渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

日本刀の登録証

2020年05月18日 | open
 
 
日本刀には登録証が付いている。
これにより、所持禁止の「刀剣」ではなく
美術品たる「美術刀剣」として所持ができ
る。
日本刀には登録証などは元々千数百年の間
存在しなかった。刀は武器であったから
だ。
だが、第二次世界大戦で日本が敗戦する
と、連合国は日本軍人の心の支えであった
日本刀そのものを地球上から抹殺しようと
した。
そのため、日本の有識者3名の努力により、
連合国総司令官マッカーサー元帥との交渉
が行なわれた。
その際にマ元帥を感嘆承服せしめた論法は
「日本刀は日本人と日本の歴史にとって
かけがえのない美術品である」という論であった。
そして、国光の短刀をマッカーサー元帥に
観賞願った。
マ元帥は美術品を見る目があったのだろう。
こんな美しい刃物はこれまで見たことが
ない。交渉者が進言するように、これは
もはやただの武器とは呼べない。
となった。
そして、平安時代からの夥しい数が残存
する日本刀を全て廃棄処分することを中止
したのである。
 
だが、その美術品として延命できた日本刀
の立場の為には「人身御供」が必要だっ
た。
そのために、戦前戦中に作られた新作の
日本刀のうち、生産性向上のために採ら
れた工法で製造された日本刀は、たとえ
軍刀外装に入っていようといまいと、
それは純然たる「単なる武器」として廃棄
処分としたのである。
また、登録制度成立後には、日本刀では
ないとして登録をさせない方針となった。
この戦後の日本刀延命の秘策を現在でも
頑なに実行しているのが現在の日本政府
と法人の日本刀統括団体なのである。
 
どんな刀であっても、鍛造製造されていれ
ば日本刀であるので根本からおかしい話
であるのだが、世界大戦での敗戦後に日本
の日本刀が生き残るためには、せめて
「良質な刀」を残して、量産刀剣を「忌む
べき武器」として排除するちぐはぐな事を
せざるを得なかったのである。
本来、日本刀は出来の良し悪しに関係なく
どんな刀も武器である。
あえて言うならば、「世界的に比類のない
美術的な美を備えた、高度な製造技法に
よる武器」であるのだが、その「武器」
という側面のみは全否定される事となっ
た。
だが、日本刀は刀であるので、幕末戊辰
戦争や西南戦争で使われた刀と現代の
登録証がある美術刀剣は同一の物だ。
美術品たる美術刀剣で人を斬れば刀なの
で簡単に斬殺できてしまう。
日本刀が美術品である、というのは、あく
まで「制度上」の建前措置であり、また
あくまで「概念上」の感情措置でしかな
い。
それは良くも悪くもない。そうなってしか
日本刀は生存できなかった日本の1945年
時点での歴史事実があるのだから致し方
ないのである。
ただし、刀は刀。
法的に扱いが変わろうととも、また、日本
刀は武器ではなく美術品であると妄想しよ
うとも、刀は刀だ。刀で人を斬れば人は
死ぬ。絵画を見せて人は死なないが、刀で
刺突すれば人は死ぬ。
日本刀は、紛れもなく、今でも武器なので
ある。
 
だが、もう使えない武器だ。
銃器が出て以降、刀剣は戦闘の主力武器と
はならない。
これは鳥羽伏見だけでなく、戦国期に軍勢
の趨勢は火力で決した。
現代戦で袴を履いて日本刀を帯びるなどと
いうことはあり得ないのだ。
そういう意味では、日本刀は「過去の武
器」なのであり、歴史上の産物であるの
だ。
 
ただし、刀剣は武器ゆえ一般民間人は
所持できないが、国家の法執行機関の
合法武装者は刀剣を帯びる。
それは、自衛隊の銃剣が典型的だ。
自衛隊員は、戦闘の為に武器たる剣を帯び
て小銃の先に着剣する。
どう使うかというと、白兵戦の際に敵たる
人間を刺し殺すために着剣する。
綺麗事のオタメゴカシではない。
人を殺すために剣を帯びるのである。
刀剣とは本来そうしたことに用いる武器
なのだ。
良い悪いという判断の次元では刀剣は
語れない。
たとえ護身であろうと、あるいは積極攻撃
であろうと、敵を刺突し、斬り伏せる為
に存在するのが刀剣であるのだ。
 
しかし、当然にして、現代人は日本刀を
使って人の生命を脅かしてはならないの
は自明の理だ。
法律が云々以前に、人としての制御が
働かない者は日本刀は所持すべきではな
い。
現在、日本刀は「美術品」であるので、
0歳児でも所持者として登録することが
できる。美術品だから人には害を及ぼさ
ない、というのが建前だからだ。
だが、それで果たして良いのか?という
疑問が私は個人的にはある。
特に、現代では武技を行なう者たちの中
で、日本刀を手にしたことにより、心得
違いを犯している慮外な者たちが多く
見られるからだ。
心の備えが無き者たちが刀を自由に持てる
ということは、狂犬を野に放つようなもの
だと私は思っている。
かつて、袴と髷の時代には日本刀の帯刀
には極めて厳格な規定措置が採られてい
た。つまり、武士以外は帯刀は許されな
かったのである。
武士は武士としての教育を生まれた時から
なされて来た。まず、武芸の前に人的な
人格の涵養こそを躾けられた。
しかし、武士が消滅して150年以上が過ぎ
て、現代では誰でも刀を持つことができる
ようになった。
これは裾野の広がりとして、美術品的な
観点からは歓迎すべきことだろう。
だが、躾の無い、行儀悪い人間たちも
金さえ出せば日本刀が持てるようになって
しまった。
結果として、心得違いの慮外者たちさえも
刀を帯びて武芸を行なうようになった。
 
ちなみに、いくら武芸や武術、武道をやっ
ても人間的な人格形成や涵養などは成し得
はしない。
それらは、幼い時からの親の躾、教師の
指導、武芸の師の崇高な精神性の伝授に
よって形成される。それと、本人の自己
に刃を向ける自覚だ。
武芸そのものをやっていても、何ら人間
としての人格形成などは成されたりはし
ないのは動かぬ事実なのだが、この大切
なことは世間ではあまり理解されていな
い。
大切な事は親から子への躾、師の教え、
本人の自覚、この三位一体なのだ。
 
閑話休題。
この右の刀は、備前長船新衛尉則光作だ。
同人作でこの上ない健全作はバブルの頃
は銀座の刀剣店では750万円の値が付いて
いたが、この私の「丸太斬り則光」は同じ
作者の作でも数打ちの実戦戦場刀なので
それほどの値はしない。しかし、とんでも
ない切れ味を持っている。時代天文。
(750万円というのは、日本刀の世界では
決して「高い」金額ではない)


この右の長船は実は精査すると二つ目釘
穴なのだ。
だが、登録証では「目釘穴一つ」となって
いる。
これは、多分江戸初期あたりの古い時代に
下の目釘穴が埋め鉄されたものだ。
それがなかごと同化しているかのように
見える為に、登録審査員が「埋め鉄」とは
見抜けずに「目釘穴 一」としたのだろ
う。
そして、面白いのが、前述した同人作の
健全無比の作を私は銀座の店舗で実見し
たのだが、やはり全く同じように下の
目釘穴は埋め鉄されていて、登録証では
「目釘穴 一」となっていたのだ。
これが分かりやすく真鍮や銅や金銀等で
埋められていたら、登録証では穴数は
正確に記され、埋めの事実も記載されて
いる。
 
さて、何故、戦国期の実用必須の二つ
目釘穴の一つが埋められたのか。
それは、江戸期だからだ。
江戸期は矛盾全開の時代であり、武士は
武装せる軍団であるのに、武士の特権は
認めつつも幕府は各地の武士を無力化し
たかった。
そのためにありとあらゆる権謀術数の奸計
が実行された。
参勤交代は各地の大名の財力を疲弊させる
為であるし、元和偃武のお達しなどは、
武士の無力化に外ならなかった。
そして、日本刀にも厳しい長さ規制を
何度も発布して取り締まった。
着装の色や刀装具の色まで幕府は規制し
た。
そうした風潮が蔓延していたので、戦闘
仕様である二つ目釘は一つが埋められる
事が流行ったのだろう。
 
日本刀の登録証はあくまで「目安」だ。
なぜならば、研ぐと刀は減る。
登録と長さも反りも変わってしまうでは
ないか(笑)。
ちなみに、私が自分の康宏を磨り上げ
した時には、再登録して磨り上げ後の
寸法で登録証を都に再発行してもらった。
身長は173センチ強なので二尺三寸六分
は通常の剣法では定寸となり使い勝手も
良いのだが、自分が属する流派を深く
習ううちに、流派の掟の定めの長さに
思い切って差料を磨り上げたのだ。
私の30才ちょい頃の動画で使用している
康宏は、まだ長い頃の康宏で、今の試斬
では磨り上げた康宏を使用している。
目釘穴は二つである。
「游雲」の銘を新たに切り添えてある。

長い頃の康宏。
斬術 -二代目小林康宏- 1992年
この記事についてブログを書く
« 陸自30年ぶり新型小銃 | トップ | キャスター »