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生涯を完結させるまでに歌いたい歌、最近始めたヴァイオリンとフルートはどこまで演奏できるようになるか、と時々ワンコ

死は人生の終末ではない。 生涯の完成である。(ルターの言葉)
声楽とヴァイオリン、クラシック音楽、時々ワンコの話。

作品再演率ランキングがあったとすると 交響曲部門第一はブラームスですね

2016-11-16 00:00:07 | 思うこと

 クラシック分野に限らずあらゆる分野の作曲家を対象として考えたとしても、作曲した作品の全てが何度も演奏されるということはないですよね。中には一度も演奏されずにお蔵入りになる作品だってある(というよりも少なくない、むしろ多い?)と思います。モーツァルトやベートーヴェンのような音楽史上の巨人の作品といえども、その様な不人気作品の一つや二つ(3つや4つやそれ以上)あろうかと思います。

 クラシック作品の中でも人気部門と思われる交響曲=シンフォニーに限っていっても、ベートーヴェンの交響曲でも3番「英雄」、5番「運命」、6番「田園」、7番、9番「合唱付き」以外の作品が演奏される機会はかなり珍しいのではないでしょうか?モーツァルトの番号付き交響曲ではっきりと認識しているのは40番のト短調交響曲と38番の「プラハ」は印象に残っていますが、39番と41番も少なくとも録音では聞いているはずですが、たった今現在ははっきりとは思い出せません。交響曲の父と呼ばれるハイドンの作品に至っては、100曲以上ある中で、「告別」や「驚愕」ぐらいしか印象に残っていません。

 録音を含めてというか録音が殆どですが、私が好きで最も回数多く聞いた交響曲は間違いなくチャイコフスキーの5番です。6番「悲愴」よりも遥かに好きな作品です。チャイコフスキーの番号付き交響曲6作品でも人気が高いのは後半の4・5・6番ですね。ショスタコーヴィチの交響曲全曲盤のCDボックスセットもオークションで購入して、少なくとも一回は全曲を聞きましたが、2度と聞かない作品の方が多そうですね。聞いた話ですが、日本のアマチュアオーケストラで演奏される頻度が最も多いのは、シューベルトの「未完成交響曲」とのことですね。アマオケのベテラン楽員ともなると、何度も「未完成交響曲」を弾いているのだそうです。これがオーケストラの舞台で歌う機会がある合唱団にとってということになると、俄然ベートーヴェンの第9交響曲「合唱付き」になるのは誰もが納得していただけると思います。中には第9を100回歌った等と回数を自慢する方も居たりするのですが、私が音楽に求めるものとは違うものを求める人も居るのだなと思って近づかないようにしていました。

 マーラーの交響曲はその点で全ての作品に人気があるように思います。とは言え第8番「千人の交響曲」は人気はあるものの実際に演奏される機会はあまり多くない(舞台装置が大掛かりに鳴らざるを得ず、なかなか演奏会で取り上げられない)というハンディを背負っているように思っています。それでも日本全国でみれば数年に1回は演奏会で演奏されているように思います。中には一年間に複数回演奏された歳もあったかと思います。

 ことほど左様に、人気分野の交響曲と言えども作曲家が残した交響曲全てが頻繁に演奏されているという作曲家は殆どいないと申し上げたいところではありますが、例外的に全ての作品が頻繁に演奏される作曲がいました。そうです、ヨハネス・ブラームスですね。ブラームスの交響曲は1番から4番まで、たまたま耳に入って来たと言うような状況でも、ああ、ブラームスの交響曲だな、とは直ぐに識別出来ます。もう少し若い時ならブラームスの交響曲何番の何楽章のどの辺りまで、認識出来ていました。何と言っても4曲しかなくて、しかもその4曲の何れもが完成度・充実度で比較しても何れも勝るとも劣らない傑作で、ブラームスらしい華美ではないが構成がしっかりしているので音楽の流れに見を委ねていれば安心して(過剰な集中力を求められずに)フィナーレの興奮にまで連れて行ってくれる。

 この記事の中に引用した交響曲作曲家のそれぞれの作品を見ると、それなりにそのスタイルにヴァリエーションがあって、それぞれの交響曲毎に新しい手法や表現様式などに対する様々な試みが行われているように思います。マーラーの作品では声楽無しの純器楽作品と声楽付き=交声曲とが混在しています。その様な中であらためてブラームスの4つの交響曲を思い浮かべると、ブラームスの4つの交響曲それぞれに確固たる個性があるので、聞きさえすれば何番の交響曲か間違えることなく識別できるものの、他のどの交響曲作家が作曲した複数の交響曲を比較したときよりも、ブラームスの4つの交響曲の構成には非常に統一感があるような気がしませんか?

 ベートーヴェンの3番、5番、6番、7番、9番は何れも構成という点で類似点よりも相違点の方が目立つように思います。チャイコフスキーの4番、5番、6番もそれぞれ同じスタイルで作曲されているとは言い難いように思います。マーラーにしろショスタコーヴィッチにしろ、交響曲ごとの構成については、統一性があるというよりも、様々な構成に変容させても自在に作曲できる能力を誇示しているようにすら思えます。

 その点、ブラームスは、各作品の構成という点においては変に奇をてらうことなく、クラシック音楽にある程度聞き馴染んだ耳の持ちてであれば、安心して音楽の進行に見を委ね、和声の展開=響き=サウンドという波のうねりの上に展開されるやや牧歌的というか農村的というかそんな旋律を辿っていくと、自然と盛り上がっていつしか一つの大きな作品が最後の終止和声を鳴らしている瞬間に立ち会っている自分を見出す。だから交響曲作曲家の中でブラームスが一番好きという人は実際には居てもおかしくは無いと思うのだけれど、どちらかというと密やかにブラームスの交響曲を愛している人たちですね。マーラーやベートーヴェン等の交響曲は、もう絶対にマーラーやベートーヴェンの交響曲が最高で、他の作曲家の交響曲はこの世に無くても大して困らないぐらいは平気で吹聴するコアなファンが多いのではないでしょうか。

 ブラームスの交響曲は嫌い、少なくとも好きではない、というクラシック音楽愛好家には私はあったことがないですね。ブルックナーの交響曲は長すぎて飽きるとか、マーラーは情念重すぎるとか、ショスタコービッチは政治的すぎるとか、まあ好きでない作品は聞かなければ良いだけの話です。その点ブラームスの4つの交響曲は様々な特徴に100点満点の120点はないけれど、どの特徴も80点以上、いやいや95点以上。非常にドイツ的な構成のはっきりした建築のような作品ということで、実は骨格がしっかりしているからこそ内装や家具の配置等で明るさ・軽さを表現することにも成功している、それでいて骨格のしっかり感も聴衆に間違いなく伝えている。これはやはりブラームスよく似合う、「いぶし銀」の魅力ということなんでしょうね。

 


PARCO出版 「現代音楽CD×100」

2016-11-14 21:23:44 | 論文・資料紹介、書評

 大手のネット通販のほしいものリストにだいぶ以前に登録したものの、購入に至っていませんでした。久方ぶりにリストの下の方まで見直していたら古書の値段が大分こなれていたので、発注したところ本日届きました。

 タイトルだけに注目していましたが、出版社はPARCO出版だったんですね。渋谷の公園通りの山手教会の上にかつてあった百貨店の出版事業ということでしょう。発行所の所在地は渋谷区宇田川町になっています。

 CDのガイドブックの類は何冊か持っていますが、「現代音楽」を謳うだけあってこれまでのものとはいささか趣きが異なります。おそらくこれまでに持っていたガイドは殆どが一人の著者によるものですが、この「現代音楽CD×100」は8人の執筆者によるもので、またクラシック音楽の「現代音楽」にとどまらず、「ジャズ」、「ロック」、「タンゴ」、「映画音楽」等も対象になっていると前書きに書かれています。更には私自身の不勉強もあると思いますが、取り上げられている100枚のCDの内でその作品の作曲家を知っていたのは、ピエール・ブーレーズ、ジョン・ケージ、ヘンリク・グレツキ、伊福部昭、諸井誠、西村朗、グレゴリオ・パニアグア、アルヴォ・ペルト、アストル・ピアソラ、アルフレート・シュニトケ、高橋悠治、武満徹、タン・ドゥン、イヤニス・クセナキス、吉松隆の各位ぐらいですね。15名ですから1割5分、残りの85枚についてはその作曲家(中には演奏団体・グループ)の存在すら知らなかったということになります。

 また、前書きにも書かれていますが、所謂現代音楽を網羅できるものでもないとのことから、シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンの新ウィーン楽派も、シュトックハウゼン、グバイドゥーリナも取り上げられていません。例えば武満徹の頁を開くと、「ノヴェンバー・ステップス」のタイトル自体は紹介の中に引用されていますが、対象となるCDはアメリカ映画に作曲したアルバムの「ライジング・サン」です。私自身はこの曲を知りません。もしかしたら聞いたことがあるのかも知れませんが、少なくとも武満徹の作品として認識してはいません。紹介文を読むと聞いてみたくなります。とりあえずネットの通販サイトでCDを検索してみたところそれらしい中古CDが出品されているのを見つけましたが、定価の2~3倍のプレミアムがついているようで直ぐに購入する気にはなれません。

 気の向くままに読み進めていって、これは是非聞きたいという記載を見つけたらCDを購入して聞いてみようと思っています。さて、この「現代音楽CD×100」に収録されているCDを少なくとも1枚は以前から所有していることに気付きました。グレゴリオ・パニアグアの「古代ギリシャの音楽」がそれです。古代ギリシャの楽譜が現在にまで伝わっているわけはありませんが、古代ギリシャ時代の壁画から僅かに読み取れる情報を元に、現代の作曲家であるパニアグアが再生と言うよりは創造したと言う方が近いと思いますが、紹介文を読むとパニアグアのCDに対する思い入れが伝わって来ます。そしてそれは私自身が初めてこのCDを聞いた時の驚き、ある種の生々しさとも言うべき感情が共通するように思いました。パニアグアの「古代ギリシャの音楽」のCDも現在でも流通しているようですので、古楽に興味のある方は是非一度お聞きになることを薦めます。


サ・シ・ス・セ・ソなのか シァ・シィ・シゥ・シェ・シォなのか ?

2016-11-13 22:09:02 | より良く歌うために

 発音の話です。主に英語を対象として、日本人は「L」と「R」との違いを聞き分けられない=発音し分けられないと言われています。確かにその通りですが、日本国内にとどまらず世界中で有名な話になっており、そのため「L」と「R」とを聞き分けられるようになるためのソフトも随分前に販売され、それを利用して私自身99%以上聞き分けられるようになっています。聞き分けられるようになれば自然と発音も区別できるようになるものです。

 「L」と「R」との区別とは、イタリア語やドイツ語の発音で言えば巻き舌にするかしないかの違いに置き換えることも出来ますが、文字情報で区別するよりも遥かに、音声情報で区別するのは困難です。音声情報で「L」と「R」との区別が概ね出来るようになると、次の課題としては「S」と「Sh」になろうかと思います。私自身が「L」と「R」との使い分けが出来る様になった後で、2007年の1月に勤務先の費用負担で1ヶ月間ニューヨークの語学学校に短期語学留学研修に言った時も、「S」と「Sh」の使い分けがきちんと出来るようにしたいと意識していました。私が研修に行っていた後半にフランスから研修に来た魅力的な女性と同席するようになりました。アメリカ人の講師によれば、国籍によって明らかに英語発音に関する得手不得手があるそうで、当然日本人は「L」と「R」との使い分けだそうですが、フランス人にとっては「H」の発音が母語に無いため不得手だそうです。フランス人にとっては「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」は「ア・イ・ウ・エ・オ」ですね。ただフランス語の「e」は音としては「ウ」になるので「ア・イ・ウ・ウ・オ」でしょうか。

 私が通った語学学校で与えられた教材の中には、次のような早口言葉=Tongue twisterもあって、英語を母国語にする人にとっても「S」と「Sh」との区別は必ずしも容易では無いのだろうと思って安心した次第でもあります。

She sells seashells by the seashore.
The shells she sells are surely seashells.
So if she sells shells on the seashore, I’m sure she sells seashore shells.

 と言うことで長年気になっていた「S」と「Sh」の使い分けですが、音声情報だけでは中々区別することはできず、視覚=文字情報と音声情報とが整理・統合されて初めて使い分けが出来る水準への道が開けると思います。正にその瞬間が今日ありました。そのきっかけが何だったのかは忘れてしまいました。あまりにその結果が際立っていたからです。つまりはネットで検索したところ強引に区別するのであれば「S」は「サ・シ・ス・セ・ソ」、「Sh」は「シャ・シィ・シゥ・シェ・シォ」と考えると大きな間違いは無いとのことです。また「L」と「R」の区別は元々日本語のカタカナでは書き分けようが無いのに対して、「シ」と「スィ」とは書き分けられるにも関わらずどちらでも日本語としては概ね通じるためにかえって区別し難くなっているのではないかとの指摘もありました。

 これまでの物心ついてからですら半世紀以上になる自分の来し方を振り返っても、気付く機会はいくらでもあっただろうにと思いますが、「S」は「サ・シ・ス・セ・ソ」、「Sh」は「シャ・シィ・シュ・シェ・シォ」と言うことを意識して使い分けたいと思います。”何故今まで気付かなかったのだろう”と思うべきか、”良いことに気がついた、良しこれからに活かそう”と思うべきか。”何故今まで気付かなかったのだろう”という反省を踏まえつつ、”これからに活かそう”と思います。


牡蠣の季節ですね 素材の旬は料理の技術を凌駕する

2016-11-12 21:03:42 | グルメ

 家族が応募した抽選が当って、クーポン券を貰えました。そのクーポン券を使って早速外食に言ってきました。お薦めは旬の牡蠣だそうです。と言うことで旬の生牡蠣とメインディッシュとを注文しました。加熱しない分か、直ぐに生牡蠣が届きました。なるほどお薦めと言うだけあってぷりぷりして美味しかったです。それと同時に熱を加えたらより旨味が引き立つのではないかと思い、追加でカキフライも注文してしまいました。メインディッシュが来た後からカキフライが届きましたが、今日の外食のクライマックスはメインディッシュよりもカキフライの方でした。熱々過ぎて旨味を十分に堪能できなかったきらいがあったのが心残りですが、それでも生牡蠣よりも熱を加えたほうが遥かに旨味が立ちますね。

 一昨日は、ご近所からご主人が趣味で釣り上げたイナダを頂き、刺し身とタタキで頂きました。美味しかったです。食べきれなかった分を昨日はソテーにして食べましたが、これがまた家庭料理の味の範疇を突き抜けて、プロのレストランの逸品に勝るとも劣らない味。全ての美味しさは、料理の技術よりも素材の旬が持つ力が勝ると思った次第です。あるいはその旬に応じた食材を選択することが提供する側の責任、あるいは最も求められる眼力とも言えましょうか。

 聞き手が特定のパトロン限定であったベートーヴェン以前の時代であれば、作曲家・演奏家のパトロンが求める音楽を提供することが指名でした。現在では聞き手が不特定多数になったため、作曲家にしろ演奏家にしろ、ある程度の要求量が存在する、いわゆるボリュームゾーンにターゲットを絞らないと経済的に厳しいことになってしまいます。佐村河内氏と新垣氏とのゴーストライター問題も、正にボリュームゾーンが求める音楽とニーズに乏しい現代音楽作曲家の経済問題があるからこそ生じた問題だと思っています。

 単に美味しい旬の食材を食べたと言うだけで、この様な記事をアップするのも如何なものか、という気も感じてはおります。が、私自身の音楽的嗜好は、フランス(現代)音楽嗜好、現代音楽嗜好で、現在の日本のクラシック音楽愛好家の世界では少数派に属すると常々思っているので、美味しい刺身と焼き魚、生牡蠣とカキフライを食しただけで私が聞きたい作品を生の演奏会で聞く機会は少ないだろうな、との思いについつい至ってしまいます。


結膜下出血

2016-11-11 23:07:27 | 疾病・薬等のはなし

 私の仕事は、ほとんど全てパソコンの画面とにらめっこする業務です。今時珍しくはない業務とは思いますが、一般的な業務レベルに比べ遥かにVDT作業密度が高いため、他の職場で標準的に配布されているスクエアタイプのディスプレイではなく、当部署独自の予算でワイドタイプのディスプレイ、更に希望すれば全社標準のスクエアタイプ+部署独自のワイドタイプとのデュアルディスプレイも選択できます。私は当然デュアルディスプレイにしてもらっています。標準のスクエアシングルディスプレイに比べ、その圧倒的な使い心地の良さに、自宅のディスプレイもワイドタイプに即交換しました。

 ことほど作用なVDT作業密度の高い業務ですが、先週の後半から本当に目に負担のかかる作業が続くようになりました。正確に言えば先週の金曜日に殊の外目に対する負荷の高い作業があって、その眼精疲労が今週に持越している感じです。それが原因かどうかは判りませんが、右目の白目部分に、充血ではなく出血が見られました。医学用語では結膜下出血と言うそうです。例えばボールが目にぶつかった等の外的な刺激で起こるそうです。その様な外的刺激があった心当たりは全く無いのですが、目の奥が凝る感じが強かったので目頭の上あたりを強くは指圧していました。結膜下出血だけであれば、そのまま放置しても2週間ぐらいで出血が自然と吸収されて自然治癒するようです。結膜下出血だけであれば僅かなゴロゴロ感等の違和感を感じる場合もあるそうですが、痛みやかゆみなどは感じないそうです。なので白目の出血だけなら放置しても構わないそうですが、少しでも違和感を感じた場合は眼科を受診したほうが良いそうです。

 目の疾患については短時間で失明する場合もありますので、出来るだけ早く眼科を受診したほうが良いと思っています。とは言えそれまでの自分自身の経験から、ものもらいぐらいなら眼科を受診せずに放置したこともありますね。30代で右目の視野の中央にドーナツ状の暗部が現れた時は直ぐに眼科クリニックを受診して、中心性網膜炎と診断され、大きな病院の設備の整った眼科を紹介され精密検査を受けました。その結果病変が網膜の中心部に近すぎてレーザーでは焼けないということで、症状が消えるまで暫く服薬のみで治癒したことがあります。当時はまだ視力2.0程度を保持していて、かかる眼科医毎に良い目だと褒められた気がします。思い出してみれば中心性網膜炎に羅患した当時、完治はするけれど歳を取ると中心性網膜炎を発症した側の目の視力がどうしても落ちがちになると言われたような気もします。確かに老眼が気になるようになったころから、中心性網膜炎を発症していない左目に比べ、発症した経緯がある右目の方が視力の低下が激しい様です。

 健康とは失って初めてそのありがたみが判るもの。人間は外部から得る情報の9割以上が視覚情報と言われています。歳を重ねてから視力を失うことは日常生活の制約が極めて高くなります。仮にベートーヴェン程の能力を有していれば、聴力を失っても音楽を楽しめることは出来るのかも知れません。一方で声帯を失うことになると音楽表現の手段としての歌を失うことになり、すなわち生き甲斐の喪失となっていたかも知れません。声楽技術に対しては比べものにならないほど稚拙な段階ではありますが、ヴァイオリンを始めたことで声帯を失っても音楽表現の手段が残されるようになったと言っても良いのかもしれません。しかし、まだ人に披露できるほどの曲は何もなく、声帯を失うだけならヴァイオリンを次の集団として練習することに希望をもって集中することが出来ますが、視力か聴力かのどちらかを失ったとしたら、ヴァイオリンの上達もほとんど期待できないだろうと絶望が残るのみのように思います。この様な不安に苛まれないためには、生活習慣を見直して健康な人生を歩むべきですね。この半年飲酒しない日は一日もありませんでしたが、そろそろ休肝日をつくろうかと考え直しています。その様に思うなら今日から実行すべきですが、複数の要因が重なった結果、この金・土・日の週末は飲酒日にして、来週の月~金の内の2日を休肝日に当てようと考えています。頑張ります。