1日1日感動したことを書きたい

本、音楽、映画、仕事、出会い。1日1日感動したことを書きたい。
人生の黄昏時だから、なおそう思います。

「自死という生き方」(須原一秀)

2008-03-30 17:35:54 | 
 今日は、雨。「自死という生き方」(須原一秀)を読みました。著者の須原一秀は、この本を執筆した後に、自死します。著者にとって、この本と自死の決行は、「一人称の立場での死の認識論」を展開するという、一つの哲学プロジェクトでした。「平常心で死を受け入れるということは本当に可能か?それはどのようにして可能か?」ということを、哲学研究者の一人として自分自身の心身を賭けて調査・研究したいと、氏は書いています。
 自然死というのは、決して安らかなものではなく、とても苦しいものだそうです。著者は、よい音楽を聴いたり、よい絵を見たり、愛する人とともに歩いたりしたときに、「生きていてよかった!!」と思える体験することを、「極み」と呼びます。種々の「極み」を達成することによって、「自分は確かに生きた」という思いを日々体で納得しているのなら、「病気・老化・自然死」という一連の運命に受動的に流されることを拒否して、自らの尊厳を守るために、主体的に「自死」を選ぶという生き方=死に方があるというのが、著者の主張です。
 確かに、そのような死に方もあるとは思うのです。できるだけ平常心で死を受け入れるために、1日1日大切に生きて、いろんな「極み」を体験しておきたいとも思うのです。しかし、僕は、「自分は確かに生きた」と実感した後で、「自死」を選択するだろうかと思うと、たぶんしないだろうと思うのです。それではお前は、どんな自然死の苦しさに耐えてみせる「積極的自然死派」なのだなと言われると、そうでもないのです。
 僕の父は、肝臓癌で、86歳で他界しました。酸素マスクをいやがる父の姿。確かに父は苦しかったのだと思うのです。僕と父とは、あまり多くのことを語り合わない間柄でした。父が他界する日の朝、父の手を握って、「おとうちゃん、長い間、ほんまにありがとうな。ありがとうやで」って、耳元でささやいたとき、手を握り返す父の握力を感じたのです。今でも、あの握力を、忘れることができません。
 自然死の苦しみの中でも、「これまで生きてきてよかった!」と実感できる「極み」があるのだと、僕には、思えるのです。愛する人の手の温もりかも知れないし、こどもたちの「ありがとう」の言葉かも知れない。それはきっと、去ってゆく者と、残る者が最後に共有する「極み」であると思うのです。
 父も耐えたのだから、僕も、ひとりじゃあかんけど、誰かに支えてもらって耐えたいなぁと思うのです。