渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ちょいカフェ仕様のバーチカルツイン

2024年07月04日 | open
 




都内の高校の時に持っていた
1台を広島に送った個体。
私が高3の時に広島に都内から
遊びに行った7つ下のイトコ
(小5)が喜んで跨ってる。
これは1978年高3の夏休みに
私が東京から広島に行った時
の写真。
私も夏休みでひと夏広島県に
滞在したが、受験勉強などは
全くせずに小説書いてるか、
1ヵ月以上一緒にいたこの小
学生のイトコをバイクに乗せ
て走り回ってた。スーパーの
2階のゲーセン常駐とか。
このイトコの子は社交的で、
いつの間にか三原の同世代の
子たちの友だちができて、よ
く一緒に遠くまでカブトを
獲りに行ってた。なんか三原
の地元の子たちとかなり仲良
くなってた。子どもは屈託が
無い。
喫茶店好きだった俺は「ピラ
フ」という単語がこの場所で
は全く通じないというのを初
めて知った年だ。(ちなみに
「おしんこ」という単語は
21世紀になっても通じなかっ
た)
またアイスコーヒーなどとは
どの店も呼んでいない。ほんと
の話。どこも「冷コ」だった。
1970年代の三原市と福山市は
それ。
勿論、今のように広島県内で
地元の人たちが東京弁の「さ」
や横浜弁の「じゃん」を使う
事は皆無だった。
今の若い子は使っている。
「じゃけえさぁ、うちがそれ
やめんさいて言うたじゃん」
という具合に。
この地元の若者の現代の言葉は
私と同世代より上の土着の人ら
と私のような東横浜=京浜言葉
が主言語の外来者にはとても違
和感がある。純方言ではなく、
取ってつけたような首都圏京浜
言葉を無理矢理付属させている
現象があるからだ。何だかとて
もニセモノぽい。ベースは方言
なのに東京言葉使いたがり、み
たいな。「さ」と「じゃん」つ
ければ都会人、現代人、みたい
な無意識の勘違いを感じる。
最近は大阪人でも漫才などで
「さー」を使う。考えられへん
わ。ほんまもんの大阪人は「さ」
どは使わへんで。へっ、えろう
おおきに。
知らんけど。

そして今の広島の若い人たちは
男では「わし」を全く使わない。
今の40代中半より上の世代は全
員が「わし」。
さらにその祖母のあたりの世代
は女性でも一人称は「わし」。
男も女も「わし」が安芸国備後
国の標準呼称だった。
今は三原地方では、男はオレか
ワイを使う。ワイは大阪地方の
パクリだろう。
アイデンティティは崩れ切って
いる。チャンポンにさせて。
どうせなら、ビシッと標準語を
話せばいいのに。イントネーシ
ョンまで、きっちりとした日本
の標準語を。

閑話休題。
この1970年代のホンダの個体
はちょいカフェ仕様にしてい
た。タイヤは前後TT100を履か
せている。
直管集合、アップダウンハン
ドル仕様ではない時(笑
何度か気分次第で都度着替え
させていた。ポイント点火の
オールドモデルだ。

この1978年当時、不思議な事
に気づいたのは、広島県三原
市ではほとんどオートバイを
見かけなかった事だ。
都内と違い、地方では都内よ
りも先行して3ない運動が徹底
しており(天下の悪業3ない運
動は地方の田舎で発生し、や
がて首都圏まで襲って来た)、
バイクは全く見かけない。
中卒者かいい齢の大人しかオ
ートバイには乗らないのが現
実だったので、二輪の台数自
体ほぼ見かけない。これは
1978年当時の広島県全域で。
三原市内でバイクになど乗っ
ている人はほぼいなかったと
いうのが現実の歴史だ。
高校の時に三原の親戚のねー
ちゃんに遊びにおいでと呼ば
れたので家にバイクで行った
ら、その親から大𠮟責を食ら
い、うちの親にまでねじこみ
があった。
「オートバイで当家に来るな
どもってのほか。うちの娘の
嫁入りに差し支える。今後は
一切やめていただきたい」
と。
なんだそれ?私も私の両親も
「はぁ?」だった。両親は私
の東京の高校時代のレーシン
グチームでのレース活動も応
援してくれる程二輪乗車には
協力的だったからだ。首都圏
から広島県三原市に両親が転
住して2年目の時の話。親も
都内感覚だから免許取得OK年
齢で免許を取得して自分でバ
イトした金でバイクに16才が
乗るのは止める道理は無い。
ところが、都内のように高校
生でバイクに乗っている人は
三原ではゼロ。皆無。
それどころか、オートバイ=
悪の象徴という固定概念で
三原の地元人は凝り固まって
いた。
いかに3ない運動の徹底が強
圧的に法を歪めて二輪運転者
を作らないフレームアップの
国民洗脳の不埒な悪業三昧だ
ったか分かる。やったのは権
力者と教育関係者だ。そのバ
イクで我が家に来るなと言っ
たうちの直系尊属系統の親戚
の家も代々先公とオマワリだ
らけの家系。ろくなもんじゃ
ない。

広島県では都内より遅れて
二輪運転者≒暴走族が発生し
た。最大時代は都内ではほぼ
暴走族が消滅した78年道交法
改変以降に広島県では暴走族
が遅れて勃興した。チバラギ
沖縄系のスタイルの若者が。
結果、広島市内では「特攻服
を着用すると犯罪」とする
トンデモ条例が制定された。
意味不明。確定判決でその
条例は違憲ではない、などと
いう日本の司法制度を根底か
らひっくり返す決定まで広島
市は引き出した。無茶苦茶。
特定の被服を着用したら犯罪
者とされるのだ。
まるで近頃法改正をした韓国
が旭日模様を掲示したら犯罪
とするのとそっくりだ。
広島は日本の中でも特殊な土
地だ。日本国憲法は存在しな
い。何かあったら集団で「吊
るせ」というアメリカ西部開拓
時代の白覆面のリンチ集団の
ような事を大多数の市民が喜
んでやる。

この個体は、直立2気筒が面
白かったので大学時代も持っ
ていて広島の親が東京から転
住した家に輸送して保管して
いたが、大学の時にRZ350を
81年に新車で購入した時に都
内の大学の1個下の後輩に請
われて譲った。
この個体では高校の時に都内
から四国までフェリーに乗っ
て、四国を横断してから本州
に船で渡り、また都内まで戻
った旅を共にした経験がある。
主としてロンツーバイクとし
て使っていた。
ウイズではなくハングで四国
のワインディングを走ってい
た。まだ国内ではハングフォ
ームで公道を走る人間などは
まるでいない時代。
2ストトリプルのようにギュー
ンとはいかないバイクだった
が、面白い味のある二輪だっ
た。大学の後輩が直立二気筒
を欲しがったので譲った。
一度偶然そいつが私が譲った
この個体を走らせているのを
見たが、そいつも結構寝かせ
て走っていた。
その後輩には高校時代の部活
の仲間がいて、偶然同じ大学
に進学し、私と共に高速道路
料金訴訟の活動を学生の時に
やっていた。
レース活動も手伝ってくれて、
筑波の時などはよく駆けつけ
てくれた。そいつはバリ伝グン
ちゃんモデルの750F乗りだった。

世の中アルアルの偶然はある
もので、うちの刀剣会の重鎮
の私と同学年の人がたまたま
その後輩と同じ高校出身者だ
った。
小林康宏作を何口も持ってい
て、書籍出版の際の掲載の為、
撮影にもいくつもの康宏作を
貸し出してくれた。
また、その人の所有初代康宏
数口を藤安将平刀匠が何ヵ月
か借り受けて斬鉄剣の研究を
した。
うちのその刀剣会のメンバー
は二輪乗りでうちのMCメン
バーでもあるのだが、この70
年代のオールドホンダドリー
ム250がモデルにした原型であ
るトライアンフに乗っている。
たまたま。


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