稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

剣先を合わせない相手との稽古

2019年11月25日 | 剣道・剣術
試合経験豊富な剣士の中には決して剣先を合わせようとしない人がいる。

実は、以前(道場があった頃)の長正館の子供たちもそうで、
試合に長じた櫻田章夫教士七段(2018年逝去)が指導責任だったためか、
試合稽古になると「剣先を低く構えろ」と指導されていたのを思い出す。

子供たちはお互いに正しい中段に構えることをせず、
竹刀は床に平行に低く構え、その剣先は相手に向けない。

こういう構えのクセがつくと、
いくら「しっかり構えろ」と指導しても、
なかなか正しい中段(正眼)の構えには戻せない。
試合上手な子ほど顕著で、相手が動いた瞬間を狙って出鼻で打とうとする。

結局それは、グーチョキパーのジャンケンみたいな勝負になってしまう。
そして試合上手な子ほどフェイントを使うので、引っ掛けや騙し合いを多発する。
当てっこでも旗は上がるので自分は強いと勘違いをしてしまう。

------------------

残念ながら大人でも、いや高段者でもそういうタイプが存在する。
さすがに高段者になれば体勢が崩れっぱなしで打つことは少なくなるが、
それでも理合に適った技であるとは言いがたい。
そして足腰が弱ってくる年令になるとだんだん打てなくなるのである。

構えが出来ていない者は、正しい構えの相手には、なかなか打てないので、
体勢を崩して打ったり、何かしら奇をてらった打ちを多発するものだ。

剣先を交えない剣道は当てっこ剣道である。
勘に頼ったスピードとタイミングだけの剣道である。
打っても納得が行かない事が多く打たれても打たれた気がしない。

剣道は競技性の強い武道なので広い意味ではそれで良いのだろうが、
やはり本筋は「相手を崩して打つ」というのが本筋だろう。


(伊丹の振武館・八段同士の稽古風景、鎬を使った気のやり取りが見事である)

交刃から一足一刀の間で相手の鎬を自分の鎬で感じ取る。
鎬の圧力、その緩急強弱の反応を見て相手の心を読む。
相手との合気の中で自分の勝機を生み出し中心を取って技を出す。

そういう剣道を目指すべきだと思う。
剣先を外した剣道をすることに決して慣れてはいけない。
(昨日書いた新人七段には稽古の後でアドバイスしておいた)

自分的には、剣先を合わさない相手との稽古は、
焦らず、相手と高さを合わせ、なるべく鎬で読み取ろうとする。
それでも剣先を外され合気にならない場合は、ただただ中心を外さぬようにしている。
そして奇をてらった技に打たれたり突かれても平然としているよう心がけている。
(悪いが、打たれても「まぐれ当たり」としか思えないのだ)

究極のところ、剣道は「自分が崩れなければそれで良し」なのである。(明日11月26日に続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする