Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

喋らない生徒

2014-02-03 23:10:11 | Weblog
吃音が職場で理解されないことを苦に自殺した人のニュースをやっていたけれど、やはり環境というのがとても大事だと思う。

ぼくが中学校で教育実習をしていたとき、1年生のクラスに、誰とも一切話さない生徒がいた。その生徒がなぜ口を開かないのか、当時ぼくは知らなかったし、今も知らない。吃音ではないと直感的に思ったし、単に極度にシャイなだけなのかもしれない。それは分からない。とにかくその生徒の声をぼくは一度も聞かなかった。

ある日、授業中に先生がその生徒を指名して何かを答えさせようとした。その生徒は椅子から立ち上がると、そのまま一言も発せず、俯くばかりだった。先生は、その生徒を急かして、何か答えるように要求した。でもその子は顔を赤らめたまま何も言わなかった。教室が少しざわめき出した。誰かが囃し立てた。公然と揶揄する者も現れた。先生は更に答えを要求した。しかし生徒は黙ったまま佇むばかりだった。

授業後、ぼくは先生に尋ねた。どうしてあの子が答えるのをあんなに長いこと待っていたんですか? 先生は、こう言った。社会に出たときのための訓練をしているんだ。あの子のためなのだ、と。

ぼくに教育のことは分からないけれども、この先生は間違っていると思ったし、今も思っている。一体この先生は、生徒がなぜ口をきけないのかを正しく理解しているのだろうか? 少なくともぼくの耳には、この生徒が精神的・身体的な理由で話すことができないというような情報は入ってこなかったから、単に性格の問題なのかもしれない。でもたとえそうであったとしても、いやそうであるならば、あんなふうに授業中に質問を浴びせたのでは、アガリ症の人は一層恥ずかしくなって話すことができないに決まっているじゃないか。

こういうふうにして、生徒には負の記憶が刻まれてゆく。「恥辱」という記憶だ。社会に出たときの足枷になる記憶だ。けれども、それが分かっていながら、痛いほど分かっていながら、ぼくはその生徒に何もしてやれなかった。実習生だから、というのは言い訳にならないと思う。せめて何か優しい言葉をかけてやりたかった。ぼくにそれができなかったのは、それが贔屓に当たるのではないかと恐れたからだ。いや正確に言えば、他の生徒から贔屓と咎められるのを恐れたからだ。つまりぼくは自己保身のために、その生徒をただ見つめることしかしなかった。

ぼくは周囲の人たちに恵まれた。本当に恵まれていたと思う。吃音というのは、極度のアガリ症の結果でもあり、リラックスしているときには大抵の場合症状は出ない。だから普通に友人と会話しているときなどは、言葉に詰まることはそれほどない。それでも、ときどき言葉が出てこないこともある。ぼくはそういうときには同じニュアンスの言いやすい単語を咄嗟に発するのだけど、そういう「技」を使えない人もいると思う。そもそも使えない場合というのもある。そんなとき、大事なのが周囲の理解や優しさだ。言葉に詰まったり、繰り返したりするのをからかったりしないで、見守ってくれること。あるいはさりげなく話題を変えてくれること。

あの先生は、たしか学年主任だったと思う。自分のやり方が絶対に正しいと信じているような人だった。ぼくが授業で少し工夫しようとすると、必ず自らの指導法に変更させるような先生だった。だから、何もしゃべれない生徒を一人立たせたままずっと答えるよう要求し続けることが、その生徒のためになると本気で信じていたんだと思う。

その生徒がなぜ口を開けなかったのか、ぼくは知らない。でも、授業中に先生から詰問され、周囲の生徒から囃し立てられることが、将来社会に出てからの訓練になるとはどうしても思えない。

あの先生は、もしかしたら今頃教頭にでもなっているかもしれない、そんな気がする。