稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

№92(昭和62年10月2日)

2020年02月04日 | 長井長正範士の遺文


早く手当をしなければ死んでしまう恐れがある。私はこんな時は必ず本人の眼を見るのです。あの時の車夫の眼をみると、黒眼が稍上(やや上)だと背中、黒眼がうんと上になって、殆んど白眼になっていたら頭、黒眼が大分下になっていたら腰を打っているというふうに、打ち身で気絶する瞬間、必ず打った部位に本能的に黒眼がゆくのです。だから先ず黒眼を見てその方向の体の部位を見極めてその部位に活を入れれば気絶者は必ず息をふき返すのです。と教えてやった。医者は良い勉強をさせて貰ったとお礼を言って帰った。という話だ。

以上、先生のお話を承ったが私(長井)も大変勉強になった次第です。ただここでおことわりしておきたいのはこの生活死活も未熟者が見よう見まねでやって貰うとかえって人命を落とす結果にもなりかねないので、あえて細部の方法を省略させて頂き度くこの点何卒諒せられよ。以上で活を入れるお話は終りますが引続いて吉田誠宏先生に関することを述べておきます。

○吉田誠宏先生のお人柄を大変慕っておられた関大の広岡教授(英語の先生であり乍ら、いつも紋付き羽織姿でいらっしゃった愛国精神に満ちた立派なお方で私も可愛がって頂いた方)が、折にふれて次のような歌をつくられて吉田先生に書いて渡された。そしていつも広岡先生は遠慮されてか歌の冒頭に「お座興に」と書かれた。

“君恩を 神の恵みと剣道を 説き給いつつ 吉田師範は”
“波乱多き八十八年の祝賀の日、尚、剣を説きつつ笑みていますなり”
“米寿なかなかに得がたきものよ、尚かくしゃくと吉田師範の腕の太さよ”
“わが身をば人に打たせて教うるは、つるぎの道の慈悲とこそ知れ”
“ど阿保どあほとどなれれつつも、甚六のめんめん育ちぬ人の世のため”
以上が私が同席した折り拝見したお歌でした。

吉田先生が関大の剣道師範の頃、教えられた剣道部の連中が卒業後もずっと吉田先生の人柄にひきつけられ、どあほ、どあほとどなられ乍らも先生に仕え自ら甚六会(甚六とか宿六とか言って役にたたぬろくでなしの者の意)と名のり、吉田先生亡きあとも十数名結束して今でも先生の道場に集まり会合している。

これをしても吉田先生の関係は亡くなっても先生の精神は脈々として生き続けている。言葉で言い表わせない不思議な大きな力を感ぜずには居られない。今は吉田先生の門下生として筆頭であった松本敏夫先生も既に亡くなられ一番末端の弟子である私は非常な打撃を受けましたが、これからも折りにふれて先生の御徳をしのびつつ、ありし日の先生の教えを書きとめて行きたいと思っております。

○いつか吉田先生が仰ったが、笹川良一氏がテレビで広告をやっているが、あれが武道の本質なんだよと。私は今まで漠然としか見てなかったのですが、ハッと気がつき武道の本質なるものを教えられた気がしました。又、吉田先生がお元気なとき京都大会にはいつも出席され上の先生方の特別試合を観られ、私にいちいちその良いところ、学ぶべきところを理論整然として語られ指導して貰い大変勉強になったものです。中でも松本先生と玉利先生の特別試合をご覧になった時は涙ぐみ「長井、判るか文句なしに最高の立派な試合をしてくれた」と私に言ってあとは絶句され何遍も溢れる涙をふいておられた事を今も尚私ははっきりおぼえています。以上

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