奈良の魅力を発信

奈良のグルメ情報や史跡・名勝・万葉集・古事記・日本書紀・昔話のゆかりの土地を紹介します
ので、よろしくです!!

茄子の季節になりました。

2020-06-30 13:03:26 | グルメ
茄子の美味しい季節となりました 
 夏もいよいよ本番を迎えようとしています。
ところで夏野菜と言えば、キュウリ・茄子・トマトといろいろありますが、今回は茄子を使ったレシピをご紹介します。
よければ、夕食の一品にしてみください。
なすと鶏の揚げ浸し 
材料(2人分) 
茄子(縦半分に切って皮目に格子状の切込みを入れる)・・2本
[a]めんつゆ(2倍濃縮)・・・大さじ 3
  水・・・大さじ 2
 おろし生姜・・・少々
サラダ油・・・適量
しし唐辛子(2~3か所切り目を入れる)・・・6本
から揚げ(市販品)・・・200g
大根(すりおろす)・・・約1/6本(150g)

作り方
①フライパンに多めのサラダ油を熱し、茄子としし唐辛子を炒め揚げにし、混ぜ合わせた[a]と絡める
②から揚げはお好みの方法で温め、適当な大きさに切って①と合わせる
③器に盛って、大根おろしをのせて漬けつゆをかける

市販のから揚げでスピーディ-に!鶏肉と茄子の相性はバッチリですよ。
また、旨味を吸った「茄子ののっけ丼」も美味しいですよ
 
 


飛鳥古墳巡り

2020-06-29 09:34:19 | 地域と文化
~飛鳥古墳巡り~
 古人の都と呼ばれ、日本の歴史上初の首都となった地が飛鳥で、この地は、日本が日本と名乗り、さまざまな文化が誕生した地でもあり、その反面、権力闘争も激しく行われた地でもありますので、古墳も多くありますので、古人を思いながら巡ってみましょう。
~巨石を舞台に離れと踊る~
 近鉄吉野線飛鳥駅より明日香周遊バス(赤かめ)で行くこともできますし、国営飛鳥歴史公園館から歩いて40分くらいで行けるのが、石舞台古墳です。
石舞台古墳は、国営飛鳥歴史公園内石舞台地区にある日本有数の方墳です。築造は7世紀前半と見られており、最大のもので77tと推定される巨石を30個以上使った豪壮な墳墓で、当時の土木技術や運搬技術の高さをうかがえることができます。
現在は、古墳を覆っていた封土が取り除かれ、長さ7.7m、幅約3.5m、高さ4.7mの巨大な石室がむき出しになっています。
石室の天井部分の石が広く平らになっており、まるで舞台のように見えることから古来より「石舞台」と呼ばれてきたのです。またこの他、狐が女性に化けて石の上で舞を見せたという伝説や、この地にやって来た旅芸人が、舞台がなかったので、仕方なく大石を舞台に演じたという話が伝えられています。
しかしこの古墳ですが、だれが埋葬されていたかは不明のままですが、その規模の大きさからも、また、近くに邸宅があったことから考えて、7世紀前半に全盛を誇った豪族、蘇我馬子の墓というのが有力な説となっています。

    

~牽牛子塚古墳は斉明天皇陵~
益田岩船から400mほど南東には真の斉明天皇陵と目される牽牛子塚古墳があり、
屋根伝いの道を伝って行き来することができます。
牽牛子塚古墳は巨石をくり抜いて造った2つの玄室を持つ特異な古墳ですが、そのことは斉明天皇とその娘である間人皇女を合葬したという日本書紀の記述に合致します。
横口式石槨説によれば、当初、益田岩船を斉明天皇陵の石槨として造りはじめたのですが、途中で石に亀裂が生じ、そのままでは割れる怖れがあったことから放棄され、代わりに牽牛子塚古墳を造営することになり、益田岩船の頂上にあけられた2つの穴は2人分の玄室で、穴を彫った後、横倒しにする計画であったと伝えられ、最初から本来の横向きで制作しなかったのは、花崗岩という固い岩の性質上、上から穴を空ける方が作業しやすいと推測することができます。
~真の斉明天皇の墓は~
近鉄吉野線飛鳥駅の裏山にある岩屋山古墳ですが、この古墳も、牽牛子塚古墳の隣で越塚御門古墳が発掘されるまでは、真の斉明天皇陵の候補に挙がっていたのです。
岩屋山古墳ですが、横穴式古墳の石室であるのですが、加工精度は見事で、石室の全長は16mあり高さも人の背丈ほどもある巨石ですが、その表面はまるでコンクリート造のモルタル仕上げのように滑らかに整形されています。
巨大な石室を備えた古墳が、飛鳥だけでなく日本各地で盛んに築造された時代がありますが、巨大な石を一体どうやって運び、どのようにしてあれほど精密な加工ができたのか謎が解明できていないのも魅力の一つと言えます。
斉明天皇に関係している遺跡は多くあり、日本書紀の中でも斉明記はひときわ異彩を放っています。
斉明天皇の治世は、東アジアの一大転換期にもなっており、新羅と唐の連合軍に攻められ存亡の瀬戸際に立たされた百済は、同盟関係にある日本に援軍を求められ、斉明天皇は、百済の救援要請に応じ、陣頭指揮のため赴いた九州で亡くなりました。
日本書紀は、斉明天皇の情愛溢れる女性として一面も伝えています。孫の建王(たけるのみこと)が8歳という幼さで亡くなったとき、天皇は悲しみに堪えられず、慟哭すること甚だしかったといいます。
飛鳥川 漲らひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも(訳:飛鳥川が水をみなぎらせて、絶え間なく流れていくように、絶えることもなく、亡くなった子のことが思い出されることよ。)という斉明天皇が亡き孫を偲んで詠んだ歌が残っています。

~天武・持統天皇合葬陵~
 近鉄吉野線飛鳥駅からバスで天武・持統天皇陵下車して徒歩すぐのところに、天武・持統天皇合葬陵があります。
現在の一夫一婦制とは異なり、明治以前の天皇は確実に跡継ぎを残すため、複数の妻を持ったのです。妻として、わが身に天皇の寵愛を得、わが子に皇位を継がせたいと願うのは当然のことで、女帝・持統天皇の一生は、まさに天皇の妻として母として激しく生きた一生でした。
645年、大化の改新の年、持統天皇、幼名・鵜野讃良皇女(うののささらのひめみこ)は、父・中大兄皇子と蘇我一族の血をうけた母・遠智娘(おちのいらつめ)との間に生まれたのです。政変相次ぐ七世紀後半の世、鵜野讃良王女も幼いころから波乱に満ちた道を歩んできたのです。
鵜野讃良皇女が五歳の時、母方の祖父が父によって滅ぼされ、このことにショックを受けた母は発狂死し、母亡き後、まだ13歳の時に父の政略で叔父にあたる大海人皇子に嫁がされ、結婚から4年後に草壁皇子を出産します。父・天智天皇の皇位継承争いから大海人皇子身を引いて吉野へ下り、翌年決起して壬申の乱を起こしたときは、夫・大海人皇子と行動をともにします。
この時期は苦難続きながらも、ただ一人の妻として夫を独占できたという意味で幸せだったと言えるのかもしれません。
壬申の乱に勝利した大海人皇子は天武天皇として即位し、鵜野讃良皇女は皇后となり、彼女は草壁皇子の皇位継承者としての地位を確実なものにするべく、夫・天武天皇が亡くなると、大津皇子を謀反の疑いで処刑するなど、さまざまな策を講じるのですが、草壁皇子は病死し、そこで、草壁皇子の子・軽皇子が皇位に就くまでの間、自らが天皇として即位し、女帝時代を開くのです。
天武天皇の政治を引き継ぎ、諸制度の整備を進め律令国家の確立に尽力をしたのが持統天皇です。
彼女が築いた藤原京から真南の見晴らしのいい丘に築かれた陵墓に、天武・持統ふたりの天皇が合わせて葬られています。
   


 

 
 








飛鳥ミステリーツアー

2020-06-28 16:53:50 | 地域と文化
~飛鳥のミステリーツアー“謎の石めぐり”~
 古人の都と呼ばれ、日本の歴史上初の首都となったのが飛鳥で、この地は、日本が日本と名乗り、さまざまな文化が誕生した地ですが、それ故に謎につつまれた石造物が限られた地域にこんなにもあるのは飛鳥ならではで、謎の石に秘められた飛鳥の伝説や神話さぐるツアーに行きましょう。
~愛嬌の裏に隠された怖い伝説~
 近鉄吉野線飛鳥駅と石舞台古墳の中間にあるのが亀石で、丸々とした愛嬌たっぷりの姿から、飛鳥の石造物の中でも人気の高い石造物です。
亀石ですが、その昔、当麻のヘビと川原のナマズが大和湖を巡って争った時、ナマズが敗れたため、ヘビに湖の水を取られ、川原にいた亀は枯死してしまいました。これを哀れに思った村人が供養のために造ったのが亀石だと言われています。
しかしこの亀石には少し怖い伝説があり、亀が「西の当麻方向を向くと、大和一帯が泥の海になる」という恐ろしい言い伝えがあります。
かつて東を向いていた亀石が、現在では南西を向いており、年々西の当麻向きに動いているとのことです。
~古人が作った謎の石造物~
近鉄吉野線岡寺駅から西へ行くと橿原ニュータウンなどの住宅街があり、その背後に小高い岡があります。標高は130mほどで岩船山といい山頂には巨石建造物があります。この建造物の名は「益田岩船」は飛鳥に点在する謎多き石造遺物の最たるものです。
大きさですが、長さは東西で11m、南北は8m、高さは4.7mの台形をした巨大な花崗岩です。推定重量は、100t以上といわれ、頂上部を経由して東西の両側面を結ぶ形で幅1.6mの浅い溝が彫り込まれており、また、頂上部には四辺の長さ1.6m、深さ1.3mの穴が二つ穿ってあります。
不思議なのは、固い花崗岩をここまで滑らかに彫りあげた加工精度は凄いものがありますが、石の下部は荒削りな格子状の整形跡が残っており、この建造物が製作途中で放棄されたことを示します。また、上部平坦面の溝や穴が高麗尺に基づいていることや加工技術などから7世紀代の制作と考えられています。
この巨石建造物の用途ですが、益田池の巨大な石碑の台石、占星術のための天体観測台、火葬、墳墓、ゾロアスター教の俳花壇もしくは水の祭壇など諸説あり、古墳の横口式石槨説が有力だとされていますが謎は尽きず、古人に聞かない限り謎は解けないのではないでしょうか。
~天皇の元お墓に鬼がいた~
 近鉄吉野線飛鳥駅から国道169号線を跨いだところに、鬼の雪隠・鬼の俎があります。
鬼の俎・鬼の雪隠という呼び名ですが、昔この霧ケ峰に棲んでいた鬼が霧を降らせて通りかかった人を道に迷わせ、とらえては「俎」で調理し、食べたあと「雪隠」で用を足していたという伝説に由来しています。
      
実際には、この2つの石は斉明天皇の御陵を造るために用意されたものの、地震か何かの原因により崩れてしまい、そのまま放置されたものとの見方もありますが、鬼の俎に残る多数の穴は、高取城築城の際に石工が切り出そうとした跡だと推測されています。
~謎の石造遺物“酒船石”~
 奈良県万葉文化館の近くにあるのが、謎の石造遺物“酒船石”があります。
飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)は、大化元年(645年)時の大臣、蘇我入鹿が皇極天皇の面前で中大兄皇子や中臣鎌足らによって暗殺されるという「乙巳の変」の舞台となったところで、その後、弟の孝徳天皇に位を譲った皇極天皇は、斉明元年(655年)、今度は斉明天皇としてこの場所で再び即位し、斉明天皇の時代にこの石造遺物が造られました。
酒船石は、飛鳥板蓋宮跡と伝わる遺跡から500mほど東の古高い丘の頂上にあり、長さ約5.3m、最大幅約2.3m、厚さ約1mの平らな花崗岩に楕円形の窪みが7つとそれらを結ぶ溝が彫られていますが、後世に石の一部が切り取られ、高取城の石垣に転用されたと言われています。
酒船石は、全体的に緩い傾斜をつけて設置されており、半円形の窪みに液体を注ぐと溝を伝って縦長の楕円形の窪みの方向に流れるというのですが、この不思議な石は、いったい何の目的でつくられたのか、窪みと溝は一体何を意味しているのか、それは、酒を作るため、油を作るため、辰砂を作るためなど、諸説ありますが、儀式的に水を溜めたり流したりするのが目的であるとすれば何らかの「水信仰」が存在し、酒船石はその祭祀を報り行う祭壇だったと考えるのが理想ではないでしょうか。

   



 

 

日本で最初の仏教寺院「飛鳥寺」

2020-06-27 07:46:24 | 地域と文化
~日本最初の仏教寺院“飛鳥寺”~
 甘樫丘を挟んで飛鳥川の西に飛鳥寺があります。近鉄吉野線飛鳥駅から明日香周遊バスに乗り飛鳥大仏バス停で降りたところにあり、所在地は明日香村飛鳥です。
寺の周辺は、飛鳥の自然が広がっていますので、バスもいいですが、歩いて回るのもよい地域です。
~飛鳥寺の草創~
飛鳥寺の現在の寺院は、安吾院といい真言宗豊山派です。
飛鳥寺ですが、建てたのは蘇我馬子といわれており、建立の目的ですが、権力を誇示することが必要だったといわれています。
用明2年5月蘇我馬子は政敵であった物部守屋を河内で倒したのです。この戦いには聖徳太子も蘇我氏の陣営におり、この結果、蘇我馬子はほぼ全権力を手中に収めることになるのですが、それを確固たるものにするためにその強大な権力を皇族、豪族、民衆に誇示し畏服させる必要がありました。その一つの方法として古今東西の権力者が常套手段としてきたもので、人が驚きその力に畏怖するほどの巨大で斬新な建造物の造立で、それが飛鳥寺だったのです。
飛鳥寺の建立までの軌跡ですが、崇峻元年(588年)に造営が開始され、推古4年(596年)、一応の完成を見せ馬子は息子の膳徳を寺司に任命し、僧を居住させ、推古13年(605年)に本尊の鋳造を開始した際に、高麗国の大興王から黄金三百両が送られ、推古14年(606年)に本尊が完成して金堂に安置して寺として完成しました。
法号は法興寺または元興寺といわれており、飛鳥寺は当時の朝鮮半島の先端技術によって建立された本格的な伽藍をもった我が国最初の仏教寺院です。
~創建時の伽藍配置~
 昭和31年(1956年)~昭和32年(1957年)に行われた発掘調査で、伽藍配置は、南大門、中門、塔、中金堂、講堂と一直線上に並び、更に塔の東西に金堂を配置するという「一塔三金堂」式伽藍であったことが判明したのです。
この結果、四天王寺式伽藍配置が我が国で最も古いとされていた定設を覆すことになったのです。
この伽藍配置は高句麗の寺院跡にその例が見られるといわれ、当時の朝鮮半島の寺院建立形式が色濃く反映されています。
飛鳥寺の建築技術は、古代朝鮮半島の先端技術が導入されました。
飛鳥寺は蘇我氏と結びつきが強く、渡来人に繋がる朝鮮半島の百済国などから6人の僧、寺大工、露盤博士、瓦博士、画工などの派遣を受けたと日本書紀に記されており、彼らの指導の下に建立されたと考えられ、また聖徳太子の師といわれる高句麗の高僧、恵慈など、既に日本に渡来していた僧もその指導に加わっていたであろうと推測されています。
伽藍の規模ですが、飛鳥寺の寺域は、南北293m、北辺215m、南辺260mの台形であったことも発掘調査の結果で明らかになっています。
~飛鳥寺は日本仏教の先導者~
 飛鳥寺完成を契機にして、仏教は当時の支配者層である豪族へ急速に広がりを見せ興隆したのです。飛鳥寺は、その興隆の常に中心にあってそれを支え、また、その先導者として大変重要な役割を果たしたのです。
つまり、聖徳太子の師といわれる高句麗の高僧の恵慈や完成時に来朝した百済の高僧である恵聡などがこの寺に住して本格的な教学研究の場となったのです。
下って推古天皇33年(625年)に高句麗僧の恵灌が来朝して法興寺に入り、三論宗を講説して我が国に初めて体系的な仏教教学を伝へ、さらに斉明天皇7年(661年)に飛鳥寺の僧である道昭が唐留学を終え帰朝して玄奘三蔵より学んだ唯識設(法相宗)を初めて伝えています。さらに下って天平期には飛鳥寺(平城京・元興寺)の僧である智光が三論宗の「空」の概念から、後の浄土思想の源流となる観想浄土系の浄土思想を独自に展開したのです。これらの史実が示すとおり、三論宗や法相宗を初めとする日本仏教は、この寺から全て出発し発展したのです。つまり、日本仏教のルーツはこの法興寺にあるといえるのです。

  


         



古人の都 飛鳥を歩く

2020-06-26 09:46:42 | 地域と文化
~古人都 飛鳥を散策してみよう~
 古人の都と呼ばれた飛鳥は、日本歴史上初の首都となった地で、日本が日本と名乗り、さまざまな文化が誕生した地ですので、古人の営みを感じられる場所や伝説が多く残されていますので、古人を思いながら巡っていきましょう。
~蘇我氏の邸宅跡が絶景~
 明日香村豊浦にある甘樫丘ですが、飛鳥に来たら一度は登っていただきたいのが甘樫丘です。歩いて10分~15分ほどで山頂の展望台に到着し、東の眼下に広がるのが古代飛鳥なのです。また、春夏は美しい緑が、秋には見事な紅葉の風景が目に入ってきます。
ところでこの丘ですが、大化の改新でも有名な蘇我氏の邸宅があったと言われている場所でもあります。
~春とともに神様が~
石舞台古墳から東へ歩いて10分~15分のところに阪田集落があり、阪田集落にはかつて坂田寺がありました。
この坂田寺ですが、持統天皇の時代に建立されたと伝えられ、飛鳥五大寺の一つだった尼寺だったのです。
日本で初めて、11歳で得度(資格)を受けた尼さんの「善信尼(ぜんしんに」」ゆかりのお寺で、奈良時代には、東大寺の大仏の東脇侍である観音菩薩像を寄進しているのです。
また、この辺りには神様がお出になる山「オデヤマ」があり、その麓にある棚田の上方には、飛鳥京・藤原京・平城京の三つの都が見渡せる場所があり、今も春になると神と言われる持統天皇が見ているかも。
~日本の棚田百選にも~
 男綱や飛び石があるのが「稲渕集落」です。稲渕集落には、奥飛鳥の名勝でもあり、日本棚田百選に選ばれている棚田があります。
この棚田は、歩く度に風景が変わり、春は新芽が出てきて山の色が変わり、秋になれば稲穂の色も大きさも変わってくるのです。
植物も季節ごとに変わりますが、鳥の鳴き声も変わります。春は、ウグイスやメジロ、6月になればホトトギス、秋から冬には百舌鳥と楽しませてくれますし、秋が深まるころには渡り蝶の「浅黄斑(あさぎまだら)」に運が良ければ出会えます。
この集落ではこういった自然に癒される場所で、米は人の命を支えてくれますし、景観は人の心を豊かにしてくれます。
~古き良き集落~
稲渕集落を南へ下っていくと栢森(かやのもり)集落があります。
この栢森集落は、故郷の音が古き良き集落で、どことなく幼い頃の記憶が蘇るようなそんな風景です。
栢森という集落は、どこを歩いていても、小川が流れる音が聞こえてくる、とても気持ちのよい所です。
この集落の川ですが、川底が整備されずに。岩肌のままで、昔ながらの風景が残されており、「国の重要文化的景観」にも指定されています。

 



 





弥生時代の風を感じる・体感する

2020-06-24 15:24:01 | 地域と文化
~弥生時代の風を感じる・体感する施設~ 
 田原本町は、奈良盆地のその中央低地部に位置し、豊かな自然環境と歴史的風土に恵まれた町です。
唐古・鍵遺跡をはじめとした史跡や能発祥の地、桃太郎生誕の地でもあります。また、新しく「唐古・鍵遺跡史跡公園」や道の駅「レスティ唐古・鍵」が完成し、ますます街歩きが楽しくなりましたよ。

・・・唐古・鍵遺跡史跡公園・・・
近鉄橿原線石見駅から東へ歩いて20分くらいのところにあるのが、唐古・鍵遺跡です。
唐古・鍵遺跡は、弥生時代を代表する大規模な環濠集落遺跡として、平成11年に国史跡に指定されました。
唐古・鍵遺跡ですが、奈良盆地のほぼ中央で、標高48m~51mの沖積地に立地しています。昭和11年~12年(1936年~1937年)、国道敷設用採土に伴い唐古池底の調査がおこなわれました。この時に出土した土器や木製品等は弥生時代の総合的な認識をもたらし、畿内の土器編年の枠組みを作りました。その後、発掘調査は、昭和52年(1977年)に再開され、平成27年(2015年)9月までに116次に達しています。
集落は、多条環濠を有し、大型建物や高床、竪穴住居、木器貯蔵穴、井戸、区画溝などの遺構で構成されています。
大環濠(内濠)は直径400mの範囲を囲み、外濠を含めた全体では約42万平方メートルの面積を占めています。出土遺物は土器、農工具、容器などの木製品、石鏃や石包丁などの石器、骨角器、ト骨などの祭祀、遺物、炭化米、種子、獣骨類など多種多様な遺物、さらには銅鐸の鋳型などの鋳造関係遺物、褐鉄鉱容器に入った上スイ製勾玉、楼閣が描かれた絵画土器など特殊な遺物も出土しています。これらの遺構・遺物から本遺跡は、近畿地方の盟主的な集落と考えられています。
これを期に、平成30年4月、弥生時代の風景・生活を実感・体験できる「唐古・鍵遺跡史跡公園」が開園されました。
環濠を復元し、弥生時代の植生に則した樹木を植えて当時の林を再現しており、遺構展示情報館やイベントなどができる広場、東屋も設置されています。

      


・・・道の駅「レスティ唐古・鍵」・・・
 唐古・鍵遺跡史跡公園と国道24号線を挟んで向かい側にあるのが、「レスティ唐古・鍵」です。
道の駅「レスティ唐古・鍵」ですが、さまざまな観光サービスを提供する交流施設、道の駅が平成30年4月20日に誕生しました。
駐車場から史跡公園へと向かう主要動線には、唐古・鍵遺跡や町及び県中南和地域の観光案内と地場産品の買い物、食事を提供する「此処でこそのもてなしの場」があり、史跡公園への期待感を高める施設となります。
特長的な寄棟造りの大屋根は、国道24号線を走る車からもよく見えますので、新しい田原本町のランドマークとなり、この大きな寄棟屋根の「道の駅」と、史跡公園の「楼閣」という対峙する2つの建物が、このエリアのシンボルとして特徴的な建物風景を生み出しています。

・・・1階 交流エリア・・・
 地元の旬の野菜や果物、お土産品や特産品のお買い物はもちろん鍵ベーカリーの「黄金の生食パン 極」も販売しており、簡易的な飲食店が並び、賑わいを創出しています。また、観光情報も提供して、田原本町を広くPRしています。

・・・2階 体験エリア・・・
野外テラスと吹き抜け空間に面した飲食店では、カフェの種類豊富な「ドッグサンド」や田原本産野菜を使った「田原本グルメ」も楽しめますし、キッズコーナーなども併設していますので、すべての来訪者が気軽に休憩でき、癒しを感じることができます。また、多目的室では土器作りなど弥生時代の体験学習ができます。

・・・3階 展望エリア・・・
大和青垣・二上山の眺望や史跡公園を一望できる展望エリアです。田原本の豊かな景観を眺めることができます。

      



お家や事務所で本格的なコーヒーはいかがですか?

2020-06-23 14:19:35 | 生活情報
お家や事務所で本格コーヒー
 自粛が緩和されたと言っても、喫茶店には入りにくいという方には必見です。
豆から挽きたて、淹れたての香り高いコーヒーが楽しめる全自動コーヒーメーカーをご紹介します。

自動計量容器とタイマー予約機能を内蔵しており、お好みの時間に挽きたて淹れたてのコーヒーが自動で淹れられる優れものなのです。

            

忙しい朝の時間や、会議前の資料整理でなかなか時間がないとき、タイマーをセットするだけでOKなのです。
    
          

豆の計量不要!自動計量で手間いらず
コーヒー豆はコーヒーを淹れるたびに量って入れる必要がなく、一度に約100gまで入れることのできる豆容器なので、杯数に応じて自動計量してくれるのです。そのため、豆を量る必要がないので手間がかからないのです。

タイマー予約機能で好きな時間に抽出完了
タイマー予約機能を内蔵していますので、好みの時間にセットしておけばそれでOKなのです。
会議などで席を外すことができないといったときにも、淹れたての美味しいコーヒーを飲むことができるのです。

使いやすい操作パネル
操作パネルは直感で使える使いやすいパネルデザインを採用しています。そのため、挽き方・テイスト・杯数などお好みに合わせて選ぶことができるのです。

是非、ご検討してみてください。
詳しいことは下記のHPでご確認ください。

      



 

 

 

終活を考える方へ

2020-06-22 21:03:47 | 生活情報
終活で一番悩むお葬式の形
 終活を考える方が増えていますが、人は死ぬと火葬して遺骨をお墓に埋めるというのが昔からの考え方だったのです。

しかし近年、葬儀のした方も変化してきており、子供や可愛い孫に負担をかけてはいけないと「樹木葬」や「散骨」という埋葬の仕方が考えられるようになりました。
少し前までは、散骨をされる方の理由として、「経済的な理由でお墓の購入ができない。」「海や山が好きなので自然に返してほしい」といった遺言だったのです。
       
そこで、もっともポピュラーな海で行う散骨プランを紹介します。

1.代理散骨プラン
遺族の代わりに散骨業者が散骨してくれるプランで、遺族は岸などで故人を見送って、後は散骨業者に任せて海に散骨していただくプランです。
この場合だと、料金は比較的やすく30,000~80,000円ほどなのです。

2.合同散骨プラン
このプランは複数の遺族が同じ船に乗り散骨を行うプランで、代理散骨とは違い遺族の手で遺骨を散骨することができるため、最後のお別れもできるのがよいところです。
このプランの料金は、100,000~200,000円ほどです。
          
3.個別散骨プラン
このプランは、遺族が船を一隻チャーターして散骨を行うプランです。身内だけですので気兼ねなくお別れをすることが出来ますし、散骨も思う存分行うことができるのです。
ただし、船を一隻チャーターしますので料金もそれなりに掛かり、200,000~500,000円ほどとなります。

散骨プランでは、通常のようにお坊さんによるお経などはありませんし、酒・水・花を海に撒く程度なのです。
         
また、散骨すると遺骨が残りませんので、それでは偲びないと感じる方は、少量の遺骨を分けて自宅で供養するといった方もいます。

 

 

飛鳥の美味しいもの

2020-06-20 08:14:03 | 地域と文化
飛鳥の美味しいもの発見!
飛鳥の地は、太古のロマンを感じられる場所ですが、古人が都を作ったと同時に食文化も発展してきた場所でもあります。そこで明日香の特産品やグルメなどを巡ってみましょう。

~あすか夢販売所~
 明日香村御園に「あすか夢販売所」がありますが、実は、近鉄吉野線飛鳥駅を下車して国道169号線の向かい側にあるのです。
営業時間は、9時から17時で無休なのですが、年末年始については問い合わせ下さい。(TEL0744-54-5670)
主な販売品ですが、明日香特産のあすかルビーと古都華です。あすかルビーは、大粒でぽってりとした形のイチゴで、一口噛むと果汁たっぷりで「真っ赤な宝石」とも呼ばれています。また古都華(ことか)は、ツヤのある鮮やかな光沢で、糖度と酸味が高く、濃厚な深い味わいです。
この明日香が誇るイチゴはもちろん、新鮮な野菜、果物が毎日出荷されており、出荷者は全員生産履歴記帳を行い、内容を確認しており、エコファーマー認定取得の販売所です。
      

~明日香ビオマルシェ~
 明日香ビオマルシェとは、明日香村直営所「あすか夢の楽市」の駐車場で、毎週金曜日に朝9時から正午まで行われる朝市なのですが、イベント的なマーケットではなく、毎週定時に開催することで、1週間分のお野菜を買ってもらうことが目的なのです。また基本的に、加工品ではなく生鮮品を扱うのがビオのマルシェで、無農薬、オーガニックで本当に良いものを作る生産者が集まっています。
あすか夢の楽市は、奈良県明日香村の生産物直売所で、甘樫丘の雷(いかづち)の丘、天香具山が近くにある風光明媚なところで、飛鳥水楽遺跡のとなりにあります。また、会場となる直売所は、もともと小学校で、木造の趣のある素敵な建物です。
      

       
~明日香村のちいさな珈琲屋さん~
民家を改装したちいさな喫茶店で、近鉄吉野線飛鳥駅より明日香周遊バスで岡橋本バス停すぐのところにあり、近くには橘寺や飛鳥宮跡があります。
自家焙煎珈琲店「さんぽ」は厳選した生豆を仕入れて、良い豆だけ焙煎して、丁寧に抽出したコーヒーを提供してくれますので、まずは砂糖もミルクも入れずに飲んでコーヒー豆独自の味を楽しむのが通です。
コーヒーはハンドドリップで1杯ずつ丁寧に入れてくれますので。少し時間がかかりますがその分味は保証付きですし、お得なランチセットがあり、海南鶏飯か鶏のカレーライスに好きなコーヒーが付いて1.350円で提供してくれます。
また、ペット連れでも利用することができる、テラスがありますが、屋根がありませんので雨や風の強い日は利用することができませんのでご注意下さい。

~古民家のお店でゆったり、まったりと~
 明日香村栢森(かやのもり)という奥明日香にあるのが「さらら」で、奥明日香とは、明日香の南東方向にある稲渕、栢森、入谷の3つの集落を指し、1300年以上も昔、この土地を通って天武・持統天皇が吉野宮滝へ向かったといわれています。
店名の「さらら」ですが、持統天皇の「うののさららのひめみこ」から名付けたとか。古民家を改装したお店でゆったりとした静かな時間の流れを感じることができ、地元で採れた新鮮野菜や山菜を使った、懐かしい故郷の味を楽しむことができますが、この「さらら膳」は予約が必要で、来店前に連絡が必要です。
この「さらら」ですが、食事はもちろんですが喫茶の方も充実しており、コーヒーは自家焙煎から新鮮な豆を取り寄せており、紅茶のオレンジペコ、フレッシュジュース、ケーキはすべて地元の食材や旬の食材を使った手作りです
「さらら」では、メニューに使った黒米や黒米うどん、手作りクッキー(季節により、みかん、イチゴ、たまねぎ、ハーブなど)や佃煮、生芋100%手作りこんにゃくなどを販売されており、どれもこれも、近隣で採れたものが加工されておりますのでお土産に人気があります。(TEL0744-54-5005)
  
    




飛鳥の2大古墳

2020-06-16 16:42:15 | 地域と文化
飛鳥を代表する2大古墳
 飛鳥の地は、古代の時代に日本歴史初の首都となり、日本が日本であると知らしめし、さまざまな文化が生まれ、また朝鮮から新しい文化を取り入れた時代でもあります。このような時代に生まれたのが、飛鳥はもちろんのこと日本を代表する古墳が誕生したのです。
古人の思いを感じながらじっくり見て廻って下さい。
~男・女の群像が素晴らしい高松塚古墳~
高松塚古墳ですが、明日香村平田にあり、近鉄吉野線飛鳥駅から明日香周遊バスで高松塚壁画館下車すぐのところにあります。
昭和47年(1972年)に、発掘調査によって美しい壁画がみいだされ、日本中を驚かせ、飛鳥という地名を全国に知られた出来事でした。
高松塚古墳は、径20mにすぎませんが、粘土と砂を交互に一層ずつつきかためて築くなど飛鳥の古墳に特有の、特殊な構造を備えた終末期の古墳の一つなのです。
造られた年代は7世紀末から8世紀初めと考えられています。石室の天井には星宿(星座)、周囲の壁には日、月,四神と従者を配し、死者が永遠の眠りにつく小宇宙を形成しており、中国思想に基づいて貴人の墓にふさわしく飾っています。
~壁画の調査結果~
高松塚古墳応急保存対策調査会において、早急に石室内の三方の壁と、天井に描かれた壁画の調査をおこないました。
壁画は、男性と女性の人物群像、四神、日、月、星宿なのです。男性・女性の群像は、それぞれ四人一組で、東西の壁に、男子像が南寄りに描かれており、女子像が北寄りに描かれています。また、四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)は、南壁を除く各壁の中央部に描かれており、日輪は東壁の青龍、月輪は西壁の白虎の上にそれぞれ描かれ、星宿は天井の中央部にちりばめられています。
扉石の内側には、朱雀が描かれていたと思われますが、漆喰が剥離しており確認が困難だったのです。人物の足の位置は、龍・虎の脚先とほぼ一線上にあり、人物像の高さは約40㎝だったのです。
~高松塚古墳壁画の保存法~
壁画は、石室の内面に塗った漆喰の上に描かれていますので、漆喰の様子や、顔料の成分などを詳しく調べたあと、壁画が傷んだ部分は剥げ落ちるのを防ぐため、合成樹脂をしみこませたのです。
閉じられた石室の内側は、一年を通じて気温11℃~17℃、湿度95%以上と一定した状態で、これが壁画の保存には一番適しているとされ、常にこの状態を保つために空気調製施設がつくられました。
正確な記録を残すために前田青邨を代表者とする日本画家のチームによる精巧な模写も作られました。
現在、修復が終了して、一般公開される予定ですので、詳しくはHPで確認してください。
~特別史跡 キトラ古墳~
高松塚古墳に次ぐ我が国2例目の壁画古墳で、昭和59年(1983年)の調査で石室内に描かれた極彩色壁画が発見されたのです。
キトラ古墳ですが、明日香村阿部山にあり、近鉄吉野線飛鳥駅よりキトラ古墳行きの直通バスがあります。
キトラ古墳は、藤原京の南に広がる古代の皇族・貴族などの墓域に所在する小さな円墳で、7世紀末~8世紀初頃に造られたと考えられます。
~キトラ古墳の規模~
キトラ古墳ですが、東西にのびる丘陵の南斜面に位置し、墳丘は2段築城で、下段の直径が13.8m、上段の直径9.4mであったと復元されています。
墳丘の中央には、凝灰岩の切石を組み上げた石室があります。石室には18個の直方体の切石が使われており、石材は古墳から北西に約14㎞離れた二上山から運ばれたものと推測されています。石室内部の広さは、奥行2.4m、幅1.0m、高さ1.2mで、天井・側壁・床面の全面に漆鳴が塗られており、その白い漆喰面に、四神や十二支、天文図などの極彩色壁画が描かれています。
~重要文化財 キトラ古墳壁画~
キトラ古墳の石室内には、四神、十二支、天文図、日、月の壁画があります。
四神は天の四方を司る神獣で、壁画は対応する方位に合わせて、東壁に青龍、南壁に朱雀、西壁に白虎、北壁に玄武が描かれています。ちなみに高松塚古墳では、盗堀により南壁の朱雀が失われていましたので、我が国で四神の図像全てが揃う古墳壁画はキトラ古墳壁画だけです。 
四神の下には、獣頭人身の十二支が描かれており、北壁中央に子像が描かれ、方位に合わせて各壁に3体ずつ配置されており、現在確認できているものは子・丑・寅・午・戌・亥の6体だけです。
屋根形の蘞り込みのある天井には、東の斜面に金箔で太陽を、西の斜面に銀箔で月を表現されています。天井の平坦面の部分には、円形の中国式の天文図が描かれており、この天文図は、赤道や黄道を示す円を備えており、本格的な中国式星図としては、現存する世界最古の星図なのです。