世の中の頑張れない人たちへ。
頑張れない人は、甘えているのだそうです。だから自分は甘えているのだそうです。自分は、生きていく意欲なんて持ち合わせていないから、両親に何かあったら自分も死ぬつもりです。ずっとそうするつもりでしたが、ここで決意表明いたします。
追記
誤解されないために書きます。
上のような文言が既にして「甘え」だという言う人はいるでしょう。だからこそ自分は死ぬつもりだと言うのです。
この世界には、弱い人の考えを理解してくれる人もいます。しかし一方で、強い人間がいて、弱い心を解さない人間がいます。そして往々にして世界はそういう人間によって支配されている。そういう中で生きるのが、自分には苦しいのです。どうも居心地が悪いのです。端的に言えば、同じ空気を吸っていたくないのです。いかなる関係も持ちたくないのです。彼らと同じ空間・同じ時間を「共有」していることが我慢ならないのです。
自分は、世界から締め出されるのではありません。自分から出て行こうというのです。自分の意志で、そうするのです。自分には、この世界はどうも適さないようなのです。もう15年間も同じことを考えていましたが、やはりそうみたいなのです。
繊細すぎるから?弱すぎるから?臆病すぎるから?分かりません。しかし事実として、どうにも生きようがないのです。
15年前は、単に「いま死ぬ」ということばかり考えていました。ただ、数年前からでしょうか、「あとで死ぬ」という発想に切り替えました。自分は眠れないときなど、よく自殺の仕方に考えを巡らせることによって安心を得て、一休みします。「いつか死ねる」「自ら出て行ける」ということが、安心材料なのです。では、「いつ」がいいのか。やはり、両親の後なのです。それまでは、嫌悪を我慢しながら、毛虫の道を踏みしめながら、生きていきます。世界が変わることは期待できません。自分が変わることも期待できません。とすれば、この方法しかないのです。15年間抱えてきた荷物は日々重くなる一方ですが、やがて自らそれを放り捨てられる日が来るはずです。
自分は、「その瞬間」のことをよく考えます。本当に自分に可能なのか?最後の最後で怖気づくのではないか?・・・恐らく、大丈夫です。成功するでしょう。この自信には根拠があります。
追記2
お詫びと感謝も書かなくてはなりませんでした。
約15年もの間、自分が一貫してこのような考えを抱懐し続けていたわけでは決してありません。翻意させようとしてくれた人もいたし、その態度そのものが翻意を迫っているような人もいました。そして実際、自分はそのとき確かに翻意したのです。家族との接触、友人との付き合い、そして読書や映画鑑賞・・・この3点が、自分をして考えを改めるように促しました。だから、自分はその人たちに感謝しなければならないし、そしてお詫びしなければなりません。ありがとう。ごめんなさい。やはり自分は、駄目みたいなのです。これからも、事ある毎に自分は翻意するかもしれない。しかしその度に再び戻ってくるでしょう。自分はそういう生き物です。だからもう、自分に「それでも生きる」ように説かないでください。もう、いいのです。これでいいのです。これがいいのです。
救いがあるとしたら、「お前」だ。15年間探し求めてきた「お前」だ。ここで謎解きをしよう。あの日の答えは、「お前」だよ。「よく知っているが実は全く分かっていない人のこと」。覚えてるか?ストーブの前で話したことを。
頑張れない人は、甘えているのだそうです。だから自分は甘えているのだそうです。自分は、生きていく意欲なんて持ち合わせていないから、両親に何かあったら自分も死ぬつもりです。ずっとそうするつもりでしたが、ここで決意表明いたします。
追記
誤解されないために書きます。
上のような文言が既にして「甘え」だという言う人はいるでしょう。だからこそ自分は死ぬつもりだと言うのです。
この世界には、弱い人の考えを理解してくれる人もいます。しかし一方で、強い人間がいて、弱い心を解さない人間がいます。そして往々にして世界はそういう人間によって支配されている。そういう中で生きるのが、自分には苦しいのです。どうも居心地が悪いのです。端的に言えば、同じ空気を吸っていたくないのです。いかなる関係も持ちたくないのです。彼らと同じ空間・同じ時間を「共有」していることが我慢ならないのです。
自分は、世界から締め出されるのではありません。自分から出て行こうというのです。自分の意志で、そうするのです。自分には、この世界はどうも適さないようなのです。もう15年間も同じことを考えていましたが、やはりそうみたいなのです。
繊細すぎるから?弱すぎるから?臆病すぎるから?分かりません。しかし事実として、どうにも生きようがないのです。
15年前は、単に「いま死ぬ」ということばかり考えていました。ただ、数年前からでしょうか、「あとで死ぬ」という発想に切り替えました。自分は眠れないときなど、よく自殺の仕方に考えを巡らせることによって安心を得て、一休みします。「いつか死ねる」「自ら出て行ける」ということが、安心材料なのです。では、「いつ」がいいのか。やはり、両親の後なのです。それまでは、嫌悪を我慢しながら、毛虫の道を踏みしめながら、生きていきます。世界が変わることは期待できません。自分が変わることも期待できません。とすれば、この方法しかないのです。15年間抱えてきた荷物は日々重くなる一方ですが、やがて自らそれを放り捨てられる日が来るはずです。
自分は、「その瞬間」のことをよく考えます。本当に自分に可能なのか?最後の最後で怖気づくのではないか?・・・恐らく、大丈夫です。成功するでしょう。この自信には根拠があります。
追記2
お詫びと感謝も書かなくてはなりませんでした。
約15年もの間、自分が一貫してこのような考えを抱懐し続けていたわけでは決してありません。翻意させようとしてくれた人もいたし、その態度そのものが翻意を迫っているような人もいました。そして実際、自分はそのとき確かに翻意したのです。家族との接触、友人との付き合い、そして読書や映画鑑賞・・・この3点が、自分をして考えを改めるように促しました。だから、自分はその人たちに感謝しなければならないし、そしてお詫びしなければなりません。ありがとう。ごめんなさい。やはり自分は、駄目みたいなのです。これからも、事ある毎に自分は翻意するかもしれない。しかしその度に再び戻ってくるでしょう。自分はそういう生き物です。だからもう、自分に「それでも生きる」ように説かないでください。もう、いいのです。これでいいのです。これがいいのです。
救いがあるとしたら、「お前」だ。15年間探し求めてきた「お前」だ。ここで謎解きをしよう。あの日の答えは、「お前」だよ。「よく知っているが実は全く分かっていない人のこと」。覚えてるか?ストーブの前で話したことを。