渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

エディ・ローソンの歴史的功績

2024年06月23日 | open

【伝説の男】WGP500の強者
と戦い抜き、4度のワールド
タイトルを獲得したアグレッ
シブ・エディーローソン。
YZRからNSRにマシンをスイッ
チした1989年、現役引退後も
なお、燃え続ける魂。


1980年代初頭、カワサキから
ヤマハに移りGPデビューした
ローソンは「与えられたマシン」
で戦績を重ねワールドチャン
ピオンになった。
マシン開発とセッティングは
ケニー・ロバーツも乗った
河崎さんと平さんの開発マシ
ンだった。
だが、1989年にホンダに電撃
移籍したローソンは、曲がら
ないホンダのマシンに徹底的
な魔改造を施した。ハンドリ
ングを追及する世界の王者ヤ
マハスタイルで。
ホンダはそれまでフレディの
マシンのみフレディ仕様で
他のマシンとは方向性が違っ
ていた。フレディ以外操れな
いマシン。
他のホンダ車もそれには準じ
ていた。特殊な乗り方をしな
いと曲がらない最悪ハンドリ
ングマシンだ。
1989年、エディ・ローソンは
ホンダに移籍し、フレディ・
スペンサーもまた引退から
急遽カムバックし、衝撃的な
ヤマハへの移籍を発表した。
だが、フレディがWGPのトッ
プを走れたのは開幕戦鈴鹿の
スタート直後のみだった。
体調(腕の故障)が完全に復
調していないのと、ヤマハの
セッティングに苦しんだフレ
ディは毎回5番手あたりを走
行し、トップを争えず、シー
ズン途中でチーム監督のアゴ
スティーニにより解雇された。
一方、エディ・ローソンは堅実
にマシンを大改造してヤマハ
のエースであるチーム・ロバー
ツのウェイン・レイニーや
新進気鋭のケビン・シュワンツ
等を抑えてまたもや世界チャン
ピオンに輝いた。
そのクレバーな走りは確実に
師匠ケニー・ロバーツ譲りだ
った。
1983年にはまだ新人だった為、
ケニーを追撃するフレディの
阻止線役を果たせず、チーム
としても選手としてもヤマハ
はホンダに敗北した。
それによりケニーは引退した
が、本当はまだ走るつもりだ
ったところ、ヤマハとの折り
合い
の関係でケニーは引退した。

ローソンはその後順調に実力
をつけ、4度も世界チャピオン
に輝いた。
クレバーなステディ・ローソン
とよばれた沈着冷静な走りが
彼のスタイルだった。後年の
250の原田哲也選手がローソン
のスタイルに似ている。ケニー
型だ。
GP史上最もガッツある熱い走り
を見せたのはケビン・シュワン
ツだった。
優勝でゴールを飾った時に、
走りながらマシンの上に立って
両手を上げて喜びを表現したの
は史上シュワンツが初めてでは
なかろうか。

1989年以降、ホンダのマシンは
激変した。
ヤマハ同等のグッドハンドリング
をワークスマシンが初めて得たの
だった。
以降、ホンダは本当の意味で無敵
となった。
ガードナーさえも無しえなかった
グッドハンドリングを手にしたか
らだ。エディによる15種類のシャ
シのテスト開発と総合的な車の
見直し=開発の功績は極めて大き
い。

だが、連勝王者ヤマハ、王者復活
を10数年ぶりに狙うスズキも黙っ
てはいない。
かくして、1990年代は1980年代初
頭に開始されたHY対決にスズキが
割って入る3社激戦時代になるの
だった。
WGPの名勝負は1980年代に集中
しているが、群雄割拠でまるで
乱戦に次ぐ乱戦で世界中を沸かせ
たのは1990年代のGP500だったと
いえる。
それまでは考えられないような
まるで125か250のようなトップ
数台での大バトルが毎回世界各地
で繰り広げられたのだ。
それはもう見応えがあったし、
人気も頂点だった。
かのNHKでさえ「世界二輪選手権」
と称して世界グランプリを生放送
するような時代になったのだった。
エディ・ローソンの功績は偉大だ。
レシプロ戦闘機の空戦の巴戦のよ
うな走りをできるようにホンダの
マシンを大変身させたのだから。
ホンダマシンがようやく1989年に
「曲がる・止まる・走る」という
車になって、初めてハンドリング
のヤマハ、伝統のスズキと対等に
バトルファイトができるようにな
った。
それまではエンジンパワーで突き
抜けて引き離しての勝ちパターン
しかできないのがセオリーだった
のだが、コーナリングでヤマハに
対等勝負ができるようになったの
は、エディ・ローソンのおかげだ。

だが、時代は4ストマシン時代と
なり、ホンダはGP史上最高傑作の
RC211Vという名機を作った以降、
どんどん開発が低迷し、今度は
かつての曲がらない車だけでな
く、世界チャンピオンが乗って
も転ぶ車しか作れなくなった。
そして、右へ倣え現象でヤマハ
もスズキも同方向の車になった。
結果、現在は日本車は世界選手権
最高峰クラスでは全世界で最後方
しか走れなくなった。転ぶ車なの
だから誰も走れない。
数値データのみで車を作っている
開発者本人がツナギ着て乗って
みろ、と思うが、とにかく地球上
で一番速く何度も世界一になって
いる人間が乗っても転ぶ車。
そして、かつての日本車のテイス
トを研究模倣していたが日本車
には追い付かなかったヨーロッパ
車が現在は上位を占めるように
なった。

日本は開発ライダーをクビにして
机上空論で車作りをするようにな
ってからは、転ぶ危険車しか作れ
なくなった。
だが、見直しはしない。
己の近年の道間違いを認識して
正しい道に戻ろうともしない。
これでは登山で道迷いで滑落
死亡するのと全く同じだ。
エディ・ローソンの歴史的功績
も過去のものとして薄れて行く。
ローソンが初めてホンダのGP
マシンに乗った時の第一声は
「このマシンは俺を殺す気か?」
だった。
それほど、ヤマハに比べたら乗
れたものじゃないひどいハンド
リング、シャシフレームだった
のだ。
だが、ローソンによりホンダ車
はバトルマシンに激変した。
ホンダは、今こそ、あの時何が
どう変わったのか、もう一度
振り返るべきだろう。


 


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