奈良の昔はなし~肘切り門~
ハイキングコースとして人気の高い山の辺の道があります。その山の辺の道の通り、天理市の石上神社と桜井市の大神神社のほぼ中間にあるお寺が長岳寺です。
この長岳寺の総門(大門)は、別名「肘切り門」と言われていたのです。今回はその名前の由来についてのお話しです。
昔、尻掛則長(しつかけのりなが)という刀鍛冶の名人がいました。則長の鍛えた刀はよく切れると評判だったのです。そこで、長岳寺のお坊さんも「ぜひ私にも作ってほしい」と頼んだのです。
ところが、何日たっても音沙汰がありません。しびれを切らしたお坊さんはある日、則長の仕事場へ様子を見に行ったのです。「トンテンカン、トンテンカン」と心地よい音が響いていたが、窓からそっと覗くと、真っ赤に燃えている火は、炭火でなくモミガラの火だったのです。
「なんや、火力が弱いモミガラか。ええ刀ができるわけがない」と、がっかりして帰って行ったのです。
ある日、則長が「刀が出来上がりました。」と寺へやってきました。お坊さんは「どうせ大した刀ではないやろ。もういらん」と、中身も見ずに突き返したのです。則長はかんかんに怒ったのです。「丹精込めて作り上げた刀を見もしないで返すとは」
そこで則長は、「刀が切れないかどうか、ご覧入れましょう。」と言うや、その刀で、門の屋根を支える肘木をスパッと切り落としたのです。
お坊さんは驚き、「私が悪かった」と謝り、刀を受け取った。それから、肘木が切られた門は「肘切り門」と呼ばれるようになったのです。
~昔はなしゆかりの地「長岳寺」~
長岳寺は、天長元年(824年)、淳和天皇(じゅんなてんのう)の勅願によるものとされ、空海の創建とされる古刹です。
鎌倉時代は興福寺の末寺となり、盛時(せいじ)には塔頭(たつちゅう)四十八、僧兵など衆徒300余りを数えたといわれています。しかし、時代と共に栄枯盛衰を重ねていったのです。
今は、長谷寺同様、「花の寺」として知られるようになりました。
1万2千坪の境内は、四季折々に、美しい花々で彩られます。四月は桜に続き、下旬からは平戸つつじの燃えるような紅色が広い境内を圧倒します。
また、長岳寺には、日本最古の鐘楼門(重文)があります。他にも重要文化財の建造物や仏像などがあり、山の辺の道の散策と合わせて楽しめるスポットとなっています。このお話しに登場した「肘切り門」は江戸時代に再建され、寺の入り口となっています。
毎年10月23日~11月30日には、九副(くふく)の掛け軸で構成され、全体で縦が約3.5m、横は約11mの一枚の絵となる大地獄図絵(奈良県指定文化財)が開帳されます。また、期間中は、住職による「絵解き」も随時行われます。