稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

№93(昭和62年10月23日)

2020年02月05日 | 長井長正範士の遺文


○剣道は心を肉体の総合点を見出すために修行するということ。
剣道は昔から心身の鍛錬と言われている通りですが、ただ単に心と肉体の鍛錬をするんだという漠然とした考えだけではその目的を達成することは出来ません。剣道でどの技のとき、肉体のどの部分を使い鍛えるのか、今迄一刀流組太刀の稽古で、その都度お話もし、又実際に体験して貰いました通りであります。

恩師笹森順造先生が嘗て(かって)お元気なとき、長正館の為、何か書いて下さいませんかとお願いしましたら、心よく数枚いろいろと小野派一刀流道場としての心がけを含んだ極意を書いて下さいました。その中に、長正館の為にと書いて“剣身不異”と書かれ「これを手拭に染めあげ、これをかぶり、いつも稽古の時の心がけとして下さい」と有難いお言葉を頂いたのです。この意味はあとから申し上げますが、その当時はまだ深く考えていませんでした。然し剣=心=肉体であるという事を私は私なりに解釈してゆきたいと思っております。

さて本論にかえりますが、ずっと以前№6に書いておきましたように、先ず一番大事なことは精神的な問題が肉体的にどのように影響してゆくか、はっきり知らなければなりません。之が為には形と稽古を車の両輪の如く修行して行かねばなりません。そこで先ず形から入って行くのであります。それも古流の形が良いのです。心身一如の修行はここから始まるのです。以前私が申し上げましたように小野派一刀流のご指導を頂いてから、足かけ18年になり、この古流の形を通じて日本剣道形の大切さも判って参りました。そしてこの形によって、理に叶った竹刀剣道はどうあるべきかを理解することが出来、一刀流をやっている間に、剣道に対する考えが全然変わって来ました。それまでは深い考えもなく、まして理合など研究もせず、一本調子であった事を思うと本当に慙愧に堪えません。

一刀流を習い始めた頃、吉田誠宏先生に言われて、がんと頭にひびいて眼が覚めたことを思い出します。「長井!お前、学校で何を習って来たんや、お前がやってるのは剣道では無うて、しない競技なんだよ。自分の調子で打とう打とうとばっかり思うてやっとる。それでは年いって体が動かんようになった時、決っと行きづまる。古流をしっかりやらにゃいかん。丁度幸い、小野君がお前のために、わざわざ東京からやって来て、一刀流を教えているが、有難いこっちゃ、と思うて一所懸命やれよ、俺もお前の知ってる通り、天眞正伝神道一念流(流祖は飯篠山城守家直)を親爺から受けついで毎朝励んでいるが、税関も時間の半分を使うて一刀流をやらせ、あとは切返し、かかりげいこでいいんじゃ」と。(以上は吉田先生の仰った、そのままの言葉です)

今にして思いますに、私は笹森順造先生、小野十生先生、そして小川忠太郎先生のご指導を頂いて、よくもこんな素晴らしい一刀流を習うたものだと、己れの幸せをうれしく思って、いつも度びある毎に、先祖様に感謝しておるのであります。話は一寸横にそれましたが、心身一如の修行とは形と剣道の技と一如の修行するということに外ならないのであります。即ち「稽古は形の如く、形は稽古の如く」のようでなければなりません。ただ単にしない剣道ばかりでもいけないし、と言って形ばかりやって理に走って、実際の剣道の実力が伴はず未熟で、変な稽古をするようでは何もなりません。故に剣道では事理一致の大切さをよく言われるのであります。事とは単的に言いますと剣道では技で、理は、大きくいうと、天地自然の筋道に合った理想の概念であり、すべて古流の形の中に含まれております。この事理が車の両輪の如く一如でなければなりません。そこで古流の形について、もう少し深く入って行きますと、心という問題が浮かび上って来ます。心については既に№61~62に(続く)
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