2021年韓国映画。
参ったね。
アクション物では邦画はとうに韓国
映画に完敗しているが、SF宇宙物でも
邦画は韓国映画の足元にも及ばない。
やるな。韓国映画人たち。
ただ一つ気になる事がある。
この映画、かなり映像的にも物語的に
も間違いなく面白かった。
だが、登場人物のキャラをだれ一人
として愛せない。物語には泣くけど。
唯一、芦田愛菜のような演技を見せた
幼女だけがキャラ(というよりも存在)
が活きている。
登場人物の誰一人にも好感が持てない
という映画も珍しい。
これでもかという程の「表面的には
嫌な野郎だが本当は良い人」のような
陳腐で幼稚なキャラクタ描写が続くの
は、さすがにげんなり感が強くてかなり
ウザくなる。
簡単に人物の次の言動の展開が予想でき
るからだ。アイゴー。
韓国映画はここの所隆盛著しいが、そう
した直情的な動物的精神状態の人間たち
ばかり描く描写を乗り越えないと、韓国
映画はハリウッド映画にはまったく届か
ないだろう。
ましてや、フランス映画のような作品は
韓国では作れないのではなかろうか。
本作品、原語の韓国語を話す真の主人公
の少女と日本語吹替版、英語吹替版の
声優さんはとても似た声質の人を選んで
いる。
そのあたりの配慮は細かい。
『カリオストロの城』での英語吹替版
ではルパンの声も次元の声もまるで
山田康夫さんたちだったようなメディア
的芸の細かさをこの『スペース・スウィー
パーズ』でもみせている。
映画は原語版のみを観ればよいと
いうものでもない。各国の吹替版に
よる声優陣の声の演技、さらにそれ
ら声優を抜擢するメディア製作者
たちの腕の見せ具合も堪能したい
ところだ。
劇場では味わえない「映画作り」に
触れる楽しさがそこには広がるので
ある。
そうした面も映画の楽しみ方の一つ
である。
かつてアラン・ドロンの日本語吹替
担当の野沢那智さんと日本で面談した
ドロンは「僕の声よりも遥かにいい声
で良い演技じゃないか」と絶賛した。
「声による演技」がいかに重要か
ということを半世紀以上前のドロン
は解っていて、日本人声優を誉め
讃えたのだった。
彼は俳優ながら、根っからの「映画人」
だったのである。
先日、野外にて友人が「ちょっと
ナイフ貸して」と言う。
「お前さん、自分のナイフは?」と
問うと、忘れてきたとのことだ。
「何だそれ、意味わからん(笑)」
と言いながら貸した。
使った時、笑いながら噴き出して
いた。
「なにこれ?めっちゃ切れる(笑)」
そら、あーた、切れるように研いで
いるしなぁ。
しかし、ただ切れるだけではない。
その向こう。それを目指している。
よく切れるだけの研ぎは簡単だ。
アングルを絶対にブレさせずにただ
正確に研げばよい。
その向こうの研ぎというのは、狙っ
た「切り味」を達成させた研ぎだ。
こちとらは結構むつかしい。
摩擦係数の変化と並行分力をどの
ように取り扱って、いかなる状態を
刃先とサイドに漸次的に付加させるか。
ただ座学の知識だけでは駄目だし、
正確で狙った研ぎができる技術だけ
があっても未達に終わる。
要は「知見」という実験結果と経験
に裏付けられた「所見」の発展させ
たものを持っていないと達成できない。
まだまだ研究中。
さらに奥、もっと奥の奥域が研ぎには
存在するはずだ。
死ぬまでには開眼会得できないかも
知れない。
単によく切れるように刃物を研ぐのは
簡単。刃先を物理的に尖らせればいい。
しかし、刃物の研ぎというものは、
根源的にはそうした事ではない。
そんなレベル、そのような次元に属
するものではない。
それを知るまで10年近くかかったが、
それを知った時から現在までさらに
四半世紀以上が過ぎている。
まだまだ奥の奥の領域には私は未達だ。
ガーン!ショック。
仕方ないから、ランチは別なヒーコ屋さんに。
レタスに包丁使っちゃってるけど、まあ
3種類のドレッシング。
このお店はコーヒー屋なので、コーヒー
事が面白いし、そこが味かと思う。
観点では、化学素材のほうが実用品と
しては遥かに優れている。
片手にガバメントでないと駄目なのだ、
というようなものに通ずる感性。
した人の感性について、概略的にせよ
知っている事が面白く思える。
<A-2>
<ダブルライダース -ブリティッシュ->
アメジャンでありながら裾丈をやや伸ば
<DIY改造>
ノーマルではフロントジッパーにカバー
<シングル -トラッカー->
米国の荷役職業運転手の布製ジャケット
ライディング専用に特化した襟のタイプ。
<タイプ>MA-1