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生涯を完結させるまでに歌いたい歌、最近始めたヴァイオリンとフルートはどこまで演奏できるようになるか、と時々ワンコ

死は人生の終末ではない。 生涯の完成である。(ルターの言葉)
声楽とヴァイオリン、クラシック音楽、時々ワンコの話。

ガブリエレ・ダヌンツィオ詩 トスティ作曲 死ぬには Per morire

2016-12-15 23:06:48 | トスティ

 日本で活動されているロシア人バリトン歌手のヴィタリー・ユシュマノフ氏の2ndCD「愛の言葉」全19曲の最後の19曲目に収録されているのが、このトスティの「死ぬには」です。トスティの歌曲には「死」という言葉がついているものが他にもあります。「私は死にたい(Vorrei morire)」は私の好きな曲で本番で歌ったこともあります。その詩の内容は、どうせ死ぬなら美しい自然の中で、その自然が最も輝かしい季節に死にたいものだ、という内容です。西行法師の和歌、「願わくば花の下にて春死なむ、その如月の望月のころ」に通じる世界だと思います。

 この「死ぬには(Per morire)」はユシュマノフ氏のCDのライナーノーツに記された日本語訳によれば、「この愛は、死ぬためには足りるけれど、生き続けるには足りない」と恋人に対して心の中で語りかける内容となっています。全音出版のトスティ歌曲集1には収録されて無く、ユシュマノフ氏のCDで初めて聞きました。八分休符、4分音符、4分音符、4分音符、8分音符の、ンタータータータという流れるリズムにのってシンプルではあるが伸びやかな旋律が続いて行きます。特段音域が広いわけでもなく技巧が必要でもなく、初学者でも歌えないことはない曲だと思います。とは言え歌いこなすには息を流し続ける基礎体力が必要です。また技巧を必要としないだけ声の良さが聞き手の印象に強く残ると思います。この点でユシュマノフ氏がこの曲を選んでいることに納得が行きます。

 歌唱技術を磨くためではなく、声の良さを磨くための練習曲として適当な曲だと思います。全音のトスティ歌曲集2には収録されているようです。ということで早速全音のトスティ歌曲集2を購入しようかと思いましたが、ペトルッチ(IMSLP)に単曲で楽譜が公開されていました。これまでは詩の理解ばかりを気にしすぎていたように反省しています。歌の魅力には声自体の魅力もあるということをユシュマノフ氏の歌唱を生とCDとで聞くことであらためて認識し直しました。もう半年以上も真面目に歌っていませんが、そろそろ本格的に声楽の練習を再開して、喉にこびり付いたサビを落とさなければと思っています。


日本で活躍するロシア人バリトン歌手ヴィタリー・ユシュマノフ氏が歌うトスティの歌曲

2016-12-12 23:01:39 | トスティ

 先日来、日本で活躍するロシア人バリトン歌手ヴィタリー・ユシュマノフ氏の歌を取り上げています。私が把握しているユシュマノフ氏の経歴では、2015年春に活動拠点を移して日本トスティ歌曲コンクール第1位及び特別賞受賞、2016年は第14回東京音楽コンクール声楽部門第2位、第52回日伊声楽コンコルソ第1位及び最優秀歌曲賞を得ているそうです。また2015年にデビューCD「歌の翼に」、2016年にセカンドアルバム「Parole d'amore(愛の言葉)」をリリースしています。

 ということで私が購入したユシュマノフ氏のCDがこのセカンドアルバムであったわけです。その中には初めて聞くチェスティの「どこに迷い込んできたのか?」もありますが、ヴェルディのアリアと歌曲が4曲、ベルリーニが3曲、ジョルダーノ、ドニゼッティ、カルダーラ、ジョルダーニがそれぞれ1曲納められています。そしてトスティの歌曲が7曲。2015年の日本トスティ歌曲コンクール第1位を獲得した自信からの選曲とも思いますが、CDを聞いてもきれいなイタリア語で歌われています。予め知らなければロシア人が歌っているとは思えないのではないか、イタリア人が歌っているように自然に思い込んでしまうのではないかと思います。「Parole d'amore(愛の言葉)」のライナーノーツにはユシュマノフ氏自身の挨拶文も載せられており、その中で如何なる国の声楽家にとってもイタリア語は第2の母語となるという主旨の言葉が書かれています。

 さて、私がユシュマノフ氏のCD「Parole d'amore(愛の言葉)」を聞いて目から鱗が落ちた思いがしたのは、何よりもトスティの歌曲を深く豊かな低中声で歌うことの魅力を再確認できたことです。これまでもイタリア人バリトンの大御所であるレナート・ブルゾンの歌う歌曲のCDを聞き込んだりしていますが、同じバリトンでもイタリア人のバリトンとロシア人のバリトンとの差のなせる技でしょうか?それとも録音を編集する技術あるいは編集によって仕上げる音の好みの違いでしょうか。レナート・ブルゾンもヴィタリー・ユシュマノフも同じバリトンとは言え、ブルゾンの声はどうしてもイタリアという看板から連想してしまう明るく伸びやかな重心の高いバリトンに聞こえます。一方のユシュマノフの声は必ずしもバリトンという範疇に納まりきらないバスと行っても納得させられてしまう深さを備えています。これまでトスティに限らずイタリア人作曲家のオペラや歌曲は、どうしてもソプラノやテノールといった高声系のイメージを払拭できずに、どこかしら後ろめたさを感じながら歌って・聞いていたのに対し、ユシュマノフの歌唱はテノールが逆立ちしても出せない低・中声の魅力を前面に押し出しながら何のケレン味もなく低・中声の魅力でイタリアのアリア・歌曲を歌っています。

 これまでに私自身がさらったトスティの曲では「理想の人(Ideale)」、「さようなら(Addio)」と一昨日取り上げた「暁は光から暗闇を分かち」の3曲が「Parole d'amore(愛の言葉)」に収録されています。この中で特に「Ideale」については本番で歌った曲でもあり自分なりにかなり研究した曲です。しかし、当たり前と言われれば当たり前ですがユシュマノフ氏の歌唱を聞くと、過去の自分の歌唱が比較にならない稚拙なものであったことを思い知らされました。ユシュマノフ氏の生演奏を聞いた際には、こんなに魅力的なバリトンの声で歌う人間が居るのであれば何も私ごときが歌をうたう必要は全く無い、と思い此処半年実質的に全く歌っていませんがユシュマノフ氏の声と歌唱を聞けたことで完全に歌を辞めようかとも思いました。

 ユシュマノフ氏のセカンドCD「Parole d'amore(愛の言葉)」を購入して以来、何度も繰り返し聞き直していますが、そうするとこの様に歌えばよいのだということが幾つか自分の中に芽生えてくるものがあります。ということであらためて「Ideale」と「Addio」とを歌い直し、更にキィを少し下げて「暁は光から暗闇を分かち」を今度こそ歌い込んで見たいと思い始めているところです。

 オペラではソプラノやテノールという高声系が主役を務め、アルトやバリトン・バスと言った低・中声系はどうしても子分や召使、老人、悪者といったイメージがあり、高声系に対するコンプレックスが全く無いとは言い切れない方もいらっしゃるかと思います。そんな方には是非ヴィタリー・ユシュマノフ氏のCD「Parole d'amore(愛の言葉)」を聞いていただいて、低・中声の魅力を再確認して頂きたいと思います。


ヴィタリ・ユシュマノフが歌う 作詞ガブリエレ・ダヌンツィオ 作曲トスティ 「夜明けは光から暗闇を分かち」

2016-12-10 22:50:27 | トスティ

 トスティの歌曲の中でも人気のある「夜明けは光から暗闇を分かち」、あるいは「暁は光から闇を分かち」とも訳されていると思いますが、私としても大好きな曲です。原調ではAsかAのロングトーンがあって、私の音域ではギリギリアウトで、何時か高音域側に声域が伸びたら歌いたい曲としてリストアップしています。

 日本で活躍されているロシア人バリトン歌手のヴィタリ・ユシュマノフ氏のCD「PAROLE D'AMORE」にはトスティの歌曲が7曲収録されています。私自身歌った曲もあれば初めて聞く曲もありました。オペラの中の曲とは違い、歌曲であれば音域的に無理があれば転調して歌えば良いとは思っています。それでも歌えるものなら原調で歌いたいというこだわりもあり、練習していればもう少し音域も広がるだろうと思って、原調で歌える日が来ることを望みながら今に至っているという、私なりに少々こだわりのある曲ではあります。

 歌詞は意味深と言えば意味深ですが、男性が思いを寄せる女性に対して二人だけの愛の世界に沈溺できた夜から、否応なしに光が指す日常に戻らざるを得ない様子を描いているものでしょうか。テノールの歌う音源が殆どです。バリトンが歌う音源はユシュマノフ氏の「PAROLE D'AMORE」で初めて聞いた気がします。その歌唱は当然のことながらバリトンの美しい声が魅力です。絶対音感を持っていないので判断できませんが、おそらく2度か3度程度は移調しているのではないかと思います。テノールの歌う「夜明けは光から暗闇を分かち」も魅力的ですが、バリトンの、それもユシュマノフ氏の美声で歌われる「夜明けは光から暗闇を分かち」の方が、多くの女性の胸に響くのではないかと思います。

 ことほど左様に、ヴィタリ・ユシュマノフ氏というバリトン歌手の歌には様々にインスパイアされることがあり、これまでの判った気になっていた詩に対する姿勢をあらためて見直す機会となっています。ということで原調に拘らずに「夜明けは光から暗闇を分かち」を移調して歌おうと思っている今日この頃です。


トスティ   レオナルド・コネッティ   私は死にたい

2016-06-10 21:42:11 | トスティ

 暇です。主治医が今月いっぱい自宅静養の必要があるとの診断書を書いたため、出社しても出勤にしてくれません。収入にも影響してきますが一ヶ月余りであれば少々貯金を吐き出すぐらいで何とかなるでしょう。昨日までは愛犬のチワワ、リリ姫を散歩に連れ出していたのですが、まだ自動車だの他の犬だのが怖いようで行きたがらないため、今日は散歩はお休みです。

 新たに飲み始めた気分安定剤のラミクタールの副作用だと思いますが、昼間は眠いです。朝食を食べて寝て、昼食を食べて寝て、夕方からやっと起きだしてという具合ですね。で、昼寝ているからか夜寝ようとしても眠れずに睡眠導入剤を服用していますが、ラミクタールを飲む以前はグッドミン0.25mg1錠で済んでいたのが今は2錠でも足りないぐらいです。

 少しづつラミクタールの副作用にも慣れてきたか、携帯音楽プレーヤーにひたすら放り込んで来たCDライブラリーから適当に選んで聞きながら寝具に横たわって何となく聞いていました。レナート・ブルソン(イタリアの名バリトン)が歌うトスティのアルバムが流れて来ました。その中で久しぶりに再会したのが「私は死にたい」です。少々物騒な曲名ではありますが、西行法師の和歌に”ねがわくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ”に描かれた”ねがわくは死なむ”と殆ど同じ世界を歌っている歌詞です。3節からなる有節歌曲で、前半は短調後半は長調となっています。

 声楽レッスンを受けるようになった最初の先生のところで、最初の発表会で歌ったのはトスティの「イデアーレ(理想の人)」一曲でした。翌年の発表会は希望者のみということで持ち時間も長くなり、トスティから「君なんかもう」、「最後の歌」、「夢」、もう一曲先生から何か言われたのですが、自分で全音のトスティ歌曲集を全曲当たってみて、是非「私は死にたい」を歌わせて欲しいとお願いしてOKをもらった曲ですね。「最後の歌」はシューマンの「詩人の恋」の「あれはフルートとヴァイオリン」に似た内容ですが、「君なんかもう」はイタリアの男は失恋すると此処まで女々しくなれるのかという内容に感じます。それに比べると「イデアーレ」や「夢(ソーニョ)」は割りと客観的な表現になっていますし格調高いと言っても良いと思います。さらにこの「私は死にたい(Vorrei Morire)」は、西行法師の”ねがわくは・・・”を直ぐに思い起こさせました。洋の東西を問わず、それぞれの時代の選良たる知識人が優れた完成で切り取った世界が再現されていると思います。トスティの作品といえば日本の声楽界でもイタリア古典歌曲集の次に取り上げられる作品と思いますが、その中では「私は死にたい」はあまり(殆ど?)歌われていない気もします。まあ詩の内容が若者向きではないからかも知れません。しかし多くの人に聞いて欲しい、歌って欲しい歌です。


トスティ マレキアーレ

2016-02-02 23:40:01 | トスティ
 2月14日に”大人の学芸会”の冬の本会として、五反田文化センター音楽ホールで、K氏のギター伴奏でトスティのマレキアーレと最後の歌、クルティスの忘れな草の3曲を歌う予定です。”大人の学芸会”という集まりは器楽、特に弦楽を中心にした集まりなので、声楽教室のあつまりのように何でもかんでも暗譜で歌う=演奏するという文化はありません。むしろ明譜で演奏するのが当たり前の文化です。で、私自身も暗譜至上主義ではないので、これまでは当たり前のように明譜で歌って来ました。それが1月28日にたまたま聞きに行った某声楽教室の発表会で、改めて歌詞を理解してというよりも言語そのものを理解して歌うことの説得力を目の当たりにして、今更ながらマレキアーレの歌詞の暗譜に取り組んでいます。他の2曲は暗譜しなくて良いのか?という声が聞こえて来そうですが、これらの3曲の中で最も早口言葉で覚えなければならない単語が多いのは間違いなくマレキアーレです。後の2曲はそれなりにメロディックで旋律にそれほど無理矢理歌詞を詰め込むという感じはありません。この3曲の中では間違いなくマレキアーレが最も早口言葉で旋律に無理矢理歌詞を詰め込んでいる歌だと言えるでしょう。ということで今回は後の2曲は楽譜をガン見だとしても、マレキアーレだけは極力歌詞をその意味も含めて覚えたいと思っています。

 それでそのトスティのマレキアーレですが、様々な歌詞で歌われているようですが、どうも私がCDや動画サイトの音源などを聞いている限りでは、ペトルッチ(IMSLP)に公開されているピアノ伴奏版の楽譜に記されている通りの歌詞を歌っているものが多いと思います。というよりもほとんどがその歌詞で歌われているようです。パヴァロッティもその歌詞で歌っています。そうなんですが、何故か日本で声楽を学ぶ者の殆どが購入すると思われる全音楽譜出版社のトスティ歌曲集は畑中良輔氏の監修で違う歌詞を採用しています。私、未だに畑中良輔氏監修の歌詞で歌われたマレキアーレは聞いたことがありません。

 ということで私も2月14日の”大人の学芸会”の冬の本会のマレキアーレは、畑中良輔氏監修の歌詞ではなく、世界中で広く歌われているペトルッチ収録版で歌うつもりで準備しています。それにしてもマレキアーレの演奏は歌い手によってアゴーギク(テンポの変化)のヴァリエーションが様々ですね。ある意味歌い崩されているとも言えますが、歌い崩されている曲の場合手垢にまみれて本来の曲の魅力が曇っている場合が多いのですが、マレキアーレのアゴーギクのバリエーションについては歌い崩されているとか手垢にまみれているという印象は殆どありません。様々なバリエーションがあるもののどのバリエーションにもそれなりの必然性があるように感じるところがありますし、その基となっているのが言葉を旋律にどう埋め込んでいくかという歌い手のアプローチが様々あるんだと思うんですよね。

 声楽と器楽の間にある大きな相違点として、言葉を歌えるかどうか、があると思います。その言葉にこだわって歌を歌う曲として、トスティのマレキアーレは中々良い素材だと思います。歌詞の本来の意味からは男が歌うべき曲だと思いますが、動画サイトの音源等をみると案外女声も歌っているようですね。何となく民謡チックで途中で長調に転調しますが短調から始まる曲です。日本では音楽教育の弊害で短調は悲しい曲、長調は明るい曲という区分けが定着していますが、欧米では必ずしも短調=悲しい、長調=明るいというニュアンスではないそうですね。日本語訳を見る限り暗いところは全く無い、男が女性を思って歌う愛のセレナーデですね。お時間が許せば是非2月14日は五反田文化センター音楽ホールにお越し下さい。13:00あるいは13:30頃開演になろうかと思います。