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奈良の魅力を発信

奈良のグルメ情報や史跡・名勝・万葉集・古事記・日本書紀・昔話のゆかりの土地を紹介します
ので、よろしくです!!

春日大社の絵馬がすごい!

2020-10-06 21:20:54 | 地域と文化
春日大社の絵馬が疫病を退散してくれる?

 新型コロナが感染拡大が止まらないことを受け、今回、春日大社ではピカチュウの生みの親であるにしだあつこさんが手がけた疫病退散の絵馬が10月5日に春日大社に奉納されたのを機に、今後、春日大社に登場します。

疫病を退散してくれると言われている妖怪「アマビエ」と春日大社の守り神でもある白鹿をモチーフにした絵馬です。
アマビエの「はるちゃん」と白鹿の「はくちゃん」が柔らかい感じで描かれています。

この疫病退散の絵馬は1枚1000円で、境内の授与所で10月6日から頒布されます。

          


          




夏に最中(もなか)もいいものですよ

2020-08-09 08:01:01 | 地域と文化
夏に最中(もなか)もいいものですよ
 暑い日が続きますよね。こんな暑い時期はアイスやかき氷を食べる方が多いのでは?
でもあまり食べ過ぎると内臓を必要以上に冷やしてしまいますので注意が必要ですよ。
先日、最中を頂いて熱いお茶と食べるととても美味しいかったですよ。ほどよい甘さの餡とまわりの皮が絶妙で3個も食べてしまいました。
貰った最中ですが、奈良では有名な「みむろの最中」です。美味しいのは当たり前ですが、この時期に少し冷蔵庫の野菜室に入れて冷やして食べるととても美味しかったです。
「みむろ」は1844年創業の白玉屋榮壽の銘菓で、170年変わらぬ技法で作られていて、香り高い小豆の風味と焼き立ての糯米(もちごめ)の香ばしさが調和していてとても美味しいお菓子ですよ。
よければ、みなさんもいかがですか。夏はどうしても疲れ気味になってしまいます。そんな時、餡子のほどよい甘みが身体の中から元気してくれますよ。
奈良に遊びに来た時のお土産にも最適で、よく手土産に買っています。
本店は大神神社の大鳥居の近くにあります。また、奈良市の三条通りにも出店しています。

        


 
 











十津川村の「ゆっくり散歩道」

2020-08-04 15:13:06 | 地域と文化
十津川村の「ゆっくり散歩道」
 紀伊半島の南部に位置し、奈良県の3分の1以上の面積を占める十津川村ですが、十津川温泉郷として人気を集めています。

しかし、温泉街を一歩踏み出すと、どの地域もかかえている過疎高齢化が進んでいるのです。特に日本一長いとされる吊り橋で知られている谷瀬集落もこの問題に直面しています。

・十津川・ゆっくり散歩道で活性化
十津川村谷瀬集落には、日本一長い297mの生活には欠かせない吊り橋があります。そしてこの吊り橋は「谷瀬の吊り橋」として広く知られているのです。そのため、この吊り橋を目当てに年間何万人という観光客が訪れるのです。

この橋は昭和29年(1954年)に、集落の人たちがお金を出しあって完成させた吊り橋で、総工費は当時の金額で800万円(現在の価値で1億円以上)だったそうです。

吊り橋が建設される前は、丸太橋が架けられていたのですが、大雨のたびに流され、また、雨の日に通学している子どもが足をすべらせ川に落ちるといったことが多くあり、村の人たちの話し合いで吊り橋を架けようとなったとのことです。

ところで、2014年4月に「ゆっくり散歩道」ができるまで、国道168号から吊り橋を渡った先にある谷瀬集落は静かだったのです。

このとき集落の人たちは、過疎高齢化が進み、いつか集落が無くなってしまうと思っていたらしいです。

ゆっくり散歩道とは、吊り橋を渡った後、谷瀬の集落内の家々や畑・沿道の花を眺めながら歩き、吊り橋を山から一望できる展望台を目指す片道40分のコースなのです。

この道は、2011年の紀伊半島大水害が契機となり、集落を知ってもらい交流人口を増やし、集落を外にひらくことでしたが、集落内に観光客が入ることへの不安などがあったそうです。

しかし、いざ観光客を招き入れて見ると大きなトラブルもなく、集落に活気が溢れまた、集落に移住する若い世帯も増えたのです。

   

・散歩道の整備は住民の技術と学生の企画力
散歩道の整備の大半は、集落の住民の手で行われているのです。

展望台に至る山道の木を伐採して、伐採した木を使ってベンチを作りまた、立派な水車まで造りあげているのです。

集落には、元林業関係者や大工など、技術を持った住民が多くいるのです。そのため、村の人が数人集まればなんでもできる頼もしい集団なのです。

この谷瀬の集落の一連の活動には、奈良女子大学の学生が集落住民と一緒に村づくりに取り組んでいるのです。

散歩道には現在、学生の手書きのイラストで製作された看板と、十津川産杉の木製看板の2種類を場所に応じて設置されています。

・自家製お茶の味わい
谷瀬集落の多くの家の敷地内には、お茶の木が栽培されていて、家ごとに1年間の自家用のお茶をつくっているのです。

毎年、ゴールデンウイーク頃がお茶づくりの季節なのです。

お茶の新芽を摘み、熱した鉄鍋にお茶の葉を入れてしんなりするまで、軍手をはめた手でぐっと押しつけるのです。

その後、むしろの上で、しっかり揉みこむのです。そして後は、広げてしっかり乾燥させれば完成です。

この乾燥ですが、天日干しだと番茶に、太陽にあてずに乾燥させれば緑茶になるのです。

谷瀬集落では集落をひらく実践のひとつとして、お茶づくりなどの生活体験を「ゆっくり体験」として開催しているのです。

また、学生も関わる新たな特産品として純米酒「谷瀬」も販売しているのです。このように十津川村谷瀬集落では、集落の人たちと学生が共に取り組んで集落を盛り上げているのです。

 


 
 
 






 

奈良の夏は柿の葉寿司

2020-08-03 16:31:13 | 地域と文化
奈良の夏は柿の葉寿司が主役
 とかく奈良にはうまいものがないと言われていますが、実は奈良にも全国にほこれる食べ物があるのです。それが「大和名物 柿の葉寿司」なのです。
そこで、柿の葉寿司の魅力や製造などについて迫っていきたいと思います。
・「奈良にうまいものなし」はある文豪の言葉
昔から奈良にうまいものはないと言われていますが、実はこの言葉は文豪の一人である志賀直哉(1883年~1971年)によるもので、彼の随筆の中に「奈良」というのがあり、短い文章のなかに奈良の美しさが素朴に表現されていて、奈良への深い愛着が垣間見ることができるのです。

その随筆の一節に「兎(と)に角(かく)、奈良は美しい所だ。自然が美しく、残ってゐる、建築も美しい。そして二つが互いに溶け合ってゐる点は他に比を見ないと云って差支へない。今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、各画の残欠が美しいやうに美しい」(随筆「奈良」より)

しかし、奈良の良いところばかりでなく、奈良の人は、旅人に与える印象がよくない、税金が高いなど、文句や注文も多くあり、この短い随筆を世にしらしめたが「食ひものはうまいもののない所だ」の文章です。

この一文によって、昔から奈良にはうまいものがないというイメージが植付けられたのです。

・自然の器「柿の葉」で食べる寿司
柿の葉寿司は、奈良県の南部で食べられてきた郷土食で、本来なら夏の食べ物なのです。また、寿司を包む柿の葉も庭先から取ってきたばかりの初夏の若葉が用いられ、青々とした色が特徴なのです。

柿の葉寿司は、酢めしを握り、その上に塩鯖をのせ、柿の葉で包んで、押し寿司としたとてもシンプルな寿司なのです。

・柿の葉寿司は塩鯖が命
柿の葉寿司は、シンプルな食べ物だからこそ、ひとつひとつの素材の仕上がりが大きく左右するのです。

米や酢、塩など、どれをとっても味のよしあしに直結するのですが、包んでいる柿の葉を開いて最初に目に訴えてくるのが鯖です。

柿の葉寿司職人は、鯖の寿司はネタの中でも格別の存在で、鮭や鯛、海老など、柿の葉寿司のネタがどれだけ広がったとしても、どこまでも極めたくなる面白い魚は鯖だけといっているのです。

また、魚の状態の見極め、塩の加減や寝かせる時間の判断、ネタの大きさと厚み、酢飯の味付けと鯖との大きさのバランス、そしてすべてを尽くしてなお読めないのが食べられるタイミングなので、レシピ通りにできるものは1つもなく、経験と勘が頼りだとも言っているのです。

鯖の仕入れには、それぞれの店に特徴があり、秋から冬にかけて一番脂が乗った時期に水揚げしたものを大量に仕入れ冷凍保管しておく店、一番状態のいい鯖を求めその都度水揚げ、港も変える店など、各店の鯖への情熱は半端ではないのです。

柿の葉寿司職人が生み出す鯖の寿司の美しさと濃厚な味わいは格別で、鯖は柿の葉寿司の真髄なのです。


 
 
 
 

日本書紀を巡る

2020-07-28 10:15:43 | 地域と文化
日本書紀巡り~広瀬神社~
 「この地の沼から去る」・・・・。崇神天皇の代、龍神からのご神託で一夜にして沼地は陸地となり、橘がたくさん生えたことが天皇の知るところとなって社が創建されたと社伝にあります。

廣瀬大社が鎮座するのは、初瀬川、曽我川など、大和盆地を流れる多くの川が合流するところにあります。天武天皇4年(675年)、風神を龍田大社にまた、水神である大忌神(おおいみのかみ)を「広瀬の河曲(かわら)に祭らしむ」と「日本書紀」には記され、以後、天武天皇、持統天皇の代に30回以上にわたり両社を祀ったとされています。この地が風水を治める特別な地であったことがうかがえます。

古代から変わらぬ祝詞(のりと)にも、水を司る廣瀬の神様は五穀豊穣を守る「御膳神」とあり、家々を守り、万物の成長を助ける衣食住の神様でもあるとして人々の崇敬を集めてきました。

天武天皇の頃から始まったとされる「大忌祭(おおいみさい)」は、今も御用植祭「砂かけ祭り」として伝えられています。

この「砂かけ祭り」ですが、田植えの所作を田人(たびと)と参拝者が、境内の神の砂を雨に見立てて激しくかけ合うもので、「雨がたっぷり降りますように」「田植えがうまくいきますように」と願います。雨の少ない奈良盆地ナラではの祭りと言えます。この行事は毎年2月11日に行われます。

・・・廣瀬神社の「砂かけ祭り」・・・
廣瀬神社の例祭は毎年4月4日に行われますが、2月11日(陰暦正月12日)に「砂かけ祭り」として知られている「御田植祭」がとり行われます。境内に忌竹を立て注連縄を張って御田を設け、氏子が扮した牛と牛遣いが鋤く所作をし、松葉でつくった苗を植えます。参拝にきた人たちは、牛役などに斎庭の砂をはげしくかけます。この砂を雨に見立て、田植えに必要な雨が充分に降るように祈願します。

祭りがひと通り終わると、参拝者に松苗と田の字を描いた田餅が撒かれます。松苗は播種のときに苗代の水口にさして発芽と豊穣を祈り、田餅を食べて無病息災を願います。

砂かけは水かけと同じ意味を持ち、清め祓い、豊かな稔りを願う儀式で廣瀬神社にふさわしい祭りとも言えます。
       

・・・風の神様「龍田大社」・・・

生駒郡三郷町に鎮座する龍田大社は、「風の神様」として古くから多くの方に親しまれており、天地宇宙の万物生成の中心となる「気」で守護(まも)ってくれる、幅広い力のある神様とされています。

創建ですが、歴史は古く、今から約2100年前、第10代崇神天皇(すじんてんのう)の時代、国内に凶作や疫病が流行し騒然としているなか、天皇の御夢に大神様が現れ「吾が宮を朝日の日向かう処、夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に定めまつりて・・・」という御神託を授けられ、大神様のお告げ通りにお社を造営されると、作物は豊作に、疫病は退散したと伝えられており、それが龍田大社の創建とされています。(延喜式・龍田風神祭祝詞より)

また陰陽五行では「風の神様」は木気にあたることを示しており、「木」偏に「風」と書く[楓]で四方八方(東西南北とその間の四方)を風の神様の清々しい「気」が行きわたる様にと[八重の楓]を神紋として用いられています。

龍田大社の社是(要旨)ですが、風の神様、始まりの神様を奉斎す。当初創祀に回帰すべく、意(こころ)して、参拝者の祈念に応え、個々の心の安定をはからしめ、渾然一体真の意(こころ)の形成に寄与し、以って大道泰平に貢献す。人は天地五行の気を禀(う)け、以って生を成すにより、一心自ら各々五気の徳備わり、五行の大過不及により、五徳を発揮成す事能(あた)わざるに至る。然れば五行を以って大過成す人には之を抑え、不及成す人には之を助く事に努むるとしています。

    


 
 
 

奈良の昔はなし~天理編~

2020-07-13 13:09:52 | 地域と文化
奈良の昔はなし~天理に伝わる話~
 天理と桜井、奈良を結ぶ道路が山の辺の道。
奈良盆地を取り囲む山々の、東側の山麓を縫うように古人が通った道があり、「日本書紀」の武烈(ぶれつ)天皇の条(くだり)にも記されている道なのです。
この山の辺の道の途中にあるお寺が長岳寺です。
今回は、この長岳寺に伝わるお話しをします。(少し怖~いお話が似合う季節になりましたね)

さかさの幽霊
 奈良盆地の東に連なる青垣の山並みの中に、ひときわ高くそびえる龍王山(りゅうおうざん)があります。

戦国時代、この地に山城(やましろ)を築いた十市遠忠(といちとおただ)は、山のふもとにある長岳寺を前衛の陣地として城を守っていました。

その頃、十市氏と争っていた相手方の松永久秀(まつながひさひで)という武将が、長岳寺に攻め込んできました。寺では遠忠が迎え撃ち、大将同士の組み討ちになりました。

二人はともに強くて立派な武将ですから、組んずほぐれつの戦いが寺に中で繰り広げられました。

二人のわらじは血でぬれ、本堂の床板には血で濡れたわらじの跡が残されました。

この時はどちらの大将が勝ったのか定かではありませんが、寺ではこの時の壮烈な戦いを残すために、この床板を本堂の天井のひさしに入れて保存しました。

ところがそれから、この寺の本堂に、幽霊が逆さになって歩いて出るという、うわさが広まりました。

「わしは、逆さまになって戦っている幽霊を見た。髪を振り乱したものすごい形相やった。」

「いや、わしが見たのは、まるで死人が歩いているような幽霊じゃった。」

「わしには何も見えへんかったがなあ。」

「それはそうじゃ。夜に、それも風の吹く日に、よく出るのじゃ!」

などと、いろいろなうわさが飛び交いました。

人々が天井の血のわらじ跡を見るたびに、多数の死者がでたであろう戦いを想像して、亡霊が動いているように思ったのでしょうか。

あるいは、この世に未練を残して死んでいった多くの侍たちが、成仏できずにさまよっているのでしょうか。

長岳寺では「さかさ幽霊」として、血のわらじ跡とともに、今もそんな話が伝わっているのです。

長岳寺にはJR・近鉄天理駅より桜井駅行バスで「上長岡」下車、徒歩5分のところにあります。

また、長岳寺には地獄絵図もあり見る価値は十分ありますので、詳しいことは長岳寺のHPで!


     


         

 
 
 


奈良に伝わるお話し

2020-07-12 07:45:01 | 地域と文化
奈良の昔はなし~水がわいた~
 九州の豪雨やコロナの感染など、毎日暗いニュースが多いですよね。そんな中、少しホッとするお話を聞いてください。今回は奈良県の大和高田市にまつわるお話です。
二上山、金剛葛城の青々とした山並みが、夏の澄んだ空に映えて美しい景色となっています。
今回はこの地にやってきた、旅のお坊さんの有難~いお話です。

昔むかし、その昔の千二百年前のことです。
真夏の太陽がジリジリと照り付ける日、錫杖を持った一人のお坊さんがある家の門口に立っていました。

「喉が渇いてどうにもならん。水を一杯恵んで下されや」

若いお嫁さんが出てきて、「それはお気の毒に。でも、ここは水なし村と言われるほど水のないところ。その代わり、マタタビの実でどうぞ喉を潤してくだされ」

その実のおかげで、お坊さんはすっかり元気を取り戻しました。そして言いました。「有難い。助けて頂いたお礼に」と、お坊さんは近くの辻で、足元の土を錫杖の先でトントンとたたいのです。

するとあら不思議、きれいな水がコンコンと湧き出たではありませんか。

これが今も残る名高い井戸で、地名も、井戸があることから有井と呼ばれました。その不思議なお坊さまは、弘法大師さまだったそうです。

解説
日本仏教界の巨星、超人的な天才と言われる弘法大師空海。彼は遣唐使に従って中国に渡って学び、密教を日本に伝えたのです。

そして、嵯峨天皇から賜った高野山に寺院を建て、多くの弟子を育てたのです。

その高野山からのちに「高野聖(こうやひじり)」と呼ばれる僧たちが、大師信仰の布教を兼ね、日本各地に大師の不思議な法力で、困っている人たちを助けた説法を広めて歩いたのです。

説法の数は、五百ともそれ以上とも言われていますし、東大寺・大安寺・興福寺などでも足跡を残しており、奈良との縁も深いお坊さまなのです。

         

 
 
 


飛鳥古墳巡り

2020-06-29 09:34:19 | 地域と文化
~飛鳥古墳巡り~
 古人の都と呼ばれ、日本の歴史上初の首都となった地が飛鳥で、この地は、日本が日本と名乗り、さまざまな文化が誕生した地でもあり、その反面、権力闘争も激しく行われた地でもありますので、古墳も多くありますので、古人を思いながら巡ってみましょう。
~巨石を舞台に離れと踊る~
 近鉄吉野線飛鳥駅より明日香周遊バス(赤かめ)で行くこともできますし、国営飛鳥歴史公園館から歩いて40分くらいで行けるのが、石舞台古墳です。
石舞台古墳は、国営飛鳥歴史公園内石舞台地区にある日本有数の方墳です。築造は7世紀前半と見られており、最大のもので77tと推定される巨石を30個以上使った豪壮な墳墓で、当時の土木技術や運搬技術の高さをうかがえることができます。
現在は、古墳を覆っていた封土が取り除かれ、長さ7.7m、幅約3.5m、高さ4.7mの巨大な石室がむき出しになっています。
石室の天井部分の石が広く平らになっており、まるで舞台のように見えることから古来より「石舞台」と呼ばれてきたのです。またこの他、狐が女性に化けて石の上で舞を見せたという伝説や、この地にやって来た旅芸人が、舞台がなかったので、仕方なく大石を舞台に演じたという話が伝えられています。
しかしこの古墳ですが、だれが埋葬されていたかは不明のままですが、その規模の大きさからも、また、近くに邸宅があったことから考えて、7世紀前半に全盛を誇った豪族、蘇我馬子の墓というのが有力な説となっています。

    

~牽牛子塚古墳は斉明天皇陵~
益田岩船から400mほど南東には真の斉明天皇陵と目される牽牛子塚古墳があり、
屋根伝いの道を伝って行き来することができます。
牽牛子塚古墳は巨石をくり抜いて造った2つの玄室を持つ特異な古墳ですが、そのことは斉明天皇とその娘である間人皇女を合葬したという日本書紀の記述に合致します。
横口式石槨説によれば、当初、益田岩船を斉明天皇陵の石槨として造りはじめたのですが、途中で石に亀裂が生じ、そのままでは割れる怖れがあったことから放棄され、代わりに牽牛子塚古墳を造営することになり、益田岩船の頂上にあけられた2つの穴は2人分の玄室で、穴を彫った後、横倒しにする計画であったと伝えられ、最初から本来の横向きで制作しなかったのは、花崗岩という固い岩の性質上、上から穴を空ける方が作業しやすいと推測することができます。
~真の斉明天皇の墓は~
近鉄吉野線飛鳥駅の裏山にある岩屋山古墳ですが、この古墳も、牽牛子塚古墳の隣で越塚御門古墳が発掘されるまでは、真の斉明天皇陵の候補に挙がっていたのです。
岩屋山古墳ですが、横穴式古墳の石室であるのですが、加工精度は見事で、石室の全長は16mあり高さも人の背丈ほどもある巨石ですが、その表面はまるでコンクリート造のモルタル仕上げのように滑らかに整形されています。
巨大な石室を備えた古墳が、飛鳥だけでなく日本各地で盛んに築造された時代がありますが、巨大な石を一体どうやって運び、どのようにしてあれほど精密な加工ができたのか謎が解明できていないのも魅力の一つと言えます。
斉明天皇に関係している遺跡は多くあり、日本書紀の中でも斉明記はひときわ異彩を放っています。
斉明天皇の治世は、東アジアの一大転換期にもなっており、新羅と唐の連合軍に攻められ存亡の瀬戸際に立たされた百済は、同盟関係にある日本に援軍を求められ、斉明天皇は、百済の救援要請に応じ、陣頭指揮のため赴いた九州で亡くなりました。
日本書紀は、斉明天皇の情愛溢れる女性として一面も伝えています。孫の建王(たけるのみこと)が8歳という幼さで亡くなったとき、天皇は悲しみに堪えられず、慟哭すること甚だしかったといいます。
飛鳥川 漲らひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも(訳:飛鳥川が水をみなぎらせて、絶え間なく流れていくように、絶えることもなく、亡くなった子のことが思い出されることよ。)という斉明天皇が亡き孫を偲んで詠んだ歌が残っています。

~天武・持統天皇合葬陵~
 近鉄吉野線飛鳥駅からバスで天武・持統天皇陵下車して徒歩すぐのところに、天武・持統天皇合葬陵があります。
現在の一夫一婦制とは異なり、明治以前の天皇は確実に跡継ぎを残すため、複数の妻を持ったのです。妻として、わが身に天皇の寵愛を得、わが子に皇位を継がせたいと願うのは当然のことで、女帝・持統天皇の一生は、まさに天皇の妻として母として激しく生きた一生でした。
645年、大化の改新の年、持統天皇、幼名・鵜野讃良皇女(うののささらのひめみこ)は、父・中大兄皇子と蘇我一族の血をうけた母・遠智娘(おちのいらつめ)との間に生まれたのです。政変相次ぐ七世紀後半の世、鵜野讃良王女も幼いころから波乱に満ちた道を歩んできたのです。
鵜野讃良皇女が五歳の時、母方の祖父が父によって滅ぼされ、このことにショックを受けた母は発狂死し、母亡き後、まだ13歳の時に父の政略で叔父にあたる大海人皇子に嫁がされ、結婚から4年後に草壁皇子を出産します。父・天智天皇の皇位継承争いから大海人皇子身を引いて吉野へ下り、翌年決起して壬申の乱を起こしたときは、夫・大海人皇子と行動をともにします。
この時期は苦難続きながらも、ただ一人の妻として夫を独占できたという意味で幸せだったと言えるのかもしれません。
壬申の乱に勝利した大海人皇子は天武天皇として即位し、鵜野讃良皇女は皇后となり、彼女は草壁皇子の皇位継承者としての地位を確実なものにするべく、夫・天武天皇が亡くなると、大津皇子を謀反の疑いで処刑するなど、さまざまな策を講じるのですが、草壁皇子は病死し、そこで、草壁皇子の子・軽皇子が皇位に就くまでの間、自らが天皇として即位し、女帝時代を開くのです。
天武天皇の政治を引き継ぎ、諸制度の整備を進め律令国家の確立に尽力をしたのが持統天皇です。
彼女が築いた藤原京から真南の見晴らしのいい丘に築かれた陵墓に、天武・持統ふたりの天皇が合わせて葬られています。
   


 

 
 








飛鳥ミステリーツアー

2020-06-28 16:53:50 | 地域と文化
~飛鳥のミステリーツアー“謎の石めぐり”~
 古人の都と呼ばれ、日本の歴史上初の首都となったのが飛鳥で、この地は、日本が日本と名乗り、さまざまな文化が誕生した地ですが、それ故に謎につつまれた石造物が限られた地域にこんなにもあるのは飛鳥ならではで、謎の石に秘められた飛鳥の伝説や神話さぐるツアーに行きましょう。
~愛嬌の裏に隠された怖い伝説~
 近鉄吉野線飛鳥駅と石舞台古墳の中間にあるのが亀石で、丸々とした愛嬌たっぷりの姿から、飛鳥の石造物の中でも人気の高い石造物です。
亀石ですが、その昔、当麻のヘビと川原のナマズが大和湖を巡って争った時、ナマズが敗れたため、ヘビに湖の水を取られ、川原にいた亀は枯死してしまいました。これを哀れに思った村人が供養のために造ったのが亀石だと言われています。
しかしこの亀石には少し怖い伝説があり、亀が「西の当麻方向を向くと、大和一帯が泥の海になる」という恐ろしい言い伝えがあります。
かつて東を向いていた亀石が、現在では南西を向いており、年々西の当麻向きに動いているとのことです。
~古人が作った謎の石造物~
近鉄吉野線岡寺駅から西へ行くと橿原ニュータウンなどの住宅街があり、その背後に小高い岡があります。標高は130mほどで岩船山といい山頂には巨石建造物があります。この建造物の名は「益田岩船」は飛鳥に点在する謎多き石造遺物の最たるものです。
大きさですが、長さは東西で11m、南北は8m、高さは4.7mの台形をした巨大な花崗岩です。推定重量は、100t以上といわれ、頂上部を経由して東西の両側面を結ぶ形で幅1.6mの浅い溝が彫り込まれており、また、頂上部には四辺の長さ1.6m、深さ1.3mの穴が二つ穿ってあります。
不思議なのは、固い花崗岩をここまで滑らかに彫りあげた加工精度は凄いものがありますが、石の下部は荒削りな格子状の整形跡が残っており、この建造物が製作途中で放棄されたことを示します。また、上部平坦面の溝や穴が高麗尺に基づいていることや加工技術などから7世紀代の制作と考えられています。
この巨石建造物の用途ですが、益田池の巨大な石碑の台石、占星術のための天体観測台、火葬、墳墓、ゾロアスター教の俳花壇もしくは水の祭壇など諸説あり、古墳の横口式石槨説が有力だとされていますが謎は尽きず、古人に聞かない限り謎は解けないのではないでしょうか。
~天皇の元お墓に鬼がいた~
 近鉄吉野線飛鳥駅から国道169号線を跨いだところに、鬼の雪隠・鬼の俎があります。
鬼の俎・鬼の雪隠という呼び名ですが、昔この霧ケ峰に棲んでいた鬼が霧を降らせて通りかかった人を道に迷わせ、とらえては「俎」で調理し、食べたあと「雪隠」で用を足していたという伝説に由来しています。
      
実際には、この2つの石は斉明天皇の御陵を造るために用意されたものの、地震か何かの原因により崩れてしまい、そのまま放置されたものとの見方もありますが、鬼の俎に残る多数の穴は、高取城築城の際に石工が切り出そうとした跡だと推測されています。
~謎の石造遺物“酒船石”~
 奈良県万葉文化館の近くにあるのが、謎の石造遺物“酒船石”があります。
飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)は、大化元年(645年)時の大臣、蘇我入鹿が皇極天皇の面前で中大兄皇子や中臣鎌足らによって暗殺されるという「乙巳の変」の舞台となったところで、その後、弟の孝徳天皇に位を譲った皇極天皇は、斉明元年(655年)、今度は斉明天皇としてこの場所で再び即位し、斉明天皇の時代にこの石造遺物が造られました。
酒船石は、飛鳥板蓋宮跡と伝わる遺跡から500mほど東の古高い丘の頂上にあり、長さ約5.3m、最大幅約2.3m、厚さ約1mの平らな花崗岩に楕円形の窪みが7つとそれらを結ぶ溝が彫られていますが、後世に石の一部が切り取られ、高取城の石垣に転用されたと言われています。
酒船石は、全体的に緩い傾斜をつけて設置されており、半円形の窪みに液体を注ぐと溝を伝って縦長の楕円形の窪みの方向に流れるというのですが、この不思議な石は、いったい何の目的でつくられたのか、窪みと溝は一体何を意味しているのか、それは、酒を作るため、油を作るため、辰砂を作るためなど、諸説ありますが、儀式的に水を溜めたり流したりするのが目的であるとすれば何らかの「水信仰」が存在し、酒船石はその祭祀を報り行う祭壇だったと考えるのが理想ではないでしょうか。

   



 

 

日本で最初の仏教寺院「飛鳥寺」

2020-06-27 07:46:24 | 地域と文化
~日本最初の仏教寺院“飛鳥寺”~
 甘樫丘を挟んで飛鳥川の西に飛鳥寺があります。近鉄吉野線飛鳥駅から明日香周遊バスに乗り飛鳥大仏バス停で降りたところにあり、所在地は明日香村飛鳥です。
寺の周辺は、飛鳥の自然が広がっていますので、バスもいいですが、歩いて回るのもよい地域です。
~飛鳥寺の草創~
飛鳥寺の現在の寺院は、安吾院といい真言宗豊山派です。
飛鳥寺ですが、建てたのは蘇我馬子といわれており、建立の目的ですが、権力を誇示することが必要だったといわれています。
用明2年5月蘇我馬子は政敵であった物部守屋を河内で倒したのです。この戦いには聖徳太子も蘇我氏の陣営におり、この結果、蘇我馬子はほぼ全権力を手中に収めることになるのですが、それを確固たるものにするためにその強大な権力を皇族、豪族、民衆に誇示し畏服させる必要がありました。その一つの方法として古今東西の権力者が常套手段としてきたもので、人が驚きその力に畏怖するほどの巨大で斬新な建造物の造立で、それが飛鳥寺だったのです。
飛鳥寺の建立までの軌跡ですが、崇峻元年(588年)に造営が開始され、推古4年(596年)、一応の完成を見せ馬子は息子の膳徳を寺司に任命し、僧を居住させ、推古13年(605年)に本尊の鋳造を開始した際に、高麗国の大興王から黄金三百両が送られ、推古14年(606年)に本尊が完成して金堂に安置して寺として完成しました。
法号は法興寺または元興寺といわれており、飛鳥寺は当時の朝鮮半島の先端技術によって建立された本格的な伽藍をもった我が国最初の仏教寺院です。
~創建時の伽藍配置~
 昭和31年(1956年)~昭和32年(1957年)に行われた発掘調査で、伽藍配置は、南大門、中門、塔、中金堂、講堂と一直線上に並び、更に塔の東西に金堂を配置するという「一塔三金堂」式伽藍であったことが判明したのです。
この結果、四天王寺式伽藍配置が我が国で最も古いとされていた定設を覆すことになったのです。
この伽藍配置は高句麗の寺院跡にその例が見られるといわれ、当時の朝鮮半島の寺院建立形式が色濃く反映されています。
飛鳥寺の建築技術は、古代朝鮮半島の先端技術が導入されました。
飛鳥寺は蘇我氏と結びつきが強く、渡来人に繋がる朝鮮半島の百済国などから6人の僧、寺大工、露盤博士、瓦博士、画工などの派遣を受けたと日本書紀に記されており、彼らの指導の下に建立されたと考えられ、また聖徳太子の師といわれる高句麗の高僧、恵慈など、既に日本に渡来していた僧もその指導に加わっていたであろうと推測されています。
伽藍の規模ですが、飛鳥寺の寺域は、南北293m、北辺215m、南辺260mの台形であったことも発掘調査の結果で明らかになっています。
~飛鳥寺は日本仏教の先導者~
 飛鳥寺完成を契機にして、仏教は当時の支配者層である豪族へ急速に広がりを見せ興隆したのです。飛鳥寺は、その興隆の常に中心にあってそれを支え、また、その先導者として大変重要な役割を果たしたのです。
つまり、聖徳太子の師といわれる高句麗の高僧の恵慈や完成時に来朝した百済の高僧である恵聡などがこの寺に住して本格的な教学研究の場となったのです。
下って推古天皇33年(625年)に高句麗僧の恵灌が来朝して法興寺に入り、三論宗を講説して我が国に初めて体系的な仏教教学を伝へ、さらに斉明天皇7年(661年)に飛鳥寺の僧である道昭が唐留学を終え帰朝して玄奘三蔵より学んだ唯識設(法相宗)を初めて伝えています。さらに下って天平期には飛鳥寺(平城京・元興寺)の僧である智光が三論宗の「空」の概念から、後の浄土思想の源流となる観想浄土系の浄土思想を独自に展開したのです。これらの史実が示すとおり、三論宗や法相宗を初めとする日本仏教は、この寺から全て出発し発展したのです。つまり、日本仏教のルーツはこの法興寺にあるといえるのです。