だったわけですから。
一度失った信用を取り戻すことはとても難しいことです。人間関係において、特に集団と個人の関係において社会的信用を一度失えば、その人は職を失い、人望を失い、お金を失い、愛する人にも愛想を尽かされる。そういうものに捕われるのにしのびないから、罪刑が軽減されるのが子どもであり、信用を元に社会は成り立ち、そこで自分の信用をかけて仕事をするのが大人です。
社会や仕事場は一度や二度の失敗は許してくれます。ですが、許されない失敗というものは確実に存在します。また軽い失敗でも積み重なればそれは信用を失うトリガーとなります。大人と大人の付き合いでは決定的な失敗を寛容に許すような余裕はどこにもないのです。
社会的信用を失うような行為の存在理由を知らなければ、そして末路を知らなければ大人であっても常識人でも政治家でも簡単に過ちを犯すでしょう。ある人が目の前に広がった名声や富や世界に目が眩んで過ちを犯し、それが露呈されたとすれば、その人間に対して社会はとても厳しいです。
社会で生きる上で様々な法律があります。しかし法律は最低限の道徳でしかなく、倫理感や社会的責任、社会的道義は時に法律より有効に強力に人を責め立てます。刑罰や民事賠償以上に社会の信用を失うということは、その人間を生きにくくします。
社会がそれを許さないのはそこに倫理や道義があるからです。それを備えているのが大人であり、こども以外は知らないでは済まされません。
主人公は自らの非を、信用を失うときまで認めようとはしませんでした。下手に取り繕おうとしました。
編集長が記者を他社からのバッシングから守るべきだと言い続けました。
ですが、編集長は本当は守りたかったんだと私は思います。そして、主人公が非を認め、間違いを認めれば許す、もしくはもう少し情状酌量の余地を与えたんじゃないでしょうか?

決定的な間違いをすれば、確かに社会は責任を取らせます。
ですが、自ら過ちを認め深く猛省する人間であったならば結末はもう少し変わったと私は思います。


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