稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

№107(昭和62年11月28日)

2020年04月17日 | 長井長正範士の遺文


例えば野球にしても、ピッチャーが球を投げても、投げっ放しせず、すぐピッチャーゴロに備える構えをし残心の態度を崩しません。又、打者がホームランを打っても1点は入りません。三塁を完全に踏んで廻り本塁に帰り、ベースを踏み、終って始めて1点が入るのです。体操などでも見ていますと、鉄棒や、吊環、鞍馬等、如何にうまくやっても、最後の着地、フィニッシュでバランスを崩すと、その程度でジャッジは厳しく減点します。あとの残心が如何に大切かお判りと思います。

又、日常生活で例をあげると、会社で上司が社員に、この書類を誰々に渡してくれと言われ、ハイと言って渡して来て、そのまま黙って自分の仕事をしてよいであろうか、上司に確かに手渡して参りましたと報告する。これで任務のすべてが完了します。これが信頼につながるのです。このように例を挙げても、スポーツでは採点に当ってはより厳密に規定され、より一層高度なスポーツを要求されています。水洗便所じゃないけれど、たれ流し、やりっ放し、打ちっ放しではいけません。ですから剣道ではスポーツ以上の精神を持たなければ、剣道は益々低俗になってしまいます。大いに反省しなければなりません。

私がいつも言っておりますように、剣道を修行すると同時に物の大切さを考え、自分の肉体の大切さを考えていかなければなりません。そして健全な身体から生ずる心の持ち方を修養してゆくのであります。われわれは本物の剣道を求めて生涯修養してゆくよう努めなければなりません。この項一応終りまして話題を変えます。

〇すしを握って65年、現在80才という取手の或る名人がテレビに映っていました。その名人が言うのに「お世辞は頭の中に入れておく」と。又「ごまかさないように基本を忠実に守ること、辛棒出来ずにやめたらおしまい」と。私は成程と大変教えられました。

名人だけあって、無駄に年はとっていない。それだけ苦労の年輪を重ねている。それにひきかえ、年季の入っていない職人でよくお世辞のうまい人がいるが、こんな人の握りを見ると、手早く器用に握って客の前に出すが、すしの形も悪く大小があって、くずれやすい。案外ネタも薄く、シャリと一体となっていない。喋りまくって握りに心が入っていない。すしもまずい。客はこんな江戸前の店にお世辞を聞きに入ってくるのではない。愛想よく、べらべら喋りまくられると、かえって耳ざわりで邪魔になり、すしを味わう楽しみも消え失せ、味もまずく、いやになって、勘定もそこそこに退散した経験を私はしたことがありますが、その反面、一寸変人のようで無口の職人さんではあるが、仕入れのネタは吟味に吟味を重ねて新鮮さを命としている江戸前のすし屋さんに入ったことがありますが、注文のネタを、手の内も鮮かに美しくまとめて握り、ポンと前に出された時は一つの生きた芸術を見せつけられた気がして、自分も無言のうちにパクとついて満足感を味わうことが出来ました。

見ているといずれの客も通らしく、又、常連で食べる幸せを口元に、いや顔一杯にほころばせているのがよく判ります。そして思い思いのネタを注文するのを、ベテランの職人は遠山の目付よろしく、気くばりが行き届いて間をはずさず「ハイ」とタイミングよく皆に平等に出している。その腕前は見事!の一言につきます。それから又、彼の握り方を見ると、若い者のように決して手早くない。以下続く
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