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ので、よろしくです!!

筋肉のお話し

2019-12-31 07:46:25 | 健康生活
筋肉のお話し
 世間は空前の筋トレブームですよね!
街に出ればスポーツジムやフィットネスクラブなどが乱立し、老若男女を問わず運動する姿をよく目にするようになりました。
ところで、筋トレは体に良さそうだけど、筋肉を鍛えるとなぜ良いの?と疑問を持たれている人も多いのではありませんか?
筋肉には力を発揮することはもちろん、私たちが活動し生きていくのに必要なさまざまな役割があるのです。
・筋肉の役割
1.姿勢を整え身体を動かす
2.血液の巡りを良くする
3.体や内臓を守る
4.免疫力を上げて病気になりにくくする
5.熱を生み代謝を促してくれる
6.水分を蓄える
・筋肉を鍛えると
1.姿勢が良くなる
2.脳卒中や心臓病など重篤な病気を予防する
3.つらい関節痛を和らげる
4.脱水症や熱中症にかかりにくくなる
5.筋肉量が増えると、代謝が上がることで消費カロリーが増える
6.たくさん食べても太りにくくやせやすい体になる
7.筋肉量が多い人ほど健康的に長生きできる
・筋肉を鍛えるための3つのポイント
1.運動
週に2回以上の筋肉トレーニングが有効です。健康に不安のある人はかかりつけの医師に相談し、スポーツジムなどで専門家の指導を受けるようにしましょう。
2.栄養
日本人は筋肉の材料であるタンパク質が不足し、炭水化物を摂りすぎる傾向にあります。タンパク質を中心にバランスよく食べるようにしましょう。
3.睡眠
睡眠中に成長ホルモンが分泌されることで、筋肉は成長し脂肪も燃焼されます。夜更かしは避け、睡眠時間を最低6時間は確保するようにしましょう。
歳をとって筋肉が減ると転倒してケガをしたり、糖尿病などの病気になりやすくなります。何もしないと筋肉は衰えていきます。「もう歳だから・・・」と言わずに、新しい年を迎えることですし、できることから少しずつ始めていきませんか。


 

奈良の昔はなし(廣瀬神社と水足池)

2019-12-31 07:12:11 | 地域と文化
奈良の昔はなし~廣瀬神社と水足池(みずたるいけ)~
 廣瀬神社が鎮座する北葛城郡河合町川合は、その名の通り、葛城川・佐保川・曽我川などいくつもの川が大和川と合流するところです。また、明治の中頃まで物資の集散地として賑わったところでもあります。
ただ、一帯は沼地だったのです。そんな地にあって、廣瀬神社は、水田を守り、河川の氾濫を防ぐ水神を祀る神社として古くから信仰されてきました。そんな廣瀬神社にまつわるお話しです。
昔、河合に藤時(ふじとき)という里長(さとおさ)がいました。ある日の夕方、家の外に神様が人の姿で現れたのです。顔の美しい若者で、花模様の着物を着、芳(かぐわ)しい香りを漂わせていました。そして里長にこう言ったのです。「お前の家の北に池があろう。あれは水足池で、底は深く、龍王がすんでいる。そこで、その池の上にご殿を造ることにしよう。承知するか」と。
藤時は困ってしまった。「池の上はいつも波が高いので、わたしら人間は、とても泳いでご殿は建てられません」すると、若者は言いました。「おまえたちは水に溺れることを恐れているようだ。もし、池の水をなくして平地にすると、ご殿を造ることを承知するか。そのしるしは、翌朝みられたい」と言って姿を消したのです。
翌朝、驚いたことに、水足池は、水のない平らな地に変わっていたのです。そこで、藤時は、大工を呼んでご殿を建てたのです。これを水足明神(みずたるみょうじん)といいます。
このことを、急いで朝廷に伝えると、天皇の使いである勅使(ちょくし)の人たちがきて、厳(おごそ)かにお祭りをされたと言います。
~昔はなしゆかりの地「廣瀬神社」~
廣瀬神社の創建にまつわる言い伝えも、ほぼ同じです。崇神天皇のとき、水足池が一夜にして陸地となり、橘の木が多く生えた。これが天皇に伝わり、社殿を建ててお祭りをした、と伝えられています。
今、朱色の大鳥居をくぐると、長い参道が続きます。大樹が深々と天をおおい、冬の柔らかな木漏れ日と鳥の声が、ゆっくりと古代の神域にいざなってくれます。
白砂(はくさ)の斎庭(ゆにわ)に、黄色い実をいっぱい付けた橘の木が数本あり、その向こうに荘厳な拝殿と本殿が鎮座しています。
西へ曲がると、昔話に登場する「水足明神」を祀る小さな社(やしろ)と、横に沼のような小池が残っています。
向こうには、今もいくつもの川を集めて流れる大和川の高くどっしりとした土堤(どて)が見えます。静寂の境内は、古代の雰囲気をそのまま残してるようなそんな感じです。
           

         
~廣瀬神社の奇祭「砂かけ祭」~
「日本書紀」には「廣瀬乃河曲」、延喜式祝詞には「廣瀬の川合」と記載され、天武天皇4年より龍田大社と共に風雨を治め、五穀豊穣・国家安泰を祈る国家祭祀が同日に執り行われ、朝廷をはじめ万民に厚く信仰されてきました。
廣瀬神社のご祭神は水神であり、砂を雨に見立てて掛け合うことから「砂かけ祭」と呼ばれるようになりました。
古くは、大忌祭の中で行われていた行事で、現在も引き継がれた神事の一つです。現在は、2月11日が祭日となっており、祭典は午前10時30分から「殿上の儀」午後2時から「庭上の儀」の二部に分かれ、五穀豊穣と雨水の多量を願うと共に厄除けを願う祭りでもあります。
神事は、木製の牛面をかぶった牛役、田人(お百姓)と早乙女が奉仕します。
廣瀬神社へは、近鉄田原本線池部駅から徒歩約25分、JR大和路線法隆寺駅から徒歩約30分です。法隆寺駅にはレンタサイクルもあります。
自動車の場合は、西名阪自動車道法隆寺ICより約5分です。(参拝者用駐車場あり)

         

お薬のお話し(便秘薬の最新事情)

2019-12-30 14:11:01 | 健康生活
お薬のお話し~新しい便秘薬について~
 意外と便秘で悩んでいる方が多いと思います。そこで、数年前より新しい便秘薬がいくつか登場しています。その代表的な薬についてご紹介します。
・粘膜上皮機能変容薬
ルビブロストン(アミティーザ)
小腸粘膜上皮のクロライドチャンネルを活性化し、腸管内腔への小腸液の分泌を促進するお薬です。
リナクロチド(リンゼス)
小腸粘膜上皮のグアニル酸シクラーゼC受容体を刺激し、腸管分泌促進作用、腸管輸送能促進作用、および大腸痛覚過敏改善作用を有します。腹痛、腹部不快感などの腹部症状の軽減にも効果が期待できます。
エロビキシバット(グーフィス)
胆汁酸の再吸収を阻害し、胆汁酸の量を増やして大腸の水分を増やすとともに、腸管蠕動を促進します。
・浸透圧性下剤
ラクツロース(ラグノスNF経口ゼリー)
合成二糖で消化酵素により代謝されないため高浸透圧となり、下剤効果が発揮されます。
ポリエチレングリコール製剤(モビコール)
欧米では最も一般的に使用されており、2歳以上の小児から用量が設定されています。
新しい便秘治療薬を使用する際にも、食事、運動、生活習慣の改善が基本であり、症状に応じた薬剤の選択と用量の調節が大切と言えます。
慢性便秘症解消の基本・5つの柱
1.病気の理解・・・原因の見直し
2.食事・・・食物繊維・水分・油分の摂取
3.運動・・・歩行・腹筋・腹部マッサージの習慣化
4.生活習慣・・・規則正しく・リラックスが大切
5.薬物療法・・・種類の選択・量の調節

これら5つの基本動作をしていれば便秘を解消できると思います。また、決まった時間にトイレに行くのもよい方法だと言えます。


 

奈良の昔はなし(目安の大根美人)

2019-12-30 07:24:08 | 地域と文化
奈良の昔はなし~目安の大根美人~
 斑鳩町の南端、大和川のすぐ北に目安の地があります。川は東から西へ流れ、神南で竜田川と合流して、さらに大阪へと流れるのです。大和川の川幅は今も広く、流れは穏やかです。
この川の堤に、昔、立派な松並木があったのです。川がまだ大切な水運として物資の輸送に使われていたころ、その並木が船着き場などの目安になっていたのです。それが地名の由来と言われています。また、この村の人たちが大和川の水守(みずもり)をし、その役名の目安が地名になったとも言われています。目安では、大和川の度重なる決壊(けっかい)で砂地の畑が多く、大根がよく育ったのです。そんな村のお話しです。
昔々の、大和川でのお話しです。
ある時、川で村の娘が大根を洗っていると、弘法大師さまがお通りになられました。「これこれ、娘さん、お前の顔と大根と、どっちが白いか」と尋ねられました。すると娘は、正直に「私の顔より大根の方が白いです」と答えたのです。
「そうか、では、これから大根のような色白の美人にしてやるぞ」と言いました。
弘法大師さまはまた、「その大根の葉に付いているのはなんだ」と尋ねられたのです。
娘は「これは大根の葉に付く虫で、困っています」と言うと、大師さまは「娘さん、美人になりたいか、大根の虫を取ってほしいか、どっちじゃ」と尋ねられました。
すると娘は「いいえ、美人になりたくはありません。大根に虫が付かないようにしてください」
気立てのよい娘がそう頼むと、大師さまは満足そうなようすで頷(うなず)き、呪文を唱(とな)えて去って行かれたのです。
それからというもの、目安の村には色白の美人が多く生まれ、大根にも虫が付かなくなったという。
~物語ゆかりの地「目安」~
目安の松並木は、明治の大洪水で大和川へ流失してしまいました。そのため今は見ることができません。目安の南に春日神社があります。この境内にも、かつてはたくさんの松があったのですが、今はもうありません。
現在、美しい松並木と言えば法隆寺の参道にある「並松(なんまつ)」です。国道25号線から南大門へ続く見事な松並木は、目安から移されたと言われています。
その「並松」を南下すると、目安の春日神社へとつながります。かつての目安の美しい松並木は、現在の、法隆寺の「並松」に偲ぶことができると言えます。
・・・物語のふるさとの地「春日神社」・・・
春日神社ですが、祭神は三社権現といい、中央に天児屋根命(春日)、左に品陀別命(八幡)、右に天照皇大神の三社を祀っています。本来なら天照皇大神を中央に祀るべきですが、ここでは春日大明神を中央にして社名を春日神社と称しているのです。異式のため相殿の三扉とも左前となっており、これは他に例を見ない珍しい建築物なのです。
毎年10月に、目安の春日神社で収穫感謝の神事が16時から行われます。お供えに、大根・稲・柿・鯛・お酒など豊富な食材が供えられます。そのあと、こどもたちの「提灯台神輿」が村内を巡行します。
春日神社の隣にある公民館では、生け花、手芸、書画などの展示、抹茶の接待、カラオケなども行われます。
村祭りは、明るい村づくりを目指す目安の人たちの熱い思いに支えられ準備されます。おでん、みたらし、おにぎりなど、お母さんたちの手作りの御馳走が並び、夜が更けるまで、村をあげての盛大な祭りとなっています。(もちろん、村外の人も自由に参加できますよ。)
春日神社へは、近鉄田原本線佐味田川駅から歩いて約11分
JR大和路線法隆寺駅から歩いて約11分です。


         
 
           

        
           

         


奈良の昔はなし(おうてくれ地蔵)

2019-12-29 15:55:59 | 地域と文化
奈良の昔はなし~おうてくれ地蔵~
 奈良盆地のほぼ中央にあるのが、磯城郡三宅町です。地名は、古代の「屯倉(みやけ)」に由来するといいます。
屯倉とは、大和朝廷が直接に支配していた土地のことで、稲作の盛んな穀倉地帯だったのです。三宅町のすぐ東が、田原本町の唐古・鍵遺跡です。弥生時代を代表する集落がありました。昔は、この辺りでは豊かな稲田が一面広がっていたのだと思います。さて、そんなのどかな三宅町に伝わるお話しです。

昔、石見と今里という二つの村の間に、大きな池が二つありました。池のほとりを細い道が通っていたのです。
道は、両側から背の高い竹が天をおおって昼でも薄暗く、風が吹くと、「ザワザワ」と葉擦れの音がするのでした。
そんな寂しい道の傍らに、地蔵さんが立っておられたのです。
ある夜、若者がひとり、この道を提灯を持って歩いていたのです。静かな道に草履の音だけが聞こえていたのです。
竹藪の中ほどまで来た時、後ろから微かな声がしました。「おうてくれ」
若者が振り返り、提灯をかざしてみたが、何も見えないのです。「気のせいかな・狐か狸のいたずらか」と思いました。そして再び歩き出すと、また「おうてくれ」という声が。若者は気味悪くなり、足早に道を急ぎました。
すると、今度は大きな声で「おうてくれ」。怖くなった若者が走り出すと、急に背中が重くなったのです。
あの地蔵さんが、背中にのっかっているではありませんか。あまりの重さに若者は座り込んでしまったのです。提灯の灯は消え、あたりは真っ暗になったのです。
すると地蔵さんが、「これからは、日が暮れるまでに家に帰るか」と言いました。「はい。南無阿弥陀仏」。「親に心配をかけないか」「はい。南無阿弥陀仏」。
若者が必死で答えると、背中がスーッと軽くなりました。
この噂はたちまち村中に広まり、それからは、誰も夜中にこの道を通らなくなったといいます。それから地蔵さんは「おうてくれ地蔵さん」と呼ばれるようになったそうです。
地蔵さんは、今も石見新池のほとりの地蔵堂で地域の人々の篤い信仰に支えられ、大切に守られています。

お薬のお話し(痛み止め)(2)

2019-12-29 07:58:05 | 健康生活
~お薬のお話し「痛み止めの副作用とは」~

 痛み止めの薬を飲むと胃が荒れるとよく言われます。これらのお薬は胃の粘膜を減らし、血流を悪くし、胃粘膜の防御力や働きを悪くし、その結果、胃粘膜が胃酸に侵されて胃が荒れてしまうのです。
軽い場合は胃の調子が悪くなったり、食欲がなくなったり、胃が痛んだりといった症状だけが出ます。ひどい場合は、胃や十二指腸の粘膜が傷つき、胃潰瘍・十二指腸潰瘍になって、そこから出血したりします。
高齢の方であれば、命に関わる状態になることもしばしばあります。特に過去に胃潰瘍や十二指腸潰瘍になったことがある方、これまでにもよく胃の調子が悪くなりやすい方、頓服ではなく続けて飲む方は要注意です。

・・・予防法とは・・・
予防法は、胃の粘膜を守るお薬を併用することです。大きく分けて2種類の胃薬があります。
胃酸を抑えるお薬(H₂ブロッカー、プロトンポンプ阻害薬)と胃粘膜保護薬(胃粘膜防御因子増強薬、プロスタグランジン製剤)です。
基本的には、痛み止めを購入する際に薬剤師の方に相談するのが一番良い方法ですが、特に過去に胃潰瘍や十二指腸潰瘍の経験がある方は、必ず病院で処方される方は医師に、薬局で購入される方は薬剤師にそのことを伝えてください。
頻度は低いですがそれ以外の副作用もありますので、特にほかの病気をお持ちの方は、医師、薬剤師の方をとよくご相談ください。
季節がら、飲んだり食べたりする機会が多くなりますし、つい夜更かしなどで体調を崩してしまう時です。そんな時に頭痛や胃痛などの痛み止めを服用するときは十分気を付けてくださいね。

 

奈良の昔はなし(絵からぬけでた牛)

2019-12-28 06:30:07 | 地域と文化

奈良の昔はなし~絵からぬけでた牛~

  奈良県の北東、三重県に隣接する山辺郡山添村中峰山(ちゅうむざん)は、おだやかな山並みに囲まれた静かな里です。そんな村に伝えられているお話しです。

昔、この村にひとりの絵師がふらりとやってきたのです。粗末な身なりで、持っているものは絵筆の入った包みだけでした。絵師はその夜の宿を探していたが、村人は皆用心して戸を戸を閉ざしたままでした。

困った絵師がとぼとぼと歩いていると、「ゴーン、ゴーン」と、寺の鐘の音が聞こえました。「そうだ、今夜は、ひとつ、あのお寺に泊めてもらおう」と、さっそくその寺を訪れたのです。

お寺の和尚さんは快く招き入れ、男が旅の絵師と聞くと、「どうじゃな、ここに二。三日泊って、絵の一枚も描いてくださらないか」といったのです。

絵師はこの山寺に泊ることになりました。だが、二日たっても、三日たっても、十日たっても、いっこうに絵を描こうとはしませんでした。さすが村人も「あれは、偽者かもしれん」と噂しあいました。

ところが、ある晩のこと、絵師は近くの神波多神社(かみはたじんじゃ)の白壁に、絵筆を握るや一気に描きあげたのです。それは、たくましい見事な牛の絵だったのです。そして翌朝、絵師は静かに寺を去ったのです。

やがて秋になり、稲刈りが始まったのです。ところが、不思議なことに、稲は刈った後、稲架(はさ)に架けて乾かすのだが、その稲が毎晩盗まれるのでした。

村は大騒ぎとなり、寝ずの番をして稲盗人(いねぬすっと)を捕まえることにしました。さて、いよいよ、真夜中になった時、どこからかゴソゴソと音がし、黒い影が見えたのです。

村人が近づくと、黒い影はさっと逃げ、神社の境内に消えていったのです。そして村人は稲盗人の正体を見て驚いたのです。何とあの絵師が白壁に描いた絵の牛だったのです。

「うーん、これは困った」村人は相談し、絵師を皆で探すことにしたのです。やっとのことで絵師を見つけ出し、「あんたの力であの牛を止めてくれんか」と頼んだのです。

絵師は、神社に戻り、さっそく、絵の牛のそばに松の木を一本描き、さらに、太い綱で牛が松につながれているかのように描きなおしたのです。

それからというもの、田の稲が荒らされることはありませんでした。めでたし、めでたし。

ところでこの牛の絵ですが、実は、今も神波多神社に残っているのですよ。

~物語ゆかりの地「神波多神社」~

この物語に登場する神社ですが、「延喜式」神名帳(927年)にその名が見られる古社です。祭神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、春日大神(かすがのかみ)、櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)です。

拝殿の扁額(へんがく)に「牛頭天王社(ごすてんのうしゃ)」とあり、古来「波多の天王さん」と呼ばれ、大和、伊賀、山城などに広くにわたり崇敬者が多い。

江戸時代前期の建立とされる本殿は、奈良県指定文化財です。保存のため、平成6年(1994年)から7年(1995)にかけて初めての解体修理が行われ、創建当時の姿に戻りました。

住所:奈良県山辺郡山添村中峰山310-1(境内拝観自由)

 

 

            

 

 

            

 

 

          

 


お薬のお話し(痛み止め)(1)

2019-12-27 16:40:38 | 健康生活

知っておきたい治療薬「痛み止め」(1)

 腰痛や頭痛のときに飲むような痛み止めは、よく胃を荒らします。ときには胃潰瘍を作って出血し、命に係わることもあります。特に過去に胃潰瘍や十二指腸潰瘍の経験がある方や痛み止めを長期に飲まれる方は注意が必要です。主治医と相談の上、胃薬を併用してください。

痛み止めの種類はいろいろ

足腰の痛みを止めるお薬、がんなどによる痛みを止めるお薬、おなかの痛みを止めるお薬などいろいろな目的で使用されるお薬があり、一概に痛み止めと言ってもひとまとめにはできません。

まず、おなかの痛みは、その病気によって痛みが発生する場所もメカニズムも異なり、おのずと使用するお薬も様々なものになります。後で説明するいわゆる痛み止めは基本使用しません。また、がんによる痛みの軽減には、強い痛みの場合、麻薬などに類似したお薬を使用することが一般的です。

ここで説明するのは、足腰の痛み、頭痛、生理痛などによく使われるロキソプロフェンナトリウム(ロキソニン)やセレコキシブ(セレコックス)、ジクロフェナクナトリウム(ボルタレン)などの非ステロイド系抗炎症剤と呼ばれる種類のお薬のことです

次回は、痛み止めの副作用についてお話しします。

 


奈良の昔はなし(孝女伊麻と鰻)

2019-12-27 15:35:36 | 地域と文化

奈良の昔はなし~孝女(こうじょ)伊麻(いま)と鰻(うなぎ)~

 今回は、今市村(現在の葛城市南今市)に実在したといわれる親孝行な姉弟のお話しです。その親孝行な姉弟とは、姉の伊麻と弟の長兵衛です。

寛文11年(1671年)の夏、疫病が流行しました。姉弟の父も病に倒れ、食事も取れずに衰弱していたのです。二人は昼夜を問わず介抱に努めていたのですが、一向に良くなりませんでした。

ある時、鰻が病気に良いと聞き、二人は急いで八方手を尽くして鰻を求めました。なかなか見つかりませんでした。

二人が途方に暮れていると、夜、水がめの中で何やら音がしたのでした。灯りを近づけて中を見ると、何と、大きな鰻が泳いでいるではありませんか。

二人は喜び、さっそく調理して父に食べさせました。すると、父の病気はぐんぐん快方に向かい、やがて平癒(へいゆ)したのでした。

~この物語の背景~

この親孝行な伊麻のお話しは、当時相当有名であったと伝えられています。俳聖、松尾芭蕉も、この話を聞き、貞享(じょうきょう)5年(1688年)4月12日、「笈(おい)の小文」の旅の途中、わざわざ伊麻に会いに訪れているのです。鰻の話から17年がたっていました。

芭蕉が伊賀の弟子の遠雖(えんすい)に送った書簡によると、芭蕉はその時、鰻のいた水がめも見せてもらい、藁筵(わらむしろ)の上で茶や酒のもてなしも受けたといい、当の本人から直接話を聞き、その孝養のまことに触れて非常に感激したのです。

芭蕉に同行していた弟子の万菊も深く心を打たれ、感涙を抑えきれなかったといいます。ちょうど衣替えの季節でもあり、衣類を打った得た代金を、志として伊麻に贈ったといわれています。

その4年前、芭蕉は「野ざらし紀行」の旅で當麻の竹ノ内村にしばらく滞在していました。その時に伊麻の話を聞いたのではないかと言われています。

実は、当時、徳川幕府は儒教の教えを重んじる政策を推進していたのです。孝行(親孝行な子ども)を称える風潮が諸国に広まっていたようです。

この美談は、今も語り継がれており「孝女伊麻像」や「孝子碑」などが残っています。2月27日に営まれる「追善法要」では、小学校の児童、地域の人々がお参りに訪れ、近くの現徳寺で「徳」についての講話があります。

 


奈良の昔はなし(身代わり地蔵)

2019-12-26 16:32:02 | 地域と文化

奈良の昔はなし~身代わり地蔵~

 奈良盆地の南部、高市郡高取町には、南東にそびえる高取山があります。高取山の標高は584m、その頂上にかつて、難攻不落の山城、高取城がありました。

南北朝時代以来、豪族の越智氏、豊臣秀長の重臣、本多氏、譜代大名の植村氏らの居城として威容を誇っていましたが、今は、壮大な石垣のみが残っています。でも、秋の紅葉は言葉にならないくらい美しいですよ。そんな高取町にまつわるお話しです。

昔、矢田村(現在の高取町谷田(やた))の池の谷に、細長い小さな田が十枚ほどありました。この田は村の常楽寺の所有で、とれた年貢米はお寺のおっぱん(仏様に供える米やお坊さんの飯米のこと)として納められました。

この田の作人は二人いて、上と下、半分ずつに分かれていました。だが、このあたりは水利が悪く、上の田には十分な水があったのですが、下半分はいつも水が不足していたのです。

しかし、下の作人はお地蔵さんを信じる正直な人で、とれたお米が少ない時も、上の作人より多くのおっぱんを寺に納めていたのでした。

ある年、大変な旱(ひでり)が続き、上の田でも水がなく、とても収穫できそうになかったのです。ところが、不思議なことに、朝になると、上の田には水がないのに、下の田には水が一面に満ちていたのです。上の作人は、きっと下の作人が夜中に水を取りに来ているのだと思ったのです。そしてまた、取りに来るに違いないと思い、ある晩、上の作人は弓矢を持って山で待ち構えていたのです。すると、人影が上の田に来るように見えたので、狙いを定めて矢を放ったのです。確かな手ごたえがあり、作人はそのまま家へ帰って行ったのです。

翌朝、田を見に行くと、下の作人は元気に働いているではありませんか。不思議に思い、昨夜のことを話して詫び、下の作人とお寺へお参りに行ったのです。すると、お地蔵さんが横に倒れていて、なんと、肩に矢が二つに折れて突き刺さっていたのです。それから、そのお地蔵さんは「身代わり地蔵」と呼ばれるようになったそうです。

~昔はなしゆかりの地「常楽寺」~

常楽寺は、杉、檜の林の中にひっそりと建っています。ささやかな境内に本堂と庫裏(くり)があります。身代わり地蔵さんは、今も、谷田の村人たちの手でしっかりと守られています。常楽寺の建立などは不詳ですが、明治初年に廃寺となりましたが、明治12年に再興されました。また、年に2回、地蔵祭りが行われています。

          

~昔はなしに登場する「木造地蔵菩薩立像」~

平成25年6月、県教育委員会の調査により平安時代中期の制作と判明、貴重な古像として注目されています。高さが約88㎝、左手に宝珠、右手に蓮茎を持っています(後世の補修)。

唇に今も朱が残っていますが、かつては全身に美しく色彩が施されていたと思われます。寺伝では、満米(まんまい)上人の作とされています。満米は平安時代に大和郡山市の矢田寺を中興した満慶(まんけい)和尚のこととされています。