~飛鳥古墳巡り~
古人の都と呼ばれ、日本の歴史上初の首都となった地が飛鳥で、この地は、日本が日本と名乗り、さまざまな文化が誕生した地でもあり、その反面、権力闘争も激しく行われた地でもありますので、古墳も多くありますので、古人を思いながら巡ってみましょう。
~巨石を舞台に離れと踊る~
近鉄吉野線飛鳥駅より明日香周遊バス(赤かめ)で行くこともできますし、国営飛鳥歴史公園館から歩いて40分くらいで行けるのが、石舞台古墳です。
石舞台古墳は、国営飛鳥歴史公園内石舞台地区にある日本有数の方墳です。築造は7世紀前半と見られており、最大のもので77tと推定される巨石を30個以上使った豪壮な墳墓で、当時の土木技術や運搬技術の高さをうかがえることができます。
現在は、古墳を覆っていた封土が取り除かれ、長さ7.7m、幅約3.5m、高さ4.7mの巨大な石室がむき出しになっています。
石室の天井部分の石が広く平らになっており、まるで舞台のように見えることから古来より「石舞台」と呼ばれてきたのです。またこの他、狐が女性に化けて石の上で舞を見せたという伝説や、この地にやって来た旅芸人が、舞台がなかったので、仕方なく大石を舞台に演じたという話が伝えられています。
しかしこの古墳ですが、だれが埋葬されていたかは不明のままですが、その規模の大きさからも、また、近くに邸宅があったことから考えて、7世紀前半に全盛を誇った豪族、蘇我馬子の墓というのが有力な説となっています。
~牽牛子塚古墳は斉明天皇陵~
益田岩船から400mほど南東には真の斉明天皇陵と目される牽牛子塚古墳があり、
屋根伝いの道を伝って行き来することができます。
牽牛子塚古墳は巨石をくり抜いて造った2つの玄室を持つ特異な古墳ですが、そのことは斉明天皇とその娘である間人皇女を合葬したという日本書紀の記述に合致します。
横口式石槨説によれば、当初、益田岩船を斉明天皇陵の石槨として造りはじめたのですが、途中で石に亀裂が生じ、そのままでは割れる怖れがあったことから放棄され、代わりに牽牛子塚古墳を造営することになり、益田岩船の頂上にあけられた2つの穴は2人分の玄室で、穴を彫った後、横倒しにする計画であったと伝えられ、最初から本来の横向きで制作しなかったのは、花崗岩という固い岩の性質上、上から穴を空ける方が作業しやすいと推測することができます。
~真の斉明天皇の墓は~
近鉄吉野線飛鳥駅の裏山にある岩屋山古墳ですが、この古墳も、牽牛子塚古墳の隣で越塚御門古墳が発掘されるまでは、真の斉明天皇陵の候補に挙がっていたのです。
岩屋山古墳ですが、横穴式古墳の石室であるのですが、加工精度は見事で、石室の全長は16mあり高さも人の背丈ほどもある巨石ですが、その表面はまるでコンクリート造のモルタル仕上げのように滑らかに整形されています。
巨大な石室を備えた古墳が、飛鳥だけでなく日本各地で盛んに築造された時代がありますが、巨大な石を一体どうやって運び、どのようにしてあれほど精密な加工ができたのか謎が解明できていないのも魅力の一つと言えます。
斉明天皇に関係している遺跡は多くあり、日本書紀の中でも斉明記はひときわ異彩を放っています。
斉明天皇の治世は、東アジアの一大転換期にもなっており、新羅と唐の連合軍に攻められ存亡の瀬戸際に立たされた百済は、同盟関係にある日本に援軍を求められ、斉明天皇は、百済の救援要請に応じ、陣頭指揮のため赴いた九州で亡くなりました。
日本書紀は、斉明天皇の情愛溢れる女性として一面も伝えています。孫の建王(たけるのみこと)が8歳という幼さで亡くなったとき、天皇は悲しみに堪えられず、慟哭すること甚だしかったといいます。
飛鳥川 漲らひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも(訳:飛鳥川が水をみなぎらせて、絶え間なく流れていくように、絶えることもなく、亡くなった子のことが思い出されることよ。)という斉明天皇が亡き孫を偲んで詠んだ歌が残っています。
~天武・持統天皇合葬陵~
近鉄吉野線飛鳥駅からバスで天武・持統天皇陵下車して徒歩すぐのところに、天武・持統天皇合葬陵があります。
現在の一夫一婦制とは異なり、明治以前の天皇は確実に跡継ぎを残すため、複数の妻を持ったのです。妻として、わが身に天皇の寵愛を得、わが子に皇位を継がせたいと願うのは当然のことで、女帝・持統天皇の一生は、まさに天皇の妻として母として激しく生きた一生でした。
645年、大化の改新の年、持統天皇、幼名・鵜野讃良皇女(うののささらのひめみこ)は、父・中大兄皇子と蘇我一族の血をうけた母・遠智娘(おちのいらつめ)との間に生まれたのです。政変相次ぐ七世紀後半の世、鵜野讃良王女も幼いころから波乱に満ちた道を歩んできたのです。
鵜野讃良皇女が五歳の時、母方の祖父が父によって滅ぼされ、このことにショックを受けた母は発狂死し、母亡き後、まだ13歳の時に父の政略で叔父にあたる大海人皇子に嫁がされ、結婚から4年後に草壁皇子を出産します。父・天智天皇の皇位継承争いから大海人皇子身を引いて吉野へ下り、翌年決起して壬申の乱を起こしたときは、夫・大海人皇子と行動をともにします。
この時期は苦難続きながらも、ただ一人の妻として夫を独占できたという意味で幸せだったと言えるのかもしれません。
壬申の乱に勝利した大海人皇子は天武天皇として即位し、鵜野讃良皇女は皇后となり、彼女は草壁皇子の皇位継承者としての地位を確実なものにするべく、夫・天武天皇が亡くなると、大津皇子を謀反の疑いで処刑するなど、さまざまな策を講じるのですが、草壁皇子は病死し、そこで、草壁皇子の子・軽皇子が皇位に就くまでの間、自らが天皇として即位し、女帝時代を開くのです。
天武天皇の政治を引き継ぎ、諸制度の整備を進め律令国家の確立に尽力をしたのが持統天皇です。
彼女が築いた藤原京から真南の見晴らしのいい丘に築かれた陵墓に、天武・持統ふたりの天皇が合わせて葬られています。