以上述べたとおり、私は「七・一閣議決定」は、従来の政府解釈どおり、個別的自衛権でも説明できる範囲内におさまっていると思いますし、この閣議決定の範囲におさまる法案が起草されていくのであれば、憲法上も問題はないと考えています。 仮に日本と関係ない場所で米軍が行う戦争に自衛隊が参加するとしたら、それは明らかに現行憲法で禁じられた集団的自衛権の行使にあたります。しかし、安倍総理とその周辺の人々は、そこまでやろうとしているのだと感じられてなりません。 「明白」という文言はかなりきついものです。単に主観的に危険を感じるだけではなく、客観的に誰もが納得できる状況でない限り、法律上の「明白」とは見なされないのです。
この寄稿文は400字詰12枚ほど、ページ数で6ページ分です。前半で字数の55%を費やして、「七・一閣議決定」が従来の政府解釈の枠内であると判定しています。そして残り45%の字数を、今回述べることに費やしています。これがまた前半の主張と首尾一貫していないのです。
----------------------------------------
(注)囲み内の記事が寄稿文です。(略)とあるのは文間の文章省略のことです。
<7> 安倍政権の閣議決定逸脱を警戒する
むしろ、これから大事になるのは、この閣議決定の限定を逸脱するような法案作りがなされないか、注視していくことです。
(略)今後法整備をするときに、あくまで「防衛出動」の範囲でやらなければいけないということです。その範囲を超える法案が作られないように、厳しく監視していかなければなりません。
そうした暴走には歯止めをかけなければなりませんが、その際に「安倍総理のやり口は立憲主義の否定だ!」と大上段に構えた批判をしても、あまり効果がないでしょう。なぜなら、安倍総理をはじめとする政権側は「集団的自衛権の行使は合憲であり、立憲主義に反しない」と真剣に考えているはずだからです。
では、効果的なやり方は何か。それは、集団的自衛権行使が違憲であることを、細かな憲法論議で諄々と説いていくことだと思います。
木村準教授は寄稿文の前半で、閣議決定という行為の段階では違憲合憲論議の論議の対象にならない。「七・一閣議決定」が個別的自衛権でも説明できる範囲におさまっているので、従来の政府憲法解釈に合っていると主張しました。
それなのに寄稿文の後半では、上記転載のように、安倍政権の今後の法案作りについて警戒をあらわにしています。
<寄稿文の論法整理>
木村寄稿文の論法整理してみます。
① 閣議決定という「行為」そのものは、違憲合憲論議の対象にならない。
※川本注 この見解はまちがいです。閣議決定は内閣法に拠る内閣の行為ですから、違憲合憲論議の対象になります。
↓
② 閣議決定の「内容」そのものは、違憲合憲論議の対象になる。
↓
③ 閣議決定後に制定される法案が、違憲合憲論議の対象になる。
↓
④ 「七・一閣議決定」の内容が、個別的自衛権でも説明できる範囲におさまっている。ゆえに閣議決定の内容は「合憲」と判定できる。
↓
⑤ しかし、安倍政権は法案作成において「七・一閣議決定」の内容から逸脱する可能性が高い。警戒するべきだ。
↓
⑥ それはなぜか? 安倍政権が「集団的自衛権の行使は合憲であり、立憲主義に反しない」と考えてるからだ。
<木村寄稿文の思考経過のおかしな所(1)>
前回触れたように、木村寄稿文では、「閣議決定という結果」と「閣議決定の実体」とを区分して論じています。この考え方がわかりづらい。木村寄稿文の主旨が違憲合憲のどちらに比重をかけているのか、理解するのに何回か読み返して時間がかかりました。
「閣議決定という結果」は法律作成以前であり、違憲合憲論議の対象にならない。しかしその一方で、「閣議決定の実体」である閣議決定文の内容を、従来政府解釈通りで合憲と判定しています。
閣議決定の結果とその実体である閣議決定文は不可分一体のものです。区別する意味がありません。木村准教授はそれをわざわざ区別して、別々の評価を与えています。
なぜそんな無理をするのでしょうか? 「七・一閣議決定」が合憲の内閣行為であるとするための、こじつけの理屈なのだと思います。だから、寄稿文後半部と方向性が相反するものになっています。
<木村寄稿文の思考経過のおかしな所(2)>
寄稿文後半は、安倍政権が閣議決定通りにしないかもしれない、と警戒一色になっています。閣議決定文が合憲であると判定したにもかかわらず警戒一色とは、おかしいではありませんか。
閣議決定文に先行き不安な、あるいは危険と感じる、穴とも言える表現語句がいくつもあることに、木村准教授は気づいているのでしょう。閣議決定文にそういう余地があるならば、違憲の要素を含んでいると、明らかに主張するべきではありませんか。そこを具体的に指摘し、説明して、私たちに警鐘を鳴らしてくれるのが学者の使命ではありませんか。
一方で、北朝鮮のミサイルを例にした「明白な危険」の法律的意味の解説を見れば、「七・一閣議決定」の危険性に対する木村准教授の理解がまだまだ浅いことにも気づかされます。
<8> 「明白な危険」について
たとえば、北朝鮮がミサイル開発をしたとします。それだけでも日本にとっての危険だと感じる人もいるでしょうが、そのレベルでは「明白な危険」とは法的には認定できません。何のための開発なのかが、客観的には不明確だからです。
北朝鮮が日本への攻撃意思を示したうえで、発射基地にミサイルを据えて燃料を入れたという段階なら、誰が見ても納得できる因果経過を説明できるでしょう。そのレベルになって初めて「明白な危険」と言えるのです。
ミサイル開発という状況をもって、明白な危険と言えないのは当然のことです。①日本への攻撃意思を示し、②発射基地にミサイルを据えて燃料を入れた、という二つの条件が揃ったら「明白な危険」の条件を満たす。
この「明白な危険」の条件としてほかにもいろいろな考え方があります。木村准教授は解説材料としてより単純化して示したことでしょうが、しかし日本への攻撃意思を示さないで、戦争が始まることを考えに入れておくのは常識の部類です。歴史上の国境紛争という名の戦争は、明白な攻撃意思表明がないのに、始まってしまっています。わが国日本自身にそういう戦争を手がけた経験があります。
戦いの原則の一つに「先制攻撃」というのがあります。今の日本ではそれは禁じられていますが、政府の関係部署や自衛隊では必ず研究しているでしょう。今すぐにでなくとも、5年後、10年後のうちに「明白な危険」の定義を変えられてはたまりません。
仮に自衛隊の戦術家たちに「明白な危険」とは何かと問うならば、私たちの考え及ばない数々の想定事例を示してくれるでしょう。それに外交上、政治上、憲法上の観点を考え合わせてこそ、「明白な危険」とはどういうものかの姿が見えてくるでしょう。この言葉の定義にはどんな状況が考えられるのか十二分以上に想像力を働かせることが必要だと思います。
<9> 細かな技術的解釈と政権側に迎合的な姿勢
木村准教授のこの寄稿文では、法的な側面からの無意味と思われるような細かな技術的解釈が特徴的です。もう一つ明らかなのは、政権側と争いたくないという取り組み姿勢です。前半のわかりづらい立論、前半と後半の論調の分裂は、この二つに起因するとしか考えようがありません。
テレビ解説の多くは、政論や世論が分裂している場合に、政権側や世論の流れに迎合的です。若く、これからを期待したい新進気鋭の人といえどもこういう傾向が強いことに変わりはありません。また、そういうタイプだからこそ、常連的コメンテーターとして、テレビから呼んでもらえるのかもしれません。こういう新進気鋭の人たちが、この後、人々の側に立って大成していってくれることを願っています。
----------------------------------------
<私のアピール>
2012年末の安倍政権成立以後の短年月、武器輸出3原則の緩和、特定秘密保護法の新設、憲法9条解釈変更の7・1閣議決定と、先行き不安な政策ばかり急激に推進されています。第2次大戦後の日本において安倍政権は最も危険な政権です。
安倍内閣打倒の機運を盛り上げていきましょう。与党であれ野党であれ、安倍首相と同じ考えの人、同じ路線の人を選挙で落としましょう。
<関連記事クリック>
2014/10/01
木村草太准教授(憲法)の月刊誌「潮」9月号7・1閣議決定寄稿文を批判する(上)
2014/10/04
木村草太准教授(憲法)の月刊誌「潮」9月号7・1閣議決定寄稿文を批判する(中)
2014/10/06
木村草太准教授(憲法)の月刊誌「潮」9月号7・1閣議決定寄稿文を批判する(下)