奈良の昔はなし~絵からぬけでた牛~
奈良県の北東、三重県に隣接する山辺郡山添村中峰山(ちゅうむざん)は、おだやかな山並みに囲まれた静かな里です。そんな村に伝えられているお話しです。
昔、この村にひとりの絵師がふらりとやってきたのです。粗末な身なりで、持っているものは絵筆の入った包みだけでした。絵師はその夜の宿を探していたが、村人は皆用心して戸を戸を閉ざしたままでした。
困った絵師がとぼとぼと歩いていると、「ゴーン、ゴーン」と、寺の鐘の音が聞こえました。「そうだ、今夜は、ひとつ、あのお寺に泊めてもらおう」と、さっそくその寺を訪れたのです。
お寺の和尚さんは快く招き入れ、男が旅の絵師と聞くと、「どうじゃな、ここに二。三日泊って、絵の一枚も描いてくださらないか」といったのです。
絵師はこの山寺に泊ることになりました。だが、二日たっても、三日たっても、十日たっても、いっこうに絵を描こうとはしませんでした。さすが村人も「あれは、偽者かもしれん」と噂しあいました。
ところが、ある晩のこと、絵師は近くの神波多神社(かみはたじんじゃ)の白壁に、絵筆を握るや一気に描きあげたのです。それは、たくましい見事な牛の絵だったのです。そして翌朝、絵師は静かに寺を去ったのです。
やがて秋になり、稲刈りが始まったのです。ところが、不思議なことに、稲は刈った後、稲架(はさ)に架けて乾かすのだが、その稲が毎晩盗まれるのでした。
村は大騒ぎとなり、寝ずの番をして稲盗人(いねぬすっと)を捕まえることにしました。さて、いよいよ、真夜中になった時、どこからかゴソゴソと音がし、黒い影が見えたのです。
村人が近づくと、黒い影はさっと逃げ、神社の境内に消えていったのです。そして村人は稲盗人の正体を見て驚いたのです。何とあの絵師が白壁に描いた絵の牛だったのです。
「うーん、これは困った」村人は相談し、絵師を皆で探すことにしたのです。やっとのことで絵師を見つけ出し、「あんたの力であの牛を止めてくれんか」と頼んだのです。
絵師は、神社に戻り、さっそく、絵の牛のそばに松の木を一本描き、さらに、太い綱で牛が松につながれているかのように描きなおしたのです。
それからというもの、田の稲が荒らされることはありませんでした。めでたし、めでたし。
ところでこの牛の絵ですが、実は、今も神波多神社に残っているのですよ。
~物語ゆかりの地「神波多神社」~
この物語に登場する神社ですが、「延喜式」神名帳(927年)にその名が見られる古社です。祭神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、春日大神(かすがのかみ)、櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)です。
拝殿の扁額(へんがく)に「牛頭天王社(ごすてんのうしゃ)」とあり、古来「波多の天王さん」と呼ばれ、大和、伊賀、山城などに広くにわたり崇敬者が多い。
江戸時代前期の建立とされる本殿は、奈良県指定文化財です。保存のため、平成6年(1994年)から7年(1995)にかけて初めての解体修理が行われ、創建当時の姿に戻りました。
住所:奈良県山辺郡山添村中峰山310-1(境内拝観自由)
知っておきたい治療薬「痛み止め」(1)
腰痛や頭痛のときに飲むような痛み止めは、よく胃を荒らします。ときには胃潰瘍を作って出血し、命に係わることもあります。特に過去に胃潰瘍や十二指腸潰瘍の経験がある方や痛み止めを長期に飲まれる方は注意が必要です。主治医と相談の上、胃薬を併用してください。
痛み止めの種類はいろいろ
足腰の痛みを止めるお薬、がんなどによる痛みを止めるお薬、おなかの痛みを止めるお薬などいろいろな目的で使用されるお薬があり、一概に痛み止めと言ってもひとまとめにはできません。
まず、おなかの痛みは、その病気によって痛みが発生する場所もメカニズムも異なり、おのずと使用するお薬も様々なものになります。後で説明するいわゆる痛み止めは基本使用しません。また、がんによる痛みの軽減には、強い痛みの場合、麻薬などに類似したお薬を使用することが一般的です。
ここで説明するのは、足腰の痛み、頭痛、生理痛などによく使われるロキソプロフェンナトリウム(ロキソニン)やセレコキシブ(セレコックス)、ジクロフェナクナトリウム(ボルタレン)などの非ステロイド系抗炎症剤と呼ばれる種類のお薬のことです
次回は、痛み止めの副作用についてお話しします。
奈良の昔はなし~孝女(こうじょ)伊麻(いま)と鰻(うなぎ)~
今回は、今市村(現在の葛城市南今市)に実在したといわれる親孝行な姉弟のお話しです。その親孝行な姉弟とは、姉の伊麻と弟の長兵衛です。
寛文11年(1671年)の夏、疫病が流行しました。姉弟の父も病に倒れ、食事も取れずに衰弱していたのです。二人は昼夜を問わず介抱に努めていたのですが、一向に良くなりませんでした。
ある時、鰻が病気に良いと聞き、二人は急いで八方手を尽くして鰻を求めました。なかなか見つかりませんでした。
二人が途方に暮れていると、夜、水がめの中で何やら音がしたのでした。灯りを近づけて中を見ると、何と、大きな鰻が泳いでいるではありませんか。
二人は喜び、さっそく調理して父に食べさせました。すると、父の病気はぐんぐん快方に向かい、やがて平癒(へいゆ)したのでした。
~この物語の背景~
この親孝行な伊麻のお話しは、当時相当有名であったと伝えられています。俳聖、松尾芭蕉も、この話を聞き、貞享(じょうきょう)5年(1688年)4月12日、「笈(おい)の小文」の旅の途中、わざわざ伊麻に会いに訪れているのです。鰻の話から17年がたっていました。
芭蕉が伊賀の弟子の遠雖(えんすい)に送った書簡によると、芭蕉はその時、鰻のいた水がめも見せてもらい、藁筵(わらむしろ)の上で茶や酒のもてなしも受けたといい、当の本人から直接話を聞き、その孝養のまことに触れて非常に感激したのです。
芭蕉に同行していた弟子の万菊も深く心を打たれ、感涙を抑えきれなかったといいます。ちょうど衣替えの季節でもあり、衣類を打った得た代金を、志として伊麻に贈ったといわれています。
その4年前、芭蕉は「野ざらし紀行」の旅で當麻の竹ノ内村にしばらく滞在していました。その時に伊麻の話を聞いたのではないかと言われています。
実は、当時、徳川幕府は儒教の教えを重んじる政策を推進していたのです。孝行(親孝行な子ども)を称える風潮が諸国に広まっていたようです。
この美談は、今も語り継がれており「孝女伊麻像」や「孝子碑」などが残っています。2月27日に営まれる「追善法要」では、小学校の児童、地域の人々がお参りに訪れ、近くの現徳寺で「徳」についての講話があります。
奈良の昔はなし~身代わり地蔵~
奈良盆地の南部、高市郡高取町には、南東にそびえる高取山があります。高取山の標高は584m、その頂上にかつて、難攻不落の山城、高取城がありました。
南北朝時代以来、豪族の越智氏、豊臣秀長の重臣、本多氏、譜代大名の植村氏らの居城として威容を誇っていましたが、今は、壮大な石垣のみが残っています。でも、秋の紅葉は言葉にならないくらい美しいですよ。そんな高取町にまつわるお話しです。
昔、矢田村(現在の高取町谷田(やた))の池の谷に、細長い小さな田が十枚ほどありました。この田は村の常楽寺の所有で、とれた年貢米はお寺のおっぱん(仏様に供える米やお坊さんの飯米のこと)として納められました。
この田の作人は二人いて、上と下、半分ずつに分かれていました。だが、このあたりは水利が悪く、上の田には十分な水があったのですが、下半分はいつも水が不足していたのです。
しかし、下の作人はお地蔵さんを信じる正直な人で、とれたお米が少ない時も、上の作人より多くのおっぱんを寺に納めていたのでした。
ある年、大変な旱(ひでり)が続き、上の田でも水がなく、とても収穫できそうになかったのです。ところが、不思議なことに、朝になると、上の田には水がないのに、下の田には水が一面に満ちていたのです。上の作人は、きっと下の作人が夜中に水を取りに来ているのだと思ったのです。そしてまた、取りに来るに違いないと思い、ある晩、上の作人は弓矢を持って山で待ち構えていたのです。すると、人影が上の田に来るように見えたので、狙いを定めて矢を放ったのです。確かな手ごたえがあり、作人はそのまま家へ帰って行ったのです。
翌朝、田を見に行くと、下の作人は元気に働いているではありませんか。不思議に思い、昨夜のことを話して詫び、下の作人とお寺へお参りに行ったのです。すると、お地蔵さんが横に倒れていて、なんと、肩に矢が二つに折れて突き刺さっていたのです。それから、そのお地蔵さんは「身代わり地蔵」と呼ばれるようになったそうです。
~昔はなしゆかりの地「常楽寺」~
常楽寺は、杉、檜の林の中にひっそりと建っています。ささやかな境内に本堂と庫裏(くり)があります。身代わり地蔵さんは、今も、谷田の村人たちの手でしっかりと守られています。常楽寺の建立などは不詳ですが、明治初年に廃寺となりましたが、明治12年に再興されました。また、年に2回、地蔵祭りが行われています。
~昔はなしに登場する「木造地蔵菩薩立像」~
平成25年6月、県教育委員会の調査により平安時代中期の制作と判明、貴重な古像として注目されています。高さが約88㎝、左手に宝珠、右手に蓮茎を持っています(後世の補修)。
唇に今も朱が残っていますが、かつては全身に美しく色彩が施されていたと思われます。寺伝では、満米(まんまい)上人の作とされています。満米は平安時代に大和郡山市の矢田寺を中興した満慶(まんけい)和尚のこととされています。