30歳を前にして、私は京都に良い転職先を得て東京を辞し、帰郷しました。私は長男です。母は女手で私と弟を育ててくれました。私は母といっしょに住むのだと早くから心に決めていました。そして、将来、妻子と母とを東京の会社勤めで暮らしていくことに自信がなかったのです。それで京都に帰ることにしました。母といっしょに住みたいと思っていましたし、住まなければいけないと思っていました。
それからまた3年後、叔父の引きで奈良県に移りました。叔父が小さな会社をしていて、その右腕にと望まれました。その仕事は測量・土木設計業でした。建設関連業で、カルチャーショックを感じるほどにそれまでの人生とは別世界のことでした。場所は奈良県の田舎で、都市化しているとはいえ、これまたそれまでの人生環境とはかけ離れていました。
ここで仕事に打ち込み、仕事に慣れ、結婚もして、奈良県人となりました。仕事の場所も生活の場所も同じ地域です。仕事の顔と生活者の顔とを使い分けができません。これはやり辛いところがあります。仕事でも日常生活でも、同じスタイルで過ごすということは、24時間体制で自分の生活に責任を持つということになります。
それで、人間はけっこう自分自身をごまかして、世間さまに向かって、他人さまの前で偽った自分の姿で応対していることに気づきました。仕事の場と生活の場が同一平面で重なっていますから、きれいごとで、偽りの仮面で、日常生活の場面でやり過ごしたり、逃げ切ったりすることが大幅に制限されるわけです。裸の自分の姿を、人に見られるのはいやなことでした。
それでも独身の間は切実なものではありませんでした。やがて結婚をして子どもができてくると、そのあたりが切実になってきました。ええい、ままよ。気取りを捨てて、素の自分の姿、素の家族の姿で出歩くうちに、私の人間性も変わってきました。気取りのない方へ。良い方へ‥‥。
仕事柄、地主さんとの出入りが多かった。地元の役場に出入りすることも多かった。私の住んでいる地域はもともと、田畑と里山の山林があるだけの農村でした。さいわいに2~3km圏内に鉄道駅がありますが、昭和40年代に住宅開発が始まるまで、道路と言えるほどの道はなかったと聞いています。狭い地道があるだけでした。ですから、地主さんは地元の旧農家であり、役場職員はほとんどが周辺地域旧農家の出身です。
私の住んでいるところは今は、都市化しています。最寄り駅には「いずみや」と「西友」があります。住宅地の中には「サティ」があります。私の住む地域には、大型食品スーパーが4つもあります。病院もすぐ近くに2つあります。私はこういう町に住んで、自治会長と高校育友会長を経験しました。
(その1)で話した生い立ちとここで話した生活経験から、「私の世代から人の気持ちが変わった」と思っています。