日本に現存する日本最古の和歌集「万葉集」を身近に!
巻20・4487番歌 詠人:藤原仲麻呂
いざ子ども 狂業(たはわざ)なせそ 天地(あまつち)の 固めし国そ 大倭島根は
(訳:さあ人々よ。たわけた事をしてはいけない。天地が力を与えて固めた国だ。この大和の国は。)
解 説
この歌は、天平宝字元(757)年11月18日、内裏で行われた宴で藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が奏上した歌です。
仲麻呂は南家の祖・武智麻呂の第二子で、この当時「紫微内相(しびないしょう)」として内外の兵事を掌っていました。
遡ること8年、749年に孝謙天皇が即位して光明皇后が皇太后になると、皇后の雑事を取り仕切っていた「皇后宮職(こうごうぐうしき)」が拡張して「紫微中台」という組織になりました。その長官である「紫微内相」に仲麻呂が就くと、左大臣だった橘諸兄(たちばなのもろえ)を凌ぐ力を持つようになったのです。
諸兄の没後、天平宝字元(757)年6月に諸兄の子・奈良麻呂が仲麻呂の「田村宮」を囲もうとしますが、密告により、未然に鎮圧されたのです。これが橘奈良麻呂の変です。
仲麻呂は舎人皇子の第7皇子・大炊王(おおいおう)を私邸に住まわせ、皇太子として擁立したため、仲麻呂の田村第(たむらのてい)は「田村宮」と呼ばれていました。
今回の歌には「狂業」という、穏やかではない言葉が入っています。「なせそ」の「な~そ」は禁止の用法なので、「たわけた事をするな」という意味になります。具体的には先の橘奈良麻呂の変を念頭に置いているのです。
「続日本紀」同年7月2日条の宣命第十六詔には、「狂(たぶ)れ迷へる頑なる奴の心」「人の見咎むべき事わざなせそ」とあり、狂い迷う奈良麻呂らの心を悟して正そう、人が咎めるようなことをするな、という孝謙天皇のお言葉がります。
今回の歌の表現はこの詔と類似します。また翌日、仲麻呂が光明皇太后の詔を伝えて宣(の)る、という分もあり、今回の歌も、まるで仲麻呂が天皇・皇太后であるかのような歌い方をしています。
しかし、この歌の背景には動乱の時代であったため、その時代を生きる不安な気持ちも込められているようにもうかがえます。