渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ローストビーフ

2022年09月10日 | open


グランピストではないが、野営
にてちょいと贅沢に。
これは、ワインに合う。

喫茶店のまかない

2022年09月10日 | open


豪華だね。

汚染地帯

2022年09月10日 | open




核廃棄物なみの汚染。
自民党除染不能。

天とシェアする人びと

2022年09月10日 | open


本日の野営。
火の鳥降臨。
天は見ている。


まさに朱雀だ。


映画『蜩ノ記』(2014)

2022年09月10日 | open

 
ひぐらしのき。
原作を超えた映画作品ではなかろ
うかと思える。
極めて秀逸。
脚本が良いのだろう。
また、俳優の演技が最高に良い。
主演の岡田准一はこの作品の為
に抜刀術道場に2年近く通って
稽古した。香取神道流の剣筋だ。
まだ動きに角があり硬いが、
『雨あがる』の
寺尾聡の無外流
演武シーンよりは抜けている。

映画としてはかなりの良作である。
原作にはやや登場人物の透徹過
ぎる人間性に違和感を覚え不完
全燃焼感があったが、この映画
作品はさりげなく撮り切ってい
る。
さすがは黒澤組の流れを汲む
製作者と感じ入った。

戸田秋谷役の役所広司の武士らし
さが光る。
「生きた事実を伝え、嘘偽りの
ない歴史を書き残す事ができれ
ば、それこそが武家の鑑」
これこそが武士である。
武家の心である。
とても良い映画作品だ。
脚本、俳優の演技、キャメラ、
全てが良い。名作。
武士の心知らんとすれば、まず
この映画作品を観よ、だ。
 
出演の岡田准一は後年の『新選組
血風録』(2021)の土方歳三の
演技
もずっと良い。遥かに
良い。
映画はやはり監督次第か。
岡田は(岡田だけでなく)『散り
椿』(2018)
では最悪の演技撮り
されてしまった。演技力ある俳優
なのに気の毒に思う。
映画は監督次第。
『雨あがる』(2000)などはクロ
サワ映画を観ているようだった。
本作『蜩ノ記』も『雨あがる』も
監督は小泉堯史監督だ。
映画は監督次第。
司馬遼太郎『燃えよ剣』の映像化
においては、1990年1月5日、6日
にテレビ東京で放送されたドラマ
が一番良いと感じる。あれを超え
る『燃えよ剣』は観た事がない。
その作品では、本『蜩ノ記』の
主たる人物戸田秋谷を演じた役所
広司が土方歳三を演じていた。
全映像作品の中で最高の土方歳三
だった。
これまた、役所広司の土方歳三を
超える作品を観た事がない。
監督は山本和夫、脚本は長坂秀佳
だった。
役所歳三、岡田歳三、土方歳三を
過去に演じた俳優と未来において
演じる俳優のその二人が、今から
10年前に初
共演したのが本作だ。
役所広司の土方は33歳の時の今
から32年前、岡田准一は40歳の
時で今から1年前に土方歳三を
演じた。
なお、本作『蜩ノ記』が日本映画
では最後の
映画用フィルムによる
映画となった。
そのあたりの色合いと音の質感も
楽しめる。
ある意味、「最後の日本映画」だ。
本作は、その作品の出来映えも
日本映画史上に残る名作である。

アマゾンプライムで、現在視聴
可能。
 

色彩表現

2022年09月10日 | open







この色合いと配色のベニアを持つ
本ハギのキューをゆくゆくは作り
たいのである。

ラガービール

2022年09月10日 | open
 




これまで多くのビールを飲んで
来たが、これが全てのビールの
中で一番おいしい。
数量限定。
市内でも、どの店にもある訳で
はなく、回ってみたら一店舗し
か置いていない。

18本買って、友人宅にて相飲み
した。
友人曰く「何だこれ?今までで
一番うまい」との事。
俺と同じ事言ってる(笑

この10日間で何リッター飲んだか
分からない(笑

脱走

2022年09月10日 | open



一度でもブルって敵前逃亡した奴
は、必ずその先も同じような事を
繰り返すんだよね。面白いように。
分かりやすいように。
それは日和見とかではなく、明ら
かに逃げる。
これは、激戦の中での「引け、
けぇー」の戦略的撤退とも異なる。
組織からの脱走を図る。
現場からの逃亡、組織からの逃亡、
全てを裏切り捨て去り逃亡、をす
る。
都合悪くなったら頬かぶりで、
ほとぼり冷めたら、てめえが手柄
立てたような顔をする。

そんなにてめえの命が惜しいのか
と。
だったら、最初から陣列に入って
くんな、てな感じなんだよなぁ。

士は逃げない。
これ、ホント。
闘士は闘う士、戦士は戦う士。
武士は武門の士。
士は逃げない。
現代でも通じる戦国絵巻の頃から
の鉄板すね、これは。




無論、代議士たちは士ではない。
文字だけ借用の紛い物。

磨き

2022年09月10日 | open



何本か使用後に磨き上げていない
先角があるのでティティ磨きする
とする(笑

象牙がいいよなぁ。
ほぼ疵つかないもの。
ロングドローや利かせドローなど
はキュー先をラシャにこすりつけ
るから、摩擦で樹脂の先角は疵
だらけになる。
象牙は殆ど疵にならない。
ゾウさんの牙、丈夫だよなぁ。


時たま先角疵まみれなのにその
ままの人もいるが、私は嫌なの
でポリッシュしてツルツルを保つ
ように心がけている。
そして磨く時には浮きや割れが
無いか、念入りにチェックする。




なにわ的価値判断をするならば

2022年09月10日 | open
 
 
このビリヤードキューの落札価格
は最強のようにも思える。
しかも、とても良いキューだった。
だが、本物の大阪人からすると
「ちっちっち。500円」とか言っ
て自慢のキューを出して来そうな
気がする(笑
安ければ安い程価値があるという
大阪人特有の価値観。
私は江戸もんだが、その浪速人の
アンチテーゼのような心意気は
好きだ。
商人のどぎつい商魂に負けない
カウンターカルチャーみたいで。
そのあたりは東京とはまったく
文化が異なる。
東京人は値引きねだりなどしない
もの。
 
特にこれは東京だけでなく全国的
にであるが、刀剣類に関しては、
値引きのねだりなどはしないの
日本刀の購入の時の鉄則だ。
負けろ、は武士の武具では御法度
なのである。それは口が裂けても
言わない。
「ざまみろ」等、武士や士族が
絶対に口にしない言葉はいくつか
あるが、それらは武家の武家たる
質性の所以に拠る。それを口に
すると武士ではなくなるし、武士
は無理してではなく、ごく自然に
それらを当たり前のように口にし
ない。武士や士族はそうしたもの
だ。
現代人で解ってない人たちは刀剣
類刀装具類でも値切り倒すが、
それは心得違い甚だしい。武士は
やらない。理解して身について
いないからそうした事をする。
刀は一般的商品ではない。
だが、現代では、物切り系自称
古流武術団体や個人には弁えずに
刀を値切り倒す人間が非常に
多い。
嘘みたいな小汚い値切りをする。
 
司馬遼太郎の『新選組血風録』の
中で、斎藤一が京都の市で虎徹を
見つけて値切り倒して買って来る
シーンがあるが、それはあり得な
い。斎藤一は武士の出だ。無い。
司馬遼太郎は、武士の実態と価値
観等については知悉していなかっ
たか、身近に本物の士族の末裔が
いなかったのではなかろうか。
現代でも、刀剣類を平気で値切っ
たりするのは、旧武士階級とは
無縁の人たちによく見られる。
日常的な武家の文化的素地の中で
躾を血脈的に受けていなか
ったからだろう。
現実は真実を物語る。

武士とは縁もゆかりもない者たち
が袴をはいて刀を差してサムライ
の真似事をしている。
何をやりたいのかよく分からない。
やっている事は、武士の魂や心
や作法や思考法や生き様や死生観
などの武家文化などは一切体現
もしくは適正解釈して世に紹介
する事はせずに、大出鱈目をやる。
非常に行儀悪い。

そして、犯罪的であるのは、これ
が武士の作法などと称して大嘘を
捏造して刀の扱い方を広めよう
としたりする事だ。やっている
連中は値切り倒しを常にする
集団だったりする事実がある。
武士の流れに無い新設道統捏造
集団だからしかたないのかも
知れないが、少なくとも武家の
文化を破壊する事を以てそれが
武士の在り方であったとするよう
な拡散をするのは非常に宜しく
ない。
ニセモノはニセモノなりに存在
してもよいが、本物を否定する
ニセモノというのは害悪だ。
いくら武士とは縁もゆかりもない
流れの集団だとはいえ、やり過ぎ
である。流の来歴を捏造僭称した
りはまだ勝手だが、他家の家紋を
勝手に使ったり、日本刀をまるで
用具のように扱ったり等が武士の
規範だったかのような事を宣伝
するに至っては、それはやっては
ならない事なのだ。
パフォーマンス集団は、武芸とは
全く発生ルーツが異なるので、
なかなか武士文化、武家教養には
疎いのかも知れないが、この日本
の世の中、日本人ならばやって
いい事と悪い事がある。
弁えるべし。

外国人が「ヘイ!ニンジャー!」
とか言って明治10年の内戦の時
に「忍者」を映画作品に登場
させたりするのは外国人の勝手
だ。日本の本当の歴史とは関係
ない。
だが、日本人がこと武家文化や
武士の実態に関して表現する際
には、絶対にやってはならない
事がある。
それを知らねば、なぜ武士たち
は武士としてああであったか、
などは亡失されるし、それは
日本の現実に存在した歴史をも
否定する事になる。
現実の事実は否定できないの
であり、また、なんぴとたり
とも事実を身勝手な解釈で否定
したり破壊する権利はない。
パフォーマーが表現手段として
演劇するのは表現の自由だが、
それを「本物の武士はこうだった
と当流では伝わっている」として
本物の武家文化を破壊する行為
は断じて自ら戒めるべきなのだ。
そもそも「自戒」と「自裁」
こそが武家文化が残した日本人
としての素質であり、現代に
まで通じる日本人の心の在り方
だったが、それらは明治以降は
日本人全体領域としては亡失の
一途だ。
だが、そうした質性を結果と
して全否定する言動を以て
「これが武士」とするのは、
それは明らかに駄目なのだ。

なお、日本のお辞儀に始まり
日常生活での所作、作法、言葉
遣い等はすべて「武士の文化」
を基軸としている。
日本語の中で新たに作られた
「標準語」という明治新設
日本語は武家の幕臣旗本言葉
をベースに創られた。
日本の礼儀作法は武士文化を
中心に形成されているのである。
これは現代でも。
最近ではそれさえも崩そうと
朝鮮式お辞儀を一般常識作法
であるかのようにマナー教室
や就職試験で実行しようとする
日本人が増えている。
デパートガールのようなお辞儀
を。
これもまた、日本文化を破壊
する行為だ。

過重点(加重と荷重)

2022年09月10日 | open



どのスポーツでもそうだが、
基本的に加重ポイントは親指
の付け根。

これは両足を開いて踏ん張る
フォームの時も同じ。
ベタ着きの時も踵には高比率
で荷重させない。
荷重は全体でも加重は指の付け
根になる。
(2006年於板橋)

私はマイク・シーゲルのフォームを
お手本にしてプールを覚えた。


ただ、この撞球フォームでも
フットの下部全面は靴内部の
底に密着しているが、荷重配分
は踵に大きな比重がかかるよう
な立ち方はしない。
古流剣術系の歩き方のような
方法で私は加重させて荷重を
バランスさせている。
二輪走行では完全に踵は浮く
(誰でもそうだ。踵をステップ
には載せない)のだが、それは

親指の付け根での加重の典型例
だ。
土踏まずも使うが踵方向の土踏
まずの部位は使わない。コント
ロールは前方領域で行なう。
野球のキャッチャーなども待機
中は踵を浮かし、捕球の際には
踵を接地させて捕球するが、踵
に全荷重を担わせる事はしない。
剣道では踵は接地するかしない
ほどに浮かせる。紙一枚とも
いわれている。浮かせすぎは✖。
これは野球の捕手と同じ。

ビリヤードでの両脚開きのスタ
ンスのフォームでは、上半身が
シュート前に動いてはならない
ので、慎重に足裏に加重させて
荷重配分を適切に取って身体を
安定させる必要がある。
厳密にはシュートの瞬間以降は
上体も腕もどのように動いても
まるで構わないのだが。
これも「動くな」の固定観念に
捉われている一面的な思考停止
の人たちはよく説く。上体は
動くな、と。動いたから外した、
と。
全然、本質は違う。
ヒット後はどんなに体が動こうが、
もう手玉は発進されているので、
一切物理的にはシュートには関係
ない。
時代劇の武士の切ったあとの
残心のようなものも必要ない。
ただ、私の場合は自分のショット
の確認のためと冷静さを継続させ
るためにフォロースルーや残心を
取ったりする事も実行している。
まるでそれこそ時代劇での剣士
の斬撃後みたいに。
キュー出しをして残心を取るのは
撞球における最悪のキュー操作
であるチョン突き防止のためも
ある。
「上半身を動かすな」というのは
シュート前の事までの事であり、
それを深く考察せずに動くな動くな
と言って指導するのは考察が浅い。
キュー出しについても「キュー
出し必要なし」と説き出した人
も最近登場し始めたが、それは
「新しい事を言えば人が飛び
つく」という新規性の奇をてら
った言辞で人集めしようとして
いるユーチューバーに多い。
それと怪しげな極めて怪しげな
ユーチューバー整体師とかに。
軽く触っただけで腰が楽になる、
とかやってる怪しげなのに多い。
整体師なのに自分の首が超スマホ
首だったりとか(笑)。
まず自分の骨格と姿勢を直せば?
とは思うが、世の中かなり怪しげ
な者が今の時代には多い。
中には触らずに治すとか宣伝して
いる者もいるので要注意だ。
主として心が病んだ患者さんは
そうしたのに引っかかり易い。

あくまで私の場合は、足裏の荷重
については親指付け根付近エリア
に重要な加重点があると理解して
種目ごとにやっている。二輪走行
や剣術や撞球では。(すべて同じ
足裏の使い方ではない)
また、通常歩行時においても、踵
から接地していても、踵に全体重
を乗せることはしていない。
それをすると尻の筋肉も下がり、
結果として長距離歩行も、疾走も
一切不能になるからだ。
陸上競技で踵ベタ足で走っている
人類はいない。

荷重における加重と過重の使い分
け。区別と適正運用。
これは身体能力に関係なく、身体
を使う事項ではかなり重要になっ
てくる。

オートバイなどの二輪は、ステップ
そのものが「足置き」ではなくて
操縦操作の為のパーツである事が
実際に乗って走行させていると
よく理解できる。


オートバイは四輪車と違い、乗って
走る事自体が非常にスポーツその
ものである事に気づかされる。
それに気づいた時、オートバイは
単なる「空間移動の手段としての
乗り物」を超える。
オートバイは、ライディングその
ものがスポーツなのだ。