1988年に全米女子プロたちを
日本に招聘してエキジビション
マッチのカードが組まれた。
赤坂のグリーンテーブルで。
それまで全日本に米国選手が
時々参加することはあっても、
大人数で選手が来日してプレー
するなどというのは史上初だっ
た。
全米女子プロの来日選手で
驚いたのは、ビジュアル的に
モデルさんのような選手ばかり
だった事だ。
日本のように「玉撞きが上手け
ればよい」というスタンスとは
大違いで、アメリカのプロプレー
ヤーはTV受けするように容姿
端麗で、かつ、身だしなみや
立ち居振る舞いでもエレガント
さを忘れないという本物のプロ
だった。
エワ・マタヤなんてモデルさん
かハリウッドの女優さんみたい
だったもの。
エワとウィリー・モスコー二
エワ・マタヤさん、日本でTV放送
されるというので、Tバックでし
た(笑)。
物を知らない日本人の男が「プレー
のためにノーパン!」とか言って
たけど、まだ日本ではTバックが
一般的ではなかったからだろな。
いやあ。皆さん華麗でした。
私はローリー・ジョン・ジョーンズ
本人を見て、かわいいんでビビッた
けどさ(笑)。うわ~、みたいな(笑)。
まじもんで、かーいかった。
(右上がローリー)
ジョーンズさんもまるで女優さんどした。
で、試合後何日か経って、グリーン
テーブルにフラリと行ったら、
㈱コスモ直営のグリーンテーブルの
オーナーのオサムちゃんがおいらに
言うのよ。オサムちゃんとは年も
近いしツーカーだった。
曰く、「あのさぁ、エワが使ってた
キュー買わない?」と。
なんで?と尋ねたら、来日して
壊しちゃったんで、本人から買い
取ったげたんだと言う。
メウチのこの上から3番目のDH-3
という型番のキュー。デヴィット・
ハワード・モデルですね。
エワの実際にプレーで使っていた
そのキューを見たら、ジョイント
リングの下のバットに綺麗に縦割れ
目ちゃんが入ってる。
「ぼっこし壊れてんじゃん」と
言うと「プレーには支障ないん
だけどさぁ」とマスターが言う。
試しに1ラック撞かせてもらった。
「こ、これメウチなの?全然
一般製品ラインと違うじゃない」
と言ったら「そうなんだよ~。何か
多分彼女用に作ったカスタム」と
オサムちゃんは言う。
通常のメウチは腰が無さすぎで
ベナンベナンなキューだ。
エワ本人のキューはデザインこそ
一般製品ラインと同じだが、全く
撞球質性が別物だった。
当時、少し前にジム・レンピや
マイク・シーゲルのモデルも
メウチにはあったが、本人たちが
使っている実物は一般製品ライン
とはまるで違って特別厳選のスペ
シャルだったのではなかろうか。
シーゲルはその後ジョスと契約
を結んで、映画『ハスラー2』で
テクニカルアドバイザーを務め、
映画ではダン・ジェーンズの
JOSSの#18が「バラブシュカ」と
して撮影に使用された。
トム・クルーズはキューを振り
回すシーンのリハでシーゲルの
キューをぶっ壊してしまった
らしい。
エワのキューは壊れているとは
いえ、性能は頭抜けていた。
でもなぁ、割れてるしさぁ。
売値金額聴いても即金で買える
金額だ。おいらだから売ると
いう。他には出さない、と。
結局はプレー用にはリチャブラ
持ってるので買わなかった。
そしたら、オサムマスターは
言葉通り他には売らずに、暫く
自分がプレー用に使ってた(笑)。
25年後にコスモも別人に売却
した後にオサムちゃんと再会
した時(ワンコのシモンがいた
頃)、その話をしたら「だって
買わないって言うから俺が仕方
なく使ってた」と笑いながら
言ってた。
メインはその後はショーンだった
ね、彼は。おいらがリチャブラ
からランデ・ショーンに替えた時、
「お!偶然。わたくしもショーン
にしたのよ~」とか言って奥から
持ってきて見せてくれてた。
当時は珍しかった。ようやくその
後、入るようになって来た。
おいらのランデ・ショーンは
国内には1本も無い事も彼と
店長が八方情報集めてつきと
で、試合後何日か経って、グリーン
テーブルにフラリと行ったら、
㈱コスモ直営のグリーンテーブルの
オーナーのオサムちゃんがおいらに
言うのよ。オサムちゃんとは年も
近いしツーカーだった。
曰く、「あのさぁ、エワが使ってた
キュー買わない?」と。
なんで?と尋ねたら、来日して
壊しちゃったんで、本人から買い
取ったげたんだと言う。
メウチのこの上から3番目のDH-3
という型番のキュー。デヴィット・
ハワード・モデルですね。
エワの実際にプレーで使っていた
そのキューを見たら、ジョイント
リングの下のバットに綺麗に縦割れ
目ちゃんが入ってる。
「ぼっこし壊れてんじゃん」と
言うと「プレーには支障ないん
だけどさぁ」とマスターが言う。
試しに1ラック撞かせてもらった。
「こ、これメウチなの?全然
一般製品ラインと違うじゃない」
と言ったら「そうなんだよ~。何か
多分彼女用に作ったカスタム」と
オサムちゃんは言う。
通常のメウチは腰が無さすぎで
ベナンベナンなキューだ。
エワ本人のキューはデザインこそ
一般製品ラインと同じだが、全く
撞球質性が別物だった。
当時、少し前にジム・レンピや
マイク・シーゲルのモデルも
メウチにはあったが、本人たちが
使っている実物は一般製品ライン
とはまるで違って特別厳選のスペ
シャルだったのではなかろうか。
シーゲルはその後ジョスと契約
を結んで、映画『ハスラー2』で
テクニカルアドバイザーを務め、
映画ではダン・ジェーンズの
JOSSの#18が「バラブシュカ」と
して撮影に使用された。
トム・クルーズはキューを振り
回すシーンのリハでシーゲルの
キューをぶっ壊してしまった
らしい。
エワのキューは壊れているとは
いえ、性能は頭抜けていた。
でもなぁ、割れてるしさぁ。
売値金額聴いても即金で買える
金額だ。おいらだから売ると
いう。他には出さない、と。
結局はプレー用にはリチャブラ
持ってるので買わなかった。
そしたら、オサムマスターは
言葉通り他には売らずに、暫く
自分がプレー用に使ってた(笑)。
25年後にコスモも別人に売却
した後にオサムちゃんと再会
した時(ワンコのシモンがいた
頃)、その話をしたら「だって
買わないって言うから俺が仕方
なく使ってた」と笑いながら
言ってた。
メインはその後はショーンだった
ね、彼は。おいらがリチャブラ
からランデ・ショーンに替えた時、
「お!偶然。わたくしもショーン
にしたのよ~」とか言って奥から
持ってきて見せてくれてた。
当時は珍しかった。ようやくその
後、入るようになって来た。
おいらのランデ・ショーンは
国内には1本も無い事も彼と
店長が八方情報集めてつきと
めてくれた。
当時、1軒だけショーン代理店
があったのだけど、米国の会社
の住所を尋ねたら教えられない
と取り付く島もなく断られた。
そしたら、コスモ=グリーン・
テーブルのスタッフが骨折って、
アメリカからカタログを取り寄
せてくれたんだ。コピーだった
けど(笑)。それさえ、国内では
手に入れるのが困難だった。
でも、それでようやく私のランデ
ラインのショーンの型番も判明
した。
この顛末はビリヤード雑誌に投稿
したら、まんま文章変えずに掲載
された。80年代末期の専門誌には、
私のその文章が載っている。
おいらのランデ・ショーンの
TADタイプリングのスペアシャ
フトを中古で探して輸入して
買い取って取り置きしてくれ
たのもオサムマスターだった。
ある日突然、頼んでなかったの
に「手に入れたよ」と。
「もしおいらが買わないと言った
らどうするつもりだったの?」と
訊くと「そん時ぁ俺が使う」と
言ってた。リング違うのに(笑)。
今のようにネット通販も無い時代、
スペアシャフト1本をアメリカ
から輸入するのも、ルートのつて
がないと困難だった。
そういえば、たしか、バーチか
どこかの男女ペアマッチのチーム
大会か何かにマスターに誘われて
同じチームで参加した時、彼は
エワのキューを持って行って使っ
てたかなぁ。
二人ともかわいい子(そこそこ
撞ける女の子)を連れて行って
たなぁ(笑)。
うちら二回戦負けだったけど(笑)。
マスターが業界つきあいから大会
進行途中まで会場にいて、その
後、4人でレストランで飯食って
都内に帰って来た。
この雑誌に載っている写真の
このキュー実物すね。その
キューは。
縦割れ目ちゃんが結構長くて
5センチほど地震の地割れみたい
にジョイント下にできてしまっ
てましたよ。
エワは、ブレイクもこのキューで
やっていたからかも知れない。
今考えたら、譲ってもらって
リペアで再生させてあげるという
手もあったなぁ、と。
でも、当時は国内にメーカー
以外のリペアマンなんてのは
一人もいなかったから。
吉村のおいちゃんとかはいたの
だろうけど、東京と大阪は世間
ではほとんど交流がなかった
ので情報不足でよく知らなかった。
東京で大阪弁が広く知られる
ようになったのは、1980年の
漫才ブームからだから。
大阪の人も東京の事は全く
知らなくて、一度上野で道
を大阪弁で地図見せながら
訊かれてさ。「このゴトチョウ
いうんはどうやって行きます
のん?」と。
「ゴトチョー?」と言いながら
地図見たら指してるとこは
御徒町(おかちまち)だった(笑)。
TADタイプリングのスペアシャ
フトを中古で探して輸入して
買い取って取り置きしてくれ
たのもオサムマスターだった。
ある日突然、頼んでなかったの
に「手に入れたよ」と。
「もしおいらが買わないと言った
らどうするつもりだったの?」と
訊くと「そん時ぁ俺が使う」と
言ってた。リング違うのに(笑)。
今のようにネット通販も無い時代、
スペアシャフト1本をアメリカ
から輸入するのも、ルートのつて
がないと困難だった。
そういえば、たしか、バーチか
どこかの男女ペアマッチのチーム
大会か何かにマスターに誘われて
同じチームで参加した時、彼は
エワのキューを持って行って使っ
てたかなぁ。
二人ともかわいい子(そこそこ
撞ける女の子)を連れて行って
たなぁ(笑)。
うちら二回戦負けだったけど(笑)。
マスターが業界つきあいから大会
進行途中まで会場にいて、その
後、4人でレストランで飯食って
都内に帰って来た。
この雑誌に載っている写真の
このキュー実物すね。その
キューは。
縦割れ目ちゃんが結構長くて
5センチほど地震の地割れみたい
にジョイント下にできてしまっ
てましたよ。
エワは、ブレイクもこのキューで
やっていたからかも知れない。
今考えたら、譲ってもらって
リペアで再生させてあげるという
手もあったなぁ、と。
でも、当時は国内にメーカー
以外のリペアマンなんてのは
一人もいなかったから。
吉村のおいちゃんとかはいたの
だろうけど、東京と大阪は世間
ではほとんど交流がなかった
ので情報不足でよく知らなかった。
東京で大阪弁が広く知られる
ようになったのは、1980年の
漫才ブームからだから。
大阪の人も東京の事は全く
知らなくて、一度上野で道
を大阪弁で地図見せながら
訊かれてさ。「このゴトチョウ
いうんはどうやって行きます
のん?」と。
「ゴトチョー?」と言いながら
地図見たら指してるとこは
御徒町(おかちまち)だった(笑)。
ゴトッチかと思っちゃったよ(笑)。
東京での大阪弁は、てなもんや
三度笠と一本槍の吉本新喜劇と、
あとは「いなかっぺ大将」の
西はじめと「あしたのジョー」
のマンモス西くらいしか触れた
事が無かったから、東京人は。
修学旅行で京都に行って、地元
のお店の人の話すのを聞いて、
「うお~!言葉が違う。映画
みたいだ!」とか感動してた
のが東京人だったしさ(笑)。
逆に関西でもそうだったらしく、
紳助などは「東京から転校して
来た奴おって、オレとか言う奴
映画の中だけやなくてホンマに
この世におるんや、と思った」
とTVで言っていた。
「関西はみな『ワシ』やで」
と(笑)。
京都大阪以西は自分の事は
男は「わし」ですね。
広島県などは明治大正生まれは
女性でも自分のこと「わし」と
言ってました。
幼稚園児も「わし」。
イトコが5歳の時に「この瓜は
わしのんど!おみゃーら東京へ
いねっ!」とか言ってました(笑)。
「おー!なんか怒ってる。でも
言ってることわかんな~い」と
思った。
東京から転居した今でも時々
地言葉が分からない事がある。
でも、東京弁も標準語ではない
ので、ネイティブ江戸弁だと
西日本の人や外国人は分からない
と思いますよ。
「しょっぱい」って分からない
でしょ?西日本の人たちは。
塩辛いこととも違うのよ。
料理だけでなく、しょぼいという
意味の時にも東京では使うけど。
エワ・マタヤ本人のキューを
撞いてみて、一つ勉強になった
こと。
メーカー契約しているプロが使う
キューは、一般ラインの物とは
違ってスペシャルだね、あれ。
これ間違いないす。
ワークスマシンみたいな物か。