奈良の昔はなし~弁慶の力釘~
吉野山は、桜の名所として有名ですが、その他に源義経、後醍醐天皇などが登場する物語の舞台としても知られており、遺跡などが多く残っています。
今回は、吉野山の吉水神社に伝わる弁慶の力自慢のお話しです。
昔、義経の家来に弁慶という怪力無双の大男がいました。義経一行は兄の源頼朝に疎まれ、彼の刺客に追われていたのです。義経一行が吉水院にかくまわれていると知った頼朝の追っ手は、建物の外から大声で喚いたのです。
「義経、出てまいれ!」
それを聞いた弁慶は、顔を真っ赤にして、そばにあった釘二本を抜いて表に出るや、大声で叫んだのです。
「やあやあ、我こそは弁慶なり。力試しをいたそう!」
そして、追っ手たちのど真ん中にあった岩に、全身全霊の力を込めて親指で釘二本を打ち込んだのです。
弁慶の形相と怪力を目の当たりにした追っ手たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ったのです。
・・・解説・・・
吉水神社の境内に今も「弁慶の力釘」が残されています。
平安時代の終わり、源氏と平家の戦いで、義経は、鵯越(ひよどりごえ)の奇襲や壇ノ浦の合戦で平家を滅亡させる大きな手柄をたてたのです。
しかし、その後頼朝に追われ、各地を流浪して吉野山へ逃げてきたのです。
吉水神社は、もとは吉水院といい、金峯山寺の格式高い僧坊だったのです。
その吉水神社の書院に「義経潜居の間」「弁慶思案の間」など義経伝説にちなんだ部屋があります。
建物は室町時代の改築とされています。
義経は、最後に奥州の藤原秀衡を頼ったのですが、その子泰衝に襲われ、31歳の若さで討死したのです。また、義経をかばい、弁慶も全身に無数の矢を受けた、世に「弁慶の仁王立ち」で知られているように立ったまま絶命したといわれています。
吉野山の中千本にある吉水神社の境内からは、桜の時期になると「一目千本」といわれいるように見事な桜が望めます。この地では、太閤秀吉も花見の宴を催した場所でもあります。
晩秋はことにその紅葉が美しく、春も良いですが秋も絶景で、吉野山全山が華やかな桜紅葉に包まれます。
~昔はなしゆかりの人物「義経」~
吉野は、源義経が弁慶と身を潜めた場所であり、後醍醐天皇による南朝の始まりの地でもあります。
吉水神社は、訳1300年前に役行者により創建されたとされ、日本住宅建築史最古の書院として世界遺産に登録されています。
後醍醐天皇が延元元年(1336年)に南朝を興したときには、吉水院が皇居となったのです。
吉水神社の書院では、義経や後醍醐天皇ゆかりの展示がされています。