渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ガンシューティングの基本 ~マスターアイと両目開き~

2024年08月09日 | open



先日、飲みに行ったらお店の
女の子が最近東京マルイのガ
スガ
ンを買ったと言う。(ガ
バ系)

店のオーナー家族はじめ、店
員さ
んたちもサバゲはまりま
くり
のアメリカンバーなのだ
が、その子は特
にサバゲイン
ドア戦が大好き
なのだそうだ。

無課金おじさんの話題になり、
なぜ両目開けているのかと尋
ねられた。
小銃もハンドガンも、撃つ時
には両目は開けているのが基
本というのを教えた。
その子はずっと片目つぶって
ガスガンを射撃していたそう
だ。
スコープを使う射撃以外は、
静止標的射撃だろうと戦闘
射撃だろうと両目は開けた
ままで照準するのが基本だ。
「え~?どうやるんですか?」
というので、両目開けてマス
ターアイを標準に合わせる方
法を教えた。
これは簡単。指伸ばしででき
る。
また、ハンドガンや小銃でも
左右の持ち替えスイッチショ
ットでは瞬時にマスターアイ
を左右移動させて射撃するの
も伝えたが、それはなかなか
難しかったようだ。
じきに覚えるだろう。
人にはマスターアイ=利き目
があるが、それは固定的では
なく瞬時に逆の目に移動させ
る事が可能だ。
ビリヤードでも利き手しか使
えない人は、逆手で不慣れと
いうよりもマスターアイの
瞬間移動ができないからだ
ろう。

ビリヤードではクラスA級
程度の練達者であるならば、
誰でも左右どちらでも同じ
ように撞ける。


このマスターアイの瞬間移動
ができないと、ビリヤー
ドで
の左右スイッチショット
や野
球でのスイッチバッティ
ング
や定点ではない動的射撃での
スイッチ
ショットが不能とな
る。
特に実戦射撃では遮蔽物を防
御に使う場合は、左右のスイ
ッチができないと命取
りにな
りかねない。

これらは米国ではコンバット
シューティングとして1970
年代初期から技法が開発整理
され
てきた。軍用だけでなく
ポリスアカデミーでも教えら
れるようになった。
日本に初めてその
技法を紹介
したのは歴史的にはウエスタ
ンアームズ社会長の国本圭一
氏だ。

私は中学の頃に選手だったバ
スケットでも左右どちらでも
状況によりシュートしていた
が、バスケの場合も当然両目
は開けている。
スポーツで片眼をつぶるもの
は殆ど無いのではなかろうか。
それはスポーツ射撃でもそう
だし、武道の弓道でも片目で
は矢を射らない。
両眼を開く理由は人間の能力
として空間把握をするためだ。

実は、オートバイや四輪車の
運転でも人は両眼を開ける。
これは視野の範囲だけでなく
重要な空間把握を得る事を
自然にやっているからだ。
なお、四輪車のように前のみ
を主軸に見るのではない二輪
の運転の場合は四輪とは異な
る眼の使い方をする。
それは右コーナーの時には
コーナーのイン側に視線を
向け、点を見ずに全体の先を
見ながら深くバンクさせて
二輪は旋回する。
そして左コーナー。
実は、右コーナーの時には
左目をマスターにさせて二
輪乗りは見ている。
左コーナーの時には右目を
マスータアイにして。
無意識のうちに二輪上級走者
はマスターアイをスイッチさ
せているのだ。
多くの人が「右コーナーが
苦手」というのは、旋回技術
の巧拙以前に、利き目が右で、
右旋回の時もマスターアイを
上手く移動できない為に違和
感が発生するのではなかろう
か。これはあくまで推測だが。
このアプローチでの解析を
解説した人はこれまで見た事
がないが、かなりスポーツ医
学的には外れていないと思う。

マスターアイの瞬間移動は
腕を伸ばして指を立てての
訓練で簡単にできる。
指を立てて、なにかの標的に
向けて、それを見るのだ。
まず片目で。そこで両目を開
く。
指は二つ見えるがマスター
アイできちんと視線の軸線上
に標的が重なっている筈だ。
そしてそのまま、二つ見える
指先の外れているほうで照準
を合わせる。
やりにくかったら、今度は
逆の目を片方つぶって再照準
する。
これを両目開いたまま瞬時に
移動できるようになると、
マスターアイのスイッチの
要領を体得した事になる。

実は二輪運転者はバンク旋回
の際に、左右でマスターアイ
をスイッチさせている。
これは殆どの人が無意識で
やっている筈だ。
右に左にヒラヒラと切り返し
ができる人たちは。
そして、その要諦は、「ピン
ポイントで物を見ない」とい
うのが高速走行や円滑な快速
走行での要点となる。
換言すると、二輪走行上級者
たちは、一ヶ所を凝視せずに、
ボウッと全体をぼんやり見て
いるのだ。これほんと。
全体を眼球からの情報で空間
把握して認識しているのであ
る。
なので、初心者が上級者に
「走る時、どこを見てるので
すか?」と質問したら、大抵
の上級者は「どこも見ていな
い」もしくは「一点は見てい
ない」とか「見てるようで見
ていない」や「全体を見てる」
と答える事だろう。
目の付け所とはいうが、二輪
走行上級者は一点を凝視せず
全体を空間把握するような
走行進路の見方をしているの
だ。
そして、慣れると200km/hで
走行していようが、路面の
染みや皺まで見えるように
なる。これまたホント。
人間の能力は元来かなり高い
のだ。
それを磨くとさらに高くなる。
二輪の走行は「人間力」で
実現させるものであり、機械
が人間を運ぶのではない。
運転するのは人間であるのだ
から、その人間の能力の優劣
や如何によって走りも当然
規定されてくる。
人間力を磨けば走行の質も
向上するのはごく当たり前
の物理的な結果だ。
磨けば必ず輝く。
ただし、自覚が皆無だと現状
に留まって人間は全く進歩し
ない。
スポーツというのは、そうし
た人間の能力練磨の成果が
如実に現れるので、観戦競技
として成立する。人と人の
磨いた能力のぶつかり合い
となるからだ。
これが、凡庸な低レベルでの
対決だとしたら、観るほうも
かなりつまらなくなるだろう。
スポーツは高度な技術とそれ
を獲得した人たちによって
正々堂々とした真っ向勝負
が展開されるから面白いし、
そうした領域に人間が到達
するために真剣に努力する
事に意義がある。


オートバイにしても、自分を
見つめて、何をどうすれば
もっと良くなるか、という
向上心が無ければ、死ぬまで
何も上達はしない。
オートバイという乗り物は、
乗る事自体にスポーツ性が
存在するので、その点は自覚
を持たないと、危険さえも
誘発しかねない。
「単なる移動手段の乗り物」
としてしまうと、二輪車は
とても危険な乗り物なのだ。
バイクは考えて乗る。
そういう乗り物。
そして、考えを深めず、自分
を見つめない「どうでもええ
ねん」というように意志が弱
い者が二輪に
乗っているのを
見ると、ほぼ
100%話になら
ない程にド下
手くそだ。これ
またホント。
下手なのは勝手だが、それが
公道を走るとなると、かなり
危険を世間にふりまいている
事になる。が、自覚は当然無
い。

どんなジャンルでも自己切開

しようとしない人間は、何を
ってもダメダメの駄目だ。







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