視界の隅で、なにものかが蠢いている。飛蚊症かもしれないし、そうでないかもしれない。
数十年に一度の大雪だというのに、何もなかった。思い出に残ることが何もなかった。
疲れとだるさの違いが分からなくなっていることに気付く。
精神的にまずい方向に落ち込んでいる。時間が経てば回復するはずだが、それまで待てるのか。
私という人間は、既に終わっている。
終わっている人間がこの先生きてゆく意味があるのか。
人間は幸せになっているのだろうか。日本人は前より幸福になっているのだろうか。「この世に生まれてきたからには、幸せになる権利がある」と言って自分の幸福に拘っている人間ばかりではないのか。
忘れられない思い出。
親戚のお葬式の日はとても暑い日だった。まだ10代だったぼくは、「自分が死ぬときはこんな暑い日は嫌だな、参列者に迷惑だから」という意味のことを呟いた。母が「優しいのね」と言った。でも違う。そうではない。「参列者に迷惑」と思ったのは、自分が今の状況をいい迷惑だと感じていたからに他ならない。自分のような「犠牲者」を出したくないだけだった。利己心。本当は死者を悼まなくてはならないのに。嘆きに身体を貫かれる代わりに、暑さにうんざりしたのだ。なるほど、葬式とは「そういうもの」なのかもしれない。だから利己心が糾弾されなくてはならない謂れはない。とはいえ、褒められるべきものでは絶対にない。
人生では、こういうことが往々にしてある。
人間は100年前より幸せになっているのだろうか。100年後もっと幸せになっているのだろうか。
自分が幸せになるためには、感情はいらない。他人を幸せにするためには、感情がいる。ぼくに感情はいらない、そう言えたらどんなに楽だろう。感情がなくなれば、そう言えるのに。
終わりの中を生きている。どうせこの先何もない。あるのは屈辱。終わり方を探している。幸福な終わり方を。その意味でぼくは幸福を探している。自分の幸福。
数十年に一度の大雪だというのに、何もなかった。思い出に残ることが何もなかった。
疲れとだるさの違いが分からなくなっていることに気付く。
精神的にまずい方向に落ち込んでいる。時間が経てば回復するはずだが、それまで待てるのか。
私という人間は、既に終わっている。
終わっている人間がこの先生きてゆく意味があるのか。
人間は幸せになっているのだろうか。日本人は前より幸福になっているのだろうか。「この世に生まれてきたからには、幸せになる権利がある」と言って自分の幸福に拘っている人間ばかりではないのか。
忘れられない思い出。
親戚のお葬式の日はとても暑い日だった。まだ10代だったぼくは、「自分が死ぬときはこんな暑い日は嫌だな、参列者に迷惑だから」という意味のことを呟いた。母が「優しいのね」と言った。でも違う。そうではない。「参列者に迷惑」と思ったのは、自分が今の状況をいい迷惑だと感じていたからに他ならない。自分のような「犠牲者」を出したくないだけだった。利己心。本当は死者を悼まなくてはならないのに。嘆きに身体を貫かれる代わりに、暑さにうんざりしたのだ。なるほど、葬式とは「そういうもの」なのかもしれない。だから利己心が糾弾されなくてはならない謂れはない。とはいえ、褒められるべきものでは絶対にない。
人生では、こういうことが往々にしてある。
人間は100年前より幸せになっているのだろうか。100年後もっと幸せになっているのだろうか。
自分が幸せになるためには、感情はいらない。他人を幸せにするためには、感情がいる。ぼくに感情はいらない、そう言えたらどんなに楽だろう。感情がなくなれば、そう言えるのに。
終わりの中を生きている。どうせこの先何もない。あるのは屈辱。終わり方を探している。幸福な終わり方を。その意味でぼくは幸福を探している。自分の幸福。