渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

切れ味と切り味

2020年07月27日 | open

越乃一刀(新潟県)

切れ味と切り味のテスト動画である。
切れ味は、切れるか切れないかの次元
の案件。
切り味は、どのような質性を持ち如何
なる状態であるかに関する案件。
両者は似て非なる事項であり、弁別して
識別認識しなければ刃物は研げない。

上掲動画では、腕を振る切り下ろしでは
一切手の内の冴えをあえて使わずに刃物
の特性を感知する切り方をしている。
これは切れ味の試しの「切り」。
一方、ゆっくり切り代を使って切っている
「切り」は、すべて異なる切り方をして
刃味だけでなく切り味を確認している。

「切り」というものは、大変複雑で奥が
深く、被切物が切れたか切れないかと
いう物理現出にのみ捉われていたならば、
「刃物で切る」ということについての
高度な知見を得ることはかなわない。
切れることなどは当たり前の大前提
だからだ。書けない鉛筆が書けるよう
になったからと喜ぶ愚はこの世には
無い。
また、些末な切れた切れないに拘泥する
と、「刃物」そのものについても深部を
考察することができなくなる。

けだし、これは日本刀そのものと日本刀
の用法にも通じる。
つまり、「刀術」そのものである「剣技」
と「日本刀」を的確に適切に間違いなく
核心部分を捉えられるかにかかってくる。
畳表と藁の区別も識別つけるもこれ肝要。
刀と術と「切り」は、畳表が切断できた
かできないかという表層部分に代表され
るそんな単純なものではない。
現代においては、日本刀遣いよりも、
腕の立つ料理人や楽器職人や宮大工の
ほうが峻厳に緩み無く厳しく刃物を
見つめて捉えている。真剣だ。
日本刀遣いの者たちのほうが彼らに
遅れを取っている。

「切り味」というものは、「刃味」という
物理的現象についての感知とも異なる
ので、その概念差異にも注意を要する。
切り味は、料理や酒のテイスティング
による知覚者の所見に似ている事項で
ある。


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