稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

№104(昭和62年11月20日)

2020年04月12日 | 長井長正範士の遺文


〇ぼけたらあかん長生きしなはれ (藤井寺市の天牛将富様作)

年を取ったら、出しゃばらず
にくまれ口に、泣きごとに
人のかげ口、愚痴いわず
他人のことは、ほめなはれ
知ってることでも知らんふり
いつでもアホでいるこっちゃ

勝ったらあかん、負けなはれ
いずれお世話になる身なら
若いもんには花持たせ
一歩さがってゆずるのが
円満にいくコツっですわ
いつも感謝を忘れずに
どんな時でも、へえおおきに

お金の欲を捨てなはれ
なんぼゼニカネあってでも
死んだら持っては、いけまへん
あの人は、ええ人やった
そないに人から言われるよう
生きてるうちに、バラまいて
山ほど徳を積みなはれ
  
というのは、それは表向き
ほんまはゼニを離さずに
死ぬまでしっかり持ってなはれ
人にケチやと言われても
お金があるから大事にし
みんなベンチャラいうてくれる
内証やけどほんまだっせ

昔のことは、みな忘れ
自慢ばなしは、しなはんな
わしらの時代はもうすぎた
なんぼ頑張り力んでも
体がいうこと、ききまへん
あんたはえらい、わしゃあかん
そんな気持ちで、おりなはれ

わが子に孫に、世間さま
どなたからでも慕われる
ええ年寄りになりなはれ
頭の洗濯、生きがいに
何か一つの趣味持って
せいぜい長生きしなはれや

〇余生はかくありべし、と河内弁で面白おかしく表現された文才は誠に鮮か、心を打つ教訓ではありませんか。皆さんに紹介しておきます。以上
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№103(昭和62年11月19日)

2020年04月10日 | 長井長正範士の遺文


一、あらゆる生物に生命力を与えるのは水なり。
一、常に自己の進路を求めてやまざるは水なり。
一、如何なる障害も克服する勇猛心と、よく方円の器に従う和合性とを兼ね備えるは水なり。
一、自ら清く、他の汚れを洗い、清濁併せ容るの量あるは水なり。
一、動力となり、光りとなり、生産と生活に無限の奉仕を行い、何等報いを求めざるは水なり。
一、大洋を充たし、発しては蒸気となり、雪となり、雨となり、雪と変じ、霞と化しても、その性を失わざるは水なり。
水を心とすることが、平和と健康と長寿の妙薬であります。以上

〇今度は話題をかえて私が若いときから尊敬します松下幸之助老師(老師という言葉を敢えてつかいたく№90に書きました私の真意ご理解乞う)のお言葉を申し上げたいと思います。皆さんは面をかぶって稽古している気持で聴いていただきたいと思います。

相手が、こうするから、自分もこうしよう。こうやってくるなら、こう対抗しようと、あれこれ知恵をしのって考える。そして次第に進歩する。自分が自分で考えているようだけれども、実は相手に教えられているのである。相手の刺激で、わが知恵をしぼっているのである。敵に教えられるとでも言うのであろうか。敵がなければ教えもない。従って進歩もない。だからむしろ、その対立は、対立のままにみとめて、互いに教え教えられつつ、進歩向上する道を求めたいのである。つまり対立しつつ調和する道を求めたいのである。それが自然の理というものである。共存の理というものである。そしてそれが繁栄の理なのである。と仰っています。

これはもう随分昔のことで、私が五十才そこそこの時でした。当時は私はまだ種苗園芸店をやっておりましたが成程と感銘致しました。お客さんが、店に入って来て、何かないか何ないかと旬のタネや苗を入れかわり、たちかわり聞いてくるので、初めは、そんなのおまへんと、内心、うちにあるタネや苗を買ってくれないで、無いものばっかり買いに来よる、と不機嫌な顔して言っていましたが、ふっと、アッそうだ、お前とこばかり買いに来ていいるんやから、どこそこのタネヤが売っているあのタネをお前とこにも仕入れて売ってくれれば都合よいんだ。平素ちっともあのタネ屋に買いに行ってないのに、そのタネだけ買いに行くのに一寸気がひけるから・・・・と言って私を可愛がって下さる百姓さんに何んと無礼なあさましい応対をしたんだろうと後悔し、お客さんが、あそこに売っているタネは今新品種で増産形だからお前とこも時代におくれんよう、得意をあの店にとられんよう、あのタネを置きなはれや、と教えて頂いているんや、なんでもっと早く気がつかなんだやろうと客に頭を下げ感謝しましたのですが、これに類した自分と客との応対は年月の経つにつれ、松下幸之助老師に学ぶところ非常に大なるものがあり、これが、ひいては剣道の心構えにどれほど役立ったか、はかり知れません。

ある時は又、松下幸之助老師は「社長が会社を経営して、よう儲けもせず、損ばかりして社員にろくざま給料を払えずよう養って行けない者は国賊だ。」と仰ってました。「國の土地をあずかって、そこに社屋を建て多くの社員の生活を保証するためには儲けにゃあかん。儲けてこそ国が繁栄するのである。それをよう儲けもせんで国に損害を与えるもんは国賊と言うんやと堂々と明言された事を今も尚はっきりと覚えています。私は戦後長い時、矢田駅前でタネ屋をやっていましたが、すべて松下老師を私淑し、商売の勉強と共に剣道精神を活かし、お客さんは神さんと心がけ晩年にはタネを売るのじゃなく、長井の心を買いに来て下さるんだと、その心に感謝し、タネや苗の品物を売るのではなく心を売らなければならないことを悟りました。蛇足ですが数年前の某銀行さんのたって私の店(駅前の一等場所の角店でありましたので)買いたいというので、もうこの辺が潮時と売却しました。この時の私の経験がどれほど役に立ったか。有難いことです。この項終わり。

〇次に人生の極意とでも申しましょうか、面白い中にも教えられる事を書いておきます。
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№102(昭和62年11月15日)

2020年03月31日 | 長井長正範士の遺文


以上、前項の隋と、この機(隋機)は絶想から自然に生ずるので、そこに到達する秘訣は、日夜組太刀の稽古に励み、不撓不屈の精神で、各技の勝機を見出し、理に順って打込む修行を積み重ねることに「あります。かくして真鋭無比な剣の道に叶い、順理の徳を得て、あたかも池中の蛟竜が風雲を得て、蒼穹に昇るように、聖賢が世紀の大転機に乗って現れ出るように、われも亦、神機を得て、永恒純一の一刀流の功用を顕現することになるのである。と教えられています。

尚又、一刀流では〇心機一元ということを力説されています。それは、太刀技というものは、心、気、理、機、術の五格の上に立っている。これを説明すると、先ず人を司どるのは心であります。(※この心については№61、62、№94、95に述べていますが更に一刀流でじは)心と気とは本来一元である。心は実であって静である。気は用であって動である。心は動きの潜勢力であり、気は能動力である。心を水にたとえると、気は液であると表現しています。

この気なくしては機をとらえる事は出来ません。尚、気理一合と言って、気の雄渾な大勢がよく理に合してこそ大勝を得ると言ってあり、理機一閃機術一致の大切さを述べてあります。更に申し上げますと、一刀流では、真剣勝負には、先ず心を清明にして、敵状を知悉し、真情実意を一つにし、気を満たし、豪快雄渾な気合をもって理を捉え、深遠微妙な理の中に機を掴み、一瞬に現滅する神機に投じて精妙の術を施し、以って必勝の功をあげるのである。と教えられています。

以上、機について笹森順造先生のお説を申し上げましたが、私自身まだまだ未熟で守、破、離の守りの域を脱せず、又解説も舌足らずで一刀流修行中の皆さんに満足して頂くまでに至りませんが、おいおいお互いに研修して先祖様の霊に報いるべく努めて行きましょう。この項これで終わります。

さて心は水にたとえられたついでに申し上げておきます。

一刀流では、〇一刀湛水と言いまして大事なことを述べてありますので、次に申し上げておきます。
水は方円の器に湛え、深淵に湛え、大洋に湛えて、自らの形に居付くことが無い。無形無相である。この水が一度緑にあえば、緑玉よりも緑に、紅葉にあえば紅玉よりも紅く輝く、一滴のしずくが玉となって、丸く万酙の大海が淼々(びょうびょう=水の広く満ちたさまをいう)として又、丸い。これは水の性が満ちたら、わいて欠ける所がないからである。無心に湛えた桶の水が桶の針ほどの隙があると忽ち奔り出る。これは湛水の性である。

一刀を無形無相と教えるのは、敵に従って転化し、八方に進出して浸透し、円満具足して円相を象(かたどら)らせるためである。欠ける所なく、満ち足る性を本然とするから、敵に針ほどの隙があると、そこをのがさず忽ち切込み、決して許すことが無い。又わが内心の欠陥を補い補いして、円満に具足するために精進する。自らを補い補いして円相に達し、主心を発露して欠ける所がなくなり、初めて転変流露し、無碍自在となり常勝の士となる。ここが一刀湛水の極地である。と教えています。

以上で一刀流の心と水のお話を終わりますが、話のついでに財団法人船舶振興会の会長でもあり、財団法人日本顕彰会の会長でもある笹川良一氏(他に多数の会長をされて世界中に活躍貢献されている偉人)がこの水について述べられており、私共剣道を志す者にとって大変教えられ、笹川良一氏の高潔な人格の一端を伺うことが出来ますので次に申し上げておきます。

笹川良一氏の〇水六訓と題して(№103へ)
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№101(昭和62年11月14日)

2020年03月27日 | 長井長正範士の遺文


〇機について
日本剣道形、太刀七本目の形で、打太刀は機を見て打つと教えてありますが、この機をただ漠然と機をはかってとか、機を見てと簡単に解釈して自分の勝手なタイミングで行っていっては形が泣きます。そこで先ずこの機とは一体どんな意味を有しているのか、国語的の解釈をしますと、機とは矢を発するところを言い、つるのバネ、ひとたび動く時は、直ちに発射するところから物ごとについて、ハズミ、カナメ、シオドキの意味に用いられている。そこで機を見るとは、きざしを知る、機会をさとると解釈出来ます。ですから剣道では上に立つ者も、下からかかる者も、勝つべき機を見つけることが大切であります。まして形の打太刀も仕太刀もそうでなければなりません。

さてこの機について一刀流では次のように言われています。機は時間と空間の変る急所のつぼであり、、永遠の、過去、現在、未来につながる時の上に一閃して現滅し、一つの機は、まばたく間に走り去る。この機が現れるのは永恒の時の上にある。只今である。いつでも好機は只今だと悟って厘豪の油断もなく、用意するのが機を逸しない心がけであります。機を捉えるのには神速、速妙に前方から迎えて好機に投ずるべきであって、後から追いかけるべきではないのです。一つの機は一度過ぎ去ると永久に戻ってこないが、又別の新しい機がくるからその機会をのがさずに捉えることを習わなければなりません。そのために組太刀の稽古で一本、一本ごとに勝つべき機を迎えて捉えることを学ぶのであります。

その機は相手の太刀筋の起り頭、堕勢、未勢、反動、居付など、その盛衰の変り目、呼吸の変り目などに、虚実転換の勝機として出てくる。その勝機は調子と拍子の中に旋律的に点滅する。それを打方と仕方の技の稽古で、ここぞと学びとるのです。切落の勝機、向い突きの勝機、鍔割の勝機、即意付の勝機を捉え、なるほどこれだと理解し、体得すべきであると教えられています。

次に形は稽古の如く、稽古は形の如くということは既に何回も述べてきましたが、私はいつもこれを念頭におきまして打太刀をやる場合は一刀流の教えに従って次の三つを心得て形を打っております。即ち
第一に、初心の仕太刀に対して打つときには、さあゆくぞと起りがしらをオーバーにして、きわどい所まで打つようにゼスチュアを示して打つようにして実は打たず、わずかな所ではずしてやり、お前の勝つべきところはここなんだと勝つ機を与えて打たします。
第二に、仕太刀が相当上達し、打ち間も判ってくれば、さあゆくぞと打つようにしてして本当に打ってゆきます。
第三に、同格ぐらいに熟達してくれば、打つそぶりを少しも見せず、サッと打って出ます。

このように打太刀(稽古に於ける元立ち)は仕太刀(稽古で下からかかってゆく者)の技能の度合いに応じて打ってゆき、それぞれ仕太刀(かかる者)の勝ちどころの機を与えるのであります。これが機を見て打ってゆく打太刀(元立ち)の心得でありまして、ただ仕太刀(下からかかる者)の技能の程度に関係なく打太刀(元立ち)が、いちように自分の調子で打ってゆくのは、機を見て打つという奥深い真意を解してないと言えるでしょう。このようなやり方では剣を交えて互いに人格を練るにはほど遠いと言わねばなりません。そして又この機は機に通ずという事を忘れてはなりません。

打太刀は常に自ら心気を振いおこして九歩の距離から既に発動し(ここから既に真剣勝負が始まっている)三歩前へ攻め進む、このわずかな間に仕太刀に対し打太刀に応ずる心気をいよいよ育てて打ち間に入るや気一杯の旺盛な打突の技を出して、これに応じて打ち勝つ機会を見い出させ、理に叶うほどよい塩合いで打たせ、勝つところはここぞと仕太刀に覚えさすのであります。(続く)
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№100(昭和62年10月31日)

2020年03月18日 | 長井長正範士の遺文


真剣勝負をしています。これが本当でしょう。又少し横道にそれましたが大事なことなので敢えて申し上げました。

次に日本剣道形の四本目、後の先で勝つ技ですが、八相、脇構から相打ちの瞬間、本能的に両剣がピタッと合ってしまうところ、これを一刀流の見地から申し上げますと、両者半身の八相、脇構から大きく振りかぶって面を打ってゆくのでありますが、この時は自然の勢いで両方の刃は真下でなく稍々左下になり、ハッとした瞬間、本能的に互いの左鎬で持ち合う漆膠の付となります。

これではどうにもならず両者鎬を削るような手の内で相手の意に即し(即意付で)乍ら、ずーっと正眼になり、云々・・・(以下省略)となっており、この理合を深く考えず、ただ漠然と大きく振りかぶり互いに正面を真向から刃を真すぐ下にして打ってゆき、互いに自分の調子で両者の頭の線上で止めており、そのまま中段のところまで下げている方をよく見かけますが、若し両者真すぐ刃を下にして打ち合いしたら、どちらもズバッと頭を本当に斬られています。だから自分の意志でとめているので、これでは形の理合に当てはまりません。このような斬り結んだ瞬間「カチッ」と鳴るところ、どんな古流の形でも皆同じく理合整然とした技になっておりますので、以上説明いたしましたところよくよく吟味体得して頂きたいのであります。

尚、蛇足ですが小野派一刀流の正眼の説明(一刀流極意の558頁にあり)で正眼を中段ともいう。と書かれていますが、これは上段、中段、下段と、はっきり区別したために正眼を中段に今は統一されていますが、厳密に言いますと一寸違うのであります。即ち構えた時の足は右足前、左足あと、従って右肩は自然に稍々前、左肩も自然に稍々後ろになっておりますので、自分の中心の「へそ」も少し左の方により、竹刀を握った左拳もそれに従って、稍々左の方になり、その状態で剣先を相手の左眼に向って構える。これを正眼と言っております。

この正眼で構えますと相手から一番近く斬られる右手を自然にカバーしている事になります。これ又人間の己れを守る本能から出た構えでありましょう。我々の竹刀剣道の構えもこの正眼でなければなりません。中段は日本剣道形の二本目の構えで剣先を真すぐ相手の咽喉元につけての構えでありますから、打太刀は真すぐ上から下で刃を下にして仕太刀の小手を打つことが出来るわけで、若し正眼なら打太刀は、かつぎ技のような格好で、斜め左の方から小手を打ってゆかねばなりません。(一刀流の裏切りの形は仕太刀が正眼でありますから打太刀はこのような打ち方をするのです)

もう少し説明しますと、両者中段でそのまま突き進むと互いにグサッと突きさされます。そうした中段の構えから二本目の形が構成されています。これからあと七本目までの剣道形は晴眼となっております。なぜみな中段と書いてないかお判りになりますように正眼(日本剣道形は晴眼、各流派によって、おなじ「せいがん」でも清眼、精眼、晴眼、青眼、星眼、等々書き表わし、夫々その構えの精神を言っている)で互いに突き進むと剣と剣がクロスしてグサッと突きさされません。これが前述のように人間の本能からくる自然体の構えであると思います。

又七本目の相晴眼で進んで打ち間に入った時の打太刀の胸部の突き方が仕太刀の剣を己れの左鎬で押え乍らグッと摺り込んでゆかなければ仕太刀の胸を突くことが出来ない理合がここに成立いたします。即ち打・仕共に晴眼で攻め進んでゆくところに意義があるのです。そして双方の剣先が稍々上がったところから相晴眼になるまでの漆膠の付の所大変大切なことは前述の項でよく味って下さい。以上で隋(ずい)を説明するため即意付、浮木をご説明申し上げ、これを通じて日本剣道形の要所を述べ一応これで終りたいと思います。次は№101から「機」ということについて申し上げたいと思っています。以上
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№99(昭和62年10月31日)

2020年03月17日 | 長井長正範士の遺文


〇浮木の補註
前回、相手が竹刀を叩いた時、右手の親指と人さし指の二つが主役で竹刀を握り、くるりと反動で廻すと述べましたが、この時、竹刀の廻る動きにつれて右手首を出来るだけ軟らかくして宅蹴るようにすることと、左手首は右手首より一層軟らかくして、これに従うのです。

尚、左手は己れを守る大事な手であるから、絶対中心から離れてはいけないから浮木の場合、ぐるぐる廻るということは良くないのじゃないかと疑問が生じますが、左手は竹刀の先がくるっと廻る円の大きさよりも遥かに小さく、へそ下を中心に廻るので、左右に極端に動くのではないですからかまいません。自分の中心を小さく、くるっと廻り、すぐ、ぐっと中心にして手を締めるのですから何等差支えありません。以上補足して申し上げました。

〇なお、漆膠の付、即意付は日本剣道形の中に含まれていること。
1)先ず初めに互いに抜き合わして蹲踞した時、打、仕共、剣先をピタッと着けなければなりません。これにはお互いに両手首を軟らかく、剣先をお互いに左へ軽く押さえます。くすることによって、剣先を通じ(※印を参考に)お互いの手の内を感じとり、ピタッと呼吸を合わせるところから形を始めなければなりません。

即ち打太刀が蹲踞から立ち上がるのを、ひっついた剣先を通じ仕太刀が感じとり打太刀に応じて立ち上がるのです。勿論指導の師の位の打太刀は仕太刀に呼吸を合わせる気も大切であります。これに対し、仕太刀も打太刀の呼吸を合わせて貰う、その心を感じとり乍ら打太刀に呼吸を合わせて立つのです。

それから構えを解いて後へさがるまでが、昔、真剣勝負をする前の儀式であります。生死を決する勝負であっても、お互いに礼をして前に進み、蹲踞或いは片ひざをつき(槍や薙刀のような)互いに会釈し、「いざいざ」と言うが早いか、お互いにサーッとさがった距離は地形、場所の広さ等の関係上一定しませんが、形はこの距離を九歩と決めて作ったもので、決斗は既に九歩から始っているわけで、竹刀剣道も稽古前に儀式としてお互いに礼をして前に進み蹲踞して立ち上がり(この時は竹刀の先が互いに触れない程度に)構えて稽古を始めるのでありますが、ここで考え違いしないように念のため申し上げておきます。

蹲踞から立ち上がるなりお互いに前に出て、竹刀と竹刀を交叉し、ひどいのになると中結革の辺までの近か間で攻め合いし、どこを打とうとか、こういけば、ひょっとして打たれやせんかとか迷い乍らポンポンとやっているのをよく見かけますが、これは剣道ではなく、しない競技であります。

なぜなら剣道には大切な間合があります。即ち攻めの間合から生死の間合に入るまでの攻め合いが剣道であり、それを生死の間合で攻め合って叩き合いするのは全くしない競技であります(しない競技なら間合がいらない、当てるポイントを稼げばよいのです)ですから本当を言うなら立ち上がるなり、サッと一歩ぐらいお互いに後へ引き、そこからジリジリと攻めると真剣身味が出て来、形の九歩とまではゆきませんが本物の剣道に入ることが出来ると思うのであります。

幸い今は蹲踞の時から剣先が触れない程度から始めるようになっており、誠に結構なことと思っております。近頃の時代劇の立ち回りを見ると、理に叶った剣法で我々は逆に教えられるのであります。新吾一番勝負で、いざ!と言ってスッと後へ引いてから(続く)

※戦前の軍歌に「とった手綱に血が通う」という名句がありますが、人馬一体の愛情の呼吸が手綱を通じて感じとるように。

番外)

〇真剣勝負の時、いざといってサッとあちへ引くのは人間の本能であります。恐いから下がるわけでもなく、自然に思わず身を守る本能が体全体を動かして無心で思わずさがりそこから勝負に出るものであります。

註)中結革が切れるのは本物の剣道ではないと言われている。
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№98(昭和62年10月29日)

2020年03月14日 | 長井長正範士の遺文


さてこの続飯(即意)付の心得で大切なのは肩から両腕全体をつかうのではなく、手首、手の内だけで味わうのです。もし両肘(第二関節から)から手首全体に力を入れ即意付のつもりでピタッと鎬をつけて攻め行くと、相手が手首堅しと見てとり急に剣を右下(相手側が右下に)に外すと仕太刀は手元が堅いからガクッと左斜め下へ上半身が崩れ、その刹那、打太刀はこれぞ幸いと逆に刃を返し仕太刀の首を斬るなり突くなり思いのままに仕太刀を仆す(たおす)ことが出来るから、前述のように手首を柔らかく、手首だけで相手の剣を先に押える。打方も己が剣を右に抑えて突きにくるから、これ又手首だけで軽く相手の剣を左に押えてさがるから、お互いの剣がピコピコと左右に揺れ動き、両鎬があたかも続飯でひっついたようになり、最後は打方がきらって無理に仕太刀を左下(打方から見て)に烈しく払い挫くので、仕方はこれに逆らわず、それをむしろ助け、ひっつけた剣をパッと低い姿勢の脇構えにはずす。このところが大事な勝どころであります。

この即意付は一刀流の組太刀の中で各所に出て来ます。その中で皆さんもやっておられる下段の付中正眼の即意付、切返しの攻め入る所等、各所に見られる通りであります。この「敵に従うの勝」でもう一つこれに関連して申し上げておきたいのは「浮木」であります。少々横道に入りますが、これは一刀流組太刀の傑作であり、私はこの「浮木」で、どれだけ竹刀剣道に役立っているか計り知れないほどいつも有難く思っておりますので、その大事なところだけを述べ、是非ともこの浮木を体得されるよう希望して止みません。竹刀剣道をやる前、準備運動として毎回やって頂きたく、手おぼえ、足おぼえ、体におぼえさせて頂きたいと思います。

〇浮木について、先ず構えた自分の竹刀を浮木と思って以下申し上げることを理解して頂きたいのです。水に浮かぶ丸太の原木を棒で突くとします。この場合、丸太の中心より右にそれて突いた時は丸太はくるりと右回りにくるくると廻ります。きつく突くと廻り乍ら水中に沈み、廻り乍らポカッと浮いてきます。これと同様に左の方を突くと丸太はくるりと左廻りに廻ります。きつく突くと左廻りし乍ら水中へ沈み、廻り乍らポカッと浮いてきます。両方とも突く力の度合いに応じて廻る速度、深さがはっきりと判ります。こんなことを何遍くり返しても同じことで遂には突くのに疲れ果てて相手は根負けしてしまいます。この浮木が自分の竹刀でありまして、相手が自分の竹刀を左右にたたいても、くるりとその力を利用して相手の中心(咽喉とか胸に)剣先をつけ、或いは一拍子で突き、何のこだわることなく浮上り乗っとるのであります。このように相手にこだわることなく、はずしては上に乗り、争わずして勝つ技であります。わが心を水とし、竹刀を浮木として乗ずるところが一刀流の秘伝ともいうべき大事な技であります。これを「争わずして勝つ上乗の太刀技である」と言われているのであります。浮木は真の真剣の理が篭っているのであります。

但しここで誤解のされてはいけませんので蛇足ですが、つけ加えておきますと、相手が竹刀を叩いて打ってこようとした時に、打たせまいと意を用い、剣先くるりと廻し、向かい突きしようとしたり、咽喉元に剣先を意識してつけて打たさないようにするのでは決してないという事であります。即ちこの浮木のように無意識にくるりと廻るだけで、そこには決して「叩かれたら中心を攻める」という意思など全然なく、手首が勝手に動き、思わず竹刀の先が相手の中心にいっている。この所が大事であることを知って頂き前述のように不断の稽古により無想の攻めを体得しなければならないと思います。浮木をやる手首の柔らかさは勿論大事ですが、私はこの時の両手首の廻す主役は右手の親指と人差し指の二つであることを発見しました。力学的に成立しますが、相手が自分の竹刀を叩くと、柄を握っている両手首を平等に軟らかく、くるりと廻しても、やはり両手で持つ柄の長さだけ廻すのに抵抗があります。それを右手の親ゆび人差しゆびだけで持ちこたえ、他の右手の三本の指、左手の握りの指、全体の握りの力を抜くと、叩かれた竹刀の柄の右親ゆびと人差しゆびの接点を軸として、くるりと廻るわけで、何等廻転を束縛する事なく速やかに廻ります。そしてあとの主役(廻るとすぐ)は左手五本と右手三本の指で締め、次に備えるわけです。従ってくるりと廻る主役と中心につける時の主役が交代する、この所が大切であり、これをやがては無意識に出るまで浮木を鍛錬するのです。説明不充分ですが大体のところお察し下さい。
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№97(昭和62年10月29日)

2020年03月12日 | 長井長正範士の遺文


〇隋ということについては本年8月28日の朝、お話致しましたが、忘れぬよう記録しておきます。この者にかかるのに全力を尽くしても少しも当たらず、止められ、はずされ、押えられ、手も足も出なくなる一方、上の者から、わが隙を難なく打たれ、突かれ、どうすることも出来ないものです。そして、そこが悪い、ここはこうせよと教えられる。その時、教えに従(隋)わず、我(が)をはって自己流に固執したのでは幾ら数をかけて稽古しても上達しない。とどのつまり、変剣や難剣になって、それで固まってしまい、本人はそれで強くなったと誤解し、人の頭を叩いて喜んでいる。

こうなると最早(もはや)堕落してしまい救いようがありません。思いあがりも甚だしいと言わなければなりません。そこで以前(№87)に申し上げましたように、剣聖内藤高治先生が還暦を迎え仰ったように「赤ずきん、三つ子となりて太刀わざ磨かん」と詠まれたことを思い、内藤先生さえも、これから益々赤子に帰って修行して行かねばならないと言っておられることを我々は恐懼(きょうく)感激して素直な赤ちゃんのような気持ちになって、先生の教え通り、そのまま我意をはさむことなく努力修行していかなければなりません。よくいう守、破、離の守であります。

この守の精神を一刀流で髄というのです。この「守」を生涯、心に体し、修行していけば自ら意識しなくても自然にいつしか「破」に到着することが出来るでしょう。これから考えますと「離」など、とんでもない深遠なものであることと頷けるでしょう。そこで先ずわれわれ一刀流を学ぶ者は「柔」であることと教えられてます。この「柔」は心身共すべて柔でなければなりません。一刀流の組太刀の稽古で隋の本旨を表現してあるのは即意付、乗身、浮木、巻霞、巻返し、順皮、抜順皮、等であります。

これ等の形は「柔よく剛を制す」で、これも以前に申し上げた大鵬が手の力を抜いて、よく相手をあしらい、巧くみに剛に出るその伸びきったところ、尽きた所を難なく勝どころとしている。ここが大変勉強になるところであります。すこし廻りくどい事になりますが大事なことなので「即意付」について申し上げておかなければなりません。

〇一刀流組太刀の五本目、脇構之付(即意付)
もう皆さんの大方は出来るようになりましたが、改めて詳細に申し上げておきます。但し、打方仕方の形のやり方は省略して大事なところだけ述べておきます。先ず打方が先に咽喉を突きにくるのを、向かい突きに突き出し、双方鎬で受けつけ、力が相均衡して離れない漆膠(しっこう=うるしやにかわで両剣をひっつけたように)の状態になることです。

その瞬間、仕方は打方の剣になずまず、その心を見きわめて圧迫し、互いの鎬の合うところの強弱変化、微妙な機を感じ合い乍ら、手の内の味わいを逃さず、固すぎず、柔らかすぎず、打太刀に仕太刀の心の糊をピッタリと続飯をもってつけたようにつけます。この続飯(ぞくはん=めしつぶでひっつけた有様をいう)→更に進んでは、そくいい=そくい=即意=相手の意に即し(即応し)乍ら、右にも左にも、上にも下にも、出ても引いても、強くても弱くても、微塵も、ずれることなく、くっつけて放さない。どこまでも打方の意に即して、つきまとい理詰めに攻めるのです。昔は各流派もそうですが敢えて片仮名や平仮名で書いて(漢字で書くと意味を察知されるから)他流に判らないようにしたのです。即ち、しっこうの付、そくはん(続=つらなる意あり)と書いたのです。(続く)
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№96(昭和62年10月27日)

2020年03月02日 | 長井長正範士の遺文


源氏物語がずっしり並んでいます。えんじ色の絣の着物(30年前のもの)がよく似合う。好きな物をいつまでも大切にする。蘭の鉢植が美しく咲いている。いつも同じ時刻に同じように水をやるとのこと。生命あるものは大切に、そしてもの言わないから、私は必ず食事の前に水をやるようにしている。

主人とは昭和5年に結婚、同い年。大体あの頃は同じ年令では結婚しないという通念があった。立派な青年であるから、妹の夫になるんだろうと何となく思い込んでいた。だから、大変自由に、こだわりもなく、ものが言えた。その事がむしろ主人の気に入って、明るい正直な娘だということで結婚を申し込まれた。以来ずっと自分が一つの仕事を続けられたのは主人のお蔭である。

ある時、主人に「私が一週間も出張して家を空ける、不自由をかけるから仕事をやめようか」と申し出た時、「お前さんが仕事がいやになったら止めたらええ」と言われて感激した。主人が結核でサナトリウムに入院した時、見舞いに行った。私はふと耳にした言葉「結核なんて食事を大切にしたら必ず直る」という事を決心し。食事の面倒をよく見ようと心に決めた。

源氏の講義はやり始めると13年かかる。その間、私は一回も欠講したことは無い。皆一所懸命聴いてくれるが、それ以上に自分として源氏の中に新しい発見をする素晴しさがある。紫式部が夕霧の巻の中で「同じ人間であるのだから、女と言えども自分の思っている事を言ってはいけない。ということは間違いである。」ということを言っている。即ち「自由」を叫んでいる。平安の昔に、式部が女性の自覚自由を主張した、何と素晴しい事かと大ショックを受けた。それから源氏を読むたびに式部の考えの深さを感じるのである。

主人は家で食事をするのが好きで、金婚の行事の後、ロイヤルホテルで食事をとろうと言ったら「いや家で食べたい」との事。それなら何もないが冷蔵庫に、たしかハモが一切あった筈だからと、早速道でトーフを買って帰り食べさせたら「ああ美味しい」と言って大きな切身を平げた。そしてこう言った。「お前さんはいい女房だ。1)医者の俺に聴診器を当てさせた事が無い。2)よく食べさせてくれた。3)俺が死んでも、後、一寸も心配が無い(お前には仕事があるから)だから感謝して死ねる」と。

翌朝主人は死んでいた。(心筋梗塞)その時私は涙が出なかった。万端終えて一人になった時、涙が出て来た。泣けるということは未だ悲しみに甘えていることである。本当に悲しい時は涙が出ない。老いて今後、本当に老いに厳しくなる。老いに甘えてはならぬ。と思う。60キロの体重を支える足だから、何れ弱って行くにちがいないが、自分に厳しく、電車を乗りついで、今日も講義に向っている。と 以上。

ほのぼのとした夫婦の愛情が言外の余情にしみじみ伝わってくるではありませんか。われわれこの老境に入るまで長年の間、剣道のため随分と家内達に迷惑をかけて来ましたのですから、今からでも遅くないと思います。お互いに母ちゃん孝行をして行こうではありませんか。村山ゆりさんは立派なお方ですが、ご主人はそれ以上立派な思いやりのある最高のお方だと思います。剣道は愛に目覚めるためのも、夫婦愛然り。妻に感謝を。この項終り
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№95(昭和62年10月23日)

2020年03月01日 | 長井長正範士の遺文


われわれは、この理想境に向ってあくなき修養に努めなければなりません。この切落の技を何回も何回も繰り返し修錬していきますと、体がおぼえてくれまして、一年の間に数回しか出ませんが、ハッとした時、心で打とうと思わないでも、手や足が勝手に動いて打突してしまっており、それが、ものの見事に相手の出がしらの技の時であった時、われ乍ら、びっくりし、後で何であんな技が出たんだろうと自分でも判らない技が出ることがあります。

即ち、思って打った技でなく、思わず出た技、これが本物でありましょう。更に心の問題については不動智に書かれてありますように、事に当って止まらない心、一心は動かない、身も亦動転しない、これを不動と申す。と言われています。その心は間髪を容れず、又石火の機を題して教えられているのであります。特に又“正心”(体全体に心を伸べて一方へつかないことをいう)と“偏心”を具体的に述べられ、われわれの大いに勉強になるところであります。

以下更に詳細にわたり、心の問題を述べておられますので、皆さんもよくよく熟読翫味(じゅくどくがんみ)し、心の資として修行して頂きたいのであります。要は、古流の切組の形を体得すべく、不断の修行してゆく過程において心が養われてくるのでありまして、机上の学問で心を養うことは、なかなか至難なことであることを自覚しなければなりません。

禅もそうで、まだ座禅をされていない方がありましたら、是非この際やって頂きたいのであります。そうすると、座禅は一見して静的修養と思われましょうが、さに非ず、私は大変苦しい体験をして来ております。例えが大変ピントはずれかも知れませんが、いつか一部の方にお話をしたことを、ここでもう一度皆さんに申し述べておきます。

私の竹馬の友、巽義郎君(№20に書きました親友)が

「舞台では軽快なジンタのリズムに合わせて自転車の曲乗りは続く。観客はその美技と、こころよいスリルに盛んな拍手を送っている。さて真の曲乗りとは、そんな技をいうのであろうか。スピードを極端に落して、一直線上を動くことである。ハンドルを曲げること無く静止することである。これ等は一見して困難な技には見えないが、自転車を安定させるために、どれほどの緊張感と力がいるか知れない。

このことを企業経営に当てはめて見れば、派手な経営にはさほど力はいらないが、地味で安定した経営を行うには予想も出来ない力がいるものである。演劇で殆んど動きのない役柄をこなすには、余程の修錬を積んだ役者でなければ出来ないであろうように、げに安定成長とは底力が必要で苦労が多い、然も辛棒のいることよ」

と大体以上のようでありますが、これが禅につながります。

これを要するに、心と肉体の緫合点を見出すため、剣道を修行するのであり、手で持った竹刀だけの打ち合いだけで強さを競うだけの剣道ではないことを理解して頂きたいのであります。剣は肉体の中に溶け込みひたすら心身一如の修養をする為の剣道であると教えて申し上げます。そしてあの五代目菊五郎が“まだ足りぬ、踊り踊りであの世まで”と詠んだように生涯続けていってもまだ足らないくらい深遠なものと思います。

〇今度は一寸話題を変えて。
私は日曜日の朝、特別の用事が無い限り、七時半からNHKの“お元気ですか”を見て、わが勉強の足しにしておりますが、本年の3月8日の日曜日に放映される、村山ゆり(84才)女子大教授(文学でノーベル賞の候補に上がった方)のお話を聞きたかったのですが朝から二ケ所の行事があり、代りに家内に聞いててくれと頼んで、あとで家内のメモを読んで大変感銘を受けましたので、それを書きとめておきます。村山より様は澤山の肩書があり、座の後ろには、村山ゆり著、(続く)
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№94(昭和62年10月23日)

2020年02月19日 | 長井長正範士の遺文


書いておきましたが、重ねて言葉をかえて要点を申し上げますと、何事にもとらわれない心で、静から動へと明鏡の如く、有りのままの姿として自然のうちに溶け込んでいくのでありますから、心は動揺もしないということになります。

然しこれは修養の足らない私自身としては程遠いもので、この心のことについては、昔、釋沢庵が禅学の見地から柳生宗矩に与えた「不動智神妙録」に詳しく、剣法と心法について述べられた剣心一致の極意をよくよく熟読翫味(じゅくどくがんみ) されることを望みます。

ただ私は私なりに、もう少し述べておきたいのは「剣は心なり」と言われていますが、これから発して「剣は人生に生きずいている」「剣は自然の中にあり」「剣は芸術なり」とも言えるのでしょうか。すべて世の中は剣の道で貫いている、と言いたいのであります。そこでこの心をどこでどうして養うかという事ですが、私はすべて切落しの精神で貫いている小野派一刀流の切組の形を体得する為、不断の錬磨をするのが何よりの近道と思っております。世にいう“百錬自得”とは竹刀剣道ばかり数をかけ百錬して剣道の心を体得するには余程の人でない限りむつかしいので、理に叶った古流の形をも同時に百錬して始めて大宇宙の眞理を具現するのが剣道であると悟るまで鍛錬して行かなければなりません。

前述の如く、形と稽古と車の両輪の如く百錬して自得するという心がけを言うのであります。我々は生涯かけてこの大目標に向って修錬して行かなければなりません。生命終るまで、これでよいということはありません。そう簡単に自己満足して答えを出すものではありません。死んでから、後に残った人々が本人の人格の答え、評価を出すものと自覚しなければなりません。

ただここで申し上げたいのは古流の形を不断の鍛錬して行きますと、手おぼえ、足おぼえ、無心のうちに体全体」でおぼえてくれます。私などまだまだ未熟ですが、門人に一刀流を指導する時に口で説明し乍ら形をやると途中で間違い、この形はどうだったのかな!と迷ってしまいます。そんな時は説明をやめて、黙って形をやりますと無意識にスムーズに出来るのです。即ち手足がちゃんとおぼえていてくれているのです。有難いことです。

形は打太刀を師と仰ぎ仕太刀が安心して勝たして貰うように作ってありますので、一本一本の形の名称に含まれている精神を理解し、ひたすら余念なく(打ってやろうとか、ひょっとして打たれやせんか等の迷いなく)形の約束に従って稽古出来ます。このところに体得の妙味が出てくるのであります。私は小野派一刀流の組太刀を打、仕共100本だけですが、ようやく形(かたち)だけ身につける事が出来ましたが、これを極めるには、まだまだ道は遠く生涯ものですが、竹刀剣道に、たまに思わず技が出ることがあります。そんな時は人知れず内心のよろこびは万金に価いするくらい感激で、その勢いをかって一層形のけいこに励みます。そしてつくずく形=肉体=剣=心が皆一つに帰すのだという事を思い知らされるのであります。

山岡鉄舟が無刀流の精神で江戸を大火から守った話は余りにも有名であり、無刀流の精神こそ人間最高の道徳でありましょう。然し、そこまで到達するには、やはり一刀流の切落の精神を組太刀の形で体得していかなければなりません。切落の精神が又禅につながっていきます。具体的に申し上げますと、一刀流組太刀の一本目の“一つ勝”の形は相手の打ってくるその剣を打落としざま一拍子で咽喉又は胸等を突く技で、相打ちであり乍ら、相手に勝つためには、その技の技術だけでなく、先ず、死にたくない、殺されたくない、負けたくないという、わが心を切落すところから始めなければなりません。そして心身共に切落が出来る境地に到達し、己れを捨てる無の境地に入ることが出来なければ剣禅一如の心境に入ることが出来るでしょう。(続く)
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№93(昭和62年10月23日)

2020年02月05日 | 長井長正範士の遺文


○剣道は心を肉体の総合点を見出すために修行するということ。
剣道は昔から心身の鍛錬と言われている通りですが、ただ単に心と肉体の鍛錬をするんだという漠然とした考えだけではその目的を達成することは出来ません。剣道でどの技のとき、肉体のどの部分を使い鍛えるのか、今迄一刀流組太刀の稽古で、その都度お話もし、又実際に体験して貰いました通りであります。

恩師笹森順造先生が嘗て(かって)お元気なとき、長正館の為、何か書いて下さいませんかとお願いしましたら、心よく数枚いろいろと小野派一刀流道場としての心がけを含んだ極意を書いて下さいました。その中に、長正館の為にと書いて“剣身不異”と書かれ「これを手拭に染めあげ、これをかぶり、いつも稽古の時の心がけとして下さい」と有難いお言葉を頂いたのです。この意味はあとから申し上げますが、その当時はまだ深く考えていませんでした。然し剣=心=肉体であるという事を私は私なりに解釈してゆきたいと思っております。

さて本論にかえりますが、ずっと以前№6に書いておきましたように、先ず一番大事なことは精神的な問題が肉体的にどのように影響してゆくか、はっきり知らなければなりません。之が為には形と稽古を車の両輪の如く修行して行かねばなりません。そこで先ず形から入って行くのであります。それも古流の形が良いのです。心身一如の修行はここから始まるのです。以前私が申し上げましたように小野派一刀流のご指導を頂いてから、足かけ18年になり、この古流の形を通じて日本剣道形の大切さも判って参りました。そしてこの形によって、理に叶った竹刀剣道はどうあるべきかを理解することが出来、一刀流をやっている間に、剣道に対する考えが全然変わって来ました。それまでは深い考えもなく、まして理合など研究もせず、一本調子であった事を思うと本当に慙愧に堪えません。

一刀流を習い始めた頃、吉田誠宏先生に言われて、がんと頭にひびいて眼が覚めたことを思い出します。「長井!お前、学校で何を習って来たんや、お前がやってるのは剣道では無うて、しない競技なんだよ。自分の調子で打とう打とうとばっかり思うてやっとる。それでは年いって体が動かんようになった時、決っと行きづまる。古流をしっかりやらにゃいかん。丁度幸い、小野君がお前のために、わざわざ東京からやって来て、一刀流を教えているが、有難いこっちゃ、と思うて一所懸命やれよ、俺もお前の知ってる通り、天眞正伝神道一念流(流祖は飯篠山城守家直)を親爺から受けついで毎朝励んでいるが、税関も時間の半分を使うて一刀流をやらせ、あとは切返し、かかりげいこでいいんじゃ」と。(以上は吉田先生の仰った、そのままの言葉です)

今にして思いますに、私は笹森順造先生、小野十生先生、そして小川忠太郎先生のご指導を頂いて、よくもこんな素晴らしい一刀流を習うたものだと、己れの幸せをうれしく思って、いつも度びある毎に、先祖様に感謝しておるのであります。話は一寸横にそれましたが、心身一如の修行とは形と剣道の技と一如の修行するということに外ならないのであります。即ち「稽古は形の如く、形は稽古の如く」のようでなければなりません。ただ単にしない剣道ばかりでもいけないし、と言って形ばかりやって理に走って、実際の剣道の実力が伴はず未熟で、変な稽古をするようでは何もなりません。故に剣道では事理一致の大切さをよく言われるのであります。事とは単的に言いますと剣道では技で、理は、大きくいうと、天地自然の筋道に合った理想の概念であり、すべて古流の形の中に含まれております。この事理が車の両輪の如く一如でなければなりません。そこで古流の形について、もう少し深く入って行きますと、心という問題が浮かび上って来ます。心については既に№61~62に(続く)
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№92(昭和62年10月2日)

2020年02月04日 | 長井長正範士の遺文


早く手当をしなければ死んでしまう恐れがある。私はこんな時は必ず本人の眼を見るのです。あの時の車夫の眼をみると、黒眼が稍上(やや上)だと背中、黒眼がうんと上になって、殆んど白眼になっていたら頭、黒眼が大分下になっていたら腰を打っているというふうに、打ち身で気絶する瞬間、必ず打った部位に本能的に黒眼がゆくのです。だから先ず黒眼を見てその方向の体の部位を見極めてその部位に活を入れれば気絶者は必ず息をふき返すのです。と教えてやった。医者は良い勉強をさせて貰ったとお礼を言って帰った。という話だ。

以上、先生のお話を承ったが私(長井)も大変勉強になった次第です。ただここでおことわりしておきたいのはこの生活死活も未熟者が見よう見まねでやって貰うとかえって人命を落とす結果にもなりかねないので、あえて細部の方法を省略させて頂き度くこの点何卒諒せられよ。以上で活を入れるお話は終りますが引続いて吉田誠宏先生に関することを述べておきます。

○吉田誠宏先生のお人柄を大変慕っておられた関大の広岡教授(英語の先生であり乍ら、いつも紋付き羽織姿でいらっしゃった愛国精神に満ちた立派なお方で私も可愛がって頂いた方)が、折にふれて次のような歌をつくられて吉田先生に書いて渡された。そしていつも広岡先生は遠慮されてか歌の冒頭に「お座興に」と書かれた。

“君恩を 神の恵みと剣道を 説き給いつつ 吉田師範は”
“波乱多き八十八年の祝賀の日、尚、剣を説きつつ笑みていますなり”
“米寿なかなかに得がたきものよ、尚かくしゃくと吉田師範の腕の太さよ”
“わが身をば人に打たせて教うるは、つるぎの道の慈悲とこそ知れ”
“ど阿保どあほとどなれれつつも、甚六のめんめん育ちぬ人の世のため”
以上が私が同席した折り拝見したお歌でした。

吉田先生が関大の剣道師範の頃、教えられた剣道部の連中が卒業後もずっと吉田先生の人柄にひきつけられ、どあほ、どあほとどなられ乍らも先生に仕え自ら甚六会(甚六とか宿六とか言って役にたたぬろくでなしの者の意)と名のり、吉田先生亡きあとも十数名結束して今でも先生の道場に集まり会合している。

これをしても吉田先生の関係は亡くなっても先生の精神は脈々として生き続けている。言葉で言い表わせない不思議な大きな力を感ぜずには居られない。今は吉田先生の門下生として筆頭であった松本敏夫先生も既に亡くなられ一番末端の弟子である私は非常な打撃を受けましたが、これからも折りにふれて先生の御徳をしのびつつ、ありし日の先生の教えを書きとめて行きたいと思っております。

○いつか吉田先生が仰ったが、笹川良一氏がテレビで広告をやっているが、あれが武道の本質なんだよと。私は今まで漠然としか見てなかったのですが、ハッと気がつき武道の本質なるものを教えられた気がしました。又、吉田先生がお元気なとき京都大会にはいつも出席され上の先生方の特別試合を観られ、私にいちいちその良いところ、学ぶべきところを理論整然として語られ指導して貰い大変勉強になったものです。中でも松本先生と玉利先生の特別試合をご覧になった時は涙ぐみ「長井、判るか文句なしに最高の立派な試合をしてくれた」と私に言ってあとは絶句され何遍も溢れる涙をふいておられた事を今も尚私ははっきりおぼえています。以上

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№91(昭和62年10月2日)

2020年01月28日 | 長井長正範士の遺文


○「十字を切っても九字は切るな」ということ。
十字を切るというのは、キリスト教徒が神を念じる時、手で胸に十字を描くことをいう。
九字を切るというのは、兵(いくさ)に臨んで斗う者は皆「臨兵斗者皆陣列在前」の九字を唱えて、指で空中に、縦に四線、横に五線を書いて、神秘の威力を発揮し、どんな強敵でも恐れるに足らぬという護身の秘呪として用いた。これは元、道家に行われ、後に陰陽(おんよう)道に用い、又密教の僧、修験者、忍術家などが用いたのである。以上、極言せば、十字を切ることは良いことだが九字を切ったら相手を殺すことになるから、九字を切るなということである。

○昔、活殺時代があった。これは九字を切らず相手の急所を突いて気絶(仮死)させ、首をしめて殺した。然し又、これに反し、気絶している者に当身(あてみ)を入れ、活を入れて活きかえらした。われわれ剣道を修行する者は前項の十字を切る精神と、人を生かす活の入れ方を研究することも大事だと思う。昔は活の入れ方は免許皆伝でなければ教えなかったそうである。現在は昔のような、きつい体当たりをして相手を倒したりすることが少なくなったので、その必要は殆んどなくなったが、昔は体当たりや、向い突きげいこをやって、よく気絶した者もあって、活の入れ方が大切であった。

この当身について、昔の天神真楊流柔術では次のように説明している。これは当身の部位、及びその内部に慈している内臓の位置、名称、他の臓器と関連したその機能、等について解明を加え、当身の理論を体得させようとしたものである。ここに選ばれた当身は、地の巻から松風(喉の当て、陽の位)、村雨(咽の当て、陰の位)、烏兎(両眼)の三つ。天の巻からは雷(肝の腑)、月影(肝)、雁下(両乳)、明星(大腸、膀胱の二府)の四つ、計七つについて説明されている。尚詳しくは株式会社同朋舎出版の「日本武道体系」第六巻448頁~450頁に掲載されているので見て戴きたいと思います。ここでは省略させて頂きます。さて、この活を入れることについてお話された吉田誠宏先生に登場して頂きます。

○吉田先生のお話
これは四国での話だが、馬車の車夫が気絶している所へ私が通りかかって見ると、道端の群集はただ何のなすところがなく、ただわいわいと騒いでいる。医者を呼びに行ったらしいのだが遠いので、なかなかやって来ない。私はすぐさま手当てをしなければと見ると馬が暴れて、荷車が腹を轢いたらしい。それも水月近く轢いて気絶していることが判ったので直ちに水月に対する活を入れたら息をふきかえした。その時やっと医者が人力車で来たので、私は医者に水月で気絶しているから水月に活を入れたと説明すると、医者はびっくりして初めて聞いた。詳しいことを是非教えてほしいと言うので私は今夜小松島のこれこれという旅館で泊まることになっているから私はかまわんから夜でも尋ねていらっしゃいと言ってそこを去った。夜になって医者がやって来たので教えてやった。貴方(医者に対して)は、外傷として医学的見地から治療されるだろうが、あのような場合は一刻も(続く)
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№90(昭和62年9月11日)

2020年01月15日 | 長井長正範士の遺文


○9月15日「敬老の日」を迎えるに当って
これは新聞にも載っていましたが、なかなか良いことを言ってあるので皆さんに私見を混じえてお話しておきます。
此頃、ワープロやパソコン、テレビ、その他電器製品が次々と新製品が発売され、市場に出廻ると、今迄もてはやされたものが、忽ち古い製品となって値打ちが無くなってしまう。然し盆栽や美術工藝品など良いものは、古くなるほど益々価値が出てくるように、われわれ人間も年をとるにつれ、価値ある立派な人物になる不断の修養が大切である。あのキリストや釋迦のように、今尚、いや永遠に偉大であり、光を放っているように。

ところで「老」という文字ですが、この老は、ただ「古い。衰える。としより」という意味だけでなく、「位の高い人」「深い経験を積んだ品格のあるすぐれた人」という意もあることを忘れてはいけません。昔、江戸時代の重要な役職を「大老。老中。家老」などと呼んだことがこの事を示しています。あの寛政の改革を行った松平定信が老中の筆頭の座に就任したのは僅か三十才の時でした。このように「老」はただの年寄りだけの意ではない事がよく判ります。中国では学校の先生を「老師」と呼びますが、これとて、年寄りの老先生だけをそう呼ぶのではなく、若い先生に対しても「老師」と敬称をつけるのです。

さて、来る九月十五日の敬老の日ですが、ただ単にお年寄りを敬うだけでなく、多少お若くとも立派なすぐれたお方をも心新たにして敬う日であるという事を私は念頭において、己れのよき反省の日としております。この意味あいに於いて、私は手紙を出す時、剣道の先生方は勿論何々先生と書きますが、剣道家以外の先輩、友人、又平素私の後輩であっても立派なお方は皆等しく「老師」「老大人」又「老漢」等と書き敬意を表わします。最近では「敬老」精神がうすらぎ「軽老」にもなりかねない時代になってきているような気がして大変淋しい思いが致します。ここにおいてわれわれ剣道を修行する者は、年老いて益々磨きのかかった立派な人間に成長してゆくよう剣道即実生活の実を挙げて終生修養を積み重ねていかなければならないと思うのであります。 この項終り

○ウイリアム・アーサーは教師の段階を次のように言っている。
1)凡庸な教師はしゃべる。
2)良い教師は説明する。
3)すぐれた教師は示す。
4)偉大な教師は心に火をつける。と。
立派な格言でわれわれ少年剣道の指導に当る者にとって大変勉強になる戒めと反省しております。

○人間は生まれた時は肉体が先で、精神はあとだが、凡人は精神が先に死に、肉体はあとから死ぬ。立派な人は肉体が先に死に、精神はあとから死ぬ。虎は死んでも皮を残す。人死んで何を残すか、名を残し流れを残す。私は小野派一刀流を大阪いや関西一円に残す責任がある。これがために、東京からわざわざ小野十生先生が道場に来られ、私に指導されたのである。その当時、笹森順造先生の道場へ小野先生につれて行って貰い、格別の温かいご指導とお励ましの言葉を頂き、今も尚、私の耳の奥底に、ありありと残っている。それは「長井さん、小野先生の意図を良く体し、しっかり一刀流を身につけ、先生のご恩にお応えして大阪はもとより関西一円に正しく広めて下さい」と笹森先生の温顔からほとばしるおやさしい中にも凛としたお言葉に、私は感激の余り眞赤になり涙ぐんで「ハイ!有難うございます」とそれだけを申し上げるのが勢一杯だりました。偉大なるは笹森順造先生と感銘を受け、私はこのすばらしい一刀流との出合いにつくずくと、わが先祖に感謝し、それ以来、小野派一刀流を日夜励み、今日に至っております。以上
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