生涯を完結させるまでに歌いたい歌、最近始めたヴァイオリンとフルートはどこまで演奏できるようになるか、と時々ワンコ

死は人生の終末ではない。 生涯の完成である。(ルターの言葉)
声楽とヴァイオリン、クラシック音楽、時々ワンコの話。

宗教と葬送の態様に関して  ヴェルディ オペラ「イル・トロヴァトーレ」

2017-08-24 21:45:14 | ヴェルディ

 昨日よりは幾らかはましだったかと思いますが、今日も暑かったですね。ということで昨日の「マノン・レスコー」に続いて熱さ(今日は「暑さ」ではなく「熱さ」です)にちなんだオペラに関連した話題を。

 声楽の勉強を続けてオペラカンパニーからのオファーを受ける様になった頃は、オペラの背景となる西洋史の勉強もそれなりに必死にやっていました。そんな中で得た情報です。西洋と言えばキリスト教文化ですが、魔女裁判とか異端審問等の結果として有罪となると火あぶりの刑に処せられた歴史があるようです。現代の日本では亡骸の処理としては火葬は一般的で特に忌み嫌われるということは全くありませんが、キリスト教文化では火葬と言うのは極めて否定的な意味があったようです。キリスト教の世界観では世界の最後の日にイエス・キリストが復活して、それまでの全ての死者を蘇らせて、一人一人に天国に行けるか地獄に落ちるかを裁判する最後の審判があると信じられていますね。ところで最後の審判で天国に行けると告げられても、霊が戻るべき肉体が失われていると天国には行けずに永遠に彷徨わざるを得ないと考えれらているとか。そのため人間が亡くなった時は最後の審判を経て天国に行くべき肉体が残る土葬が行われてきたとか。キリスト教文化では亡骸を火葬してしまうと天国に行くべき体が失われてしまうということで拒否感が非常に(異常に?)強かったのだそうです。

 なので、中世に何回かペストやコレラ等の疫病で人口が大きく減少する様な悲劇が繰り返されても火葬が広がらずに土葬に執着していたとか。したがって魔女裁判や異端審問などの結果有罪となったものに課せられた火刑という処罰はキリスト教徒としてのアイデンティーを奪うという極めて象徴的な意味もあったそうです。またこの様な死生観はキリスト教にとどまらず、ユダヤ教やイスラム教も同じですし、ゾロアスター教にも共通するものだったそうです。

 その様な背景を知ってしまうと、第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人ホロコーストで、ガス室で大量に殺戮されたユダヤ人たちの亡骸が焼却処理されたのも、当時の物質的世界の限られた資源と言う制約があったにせよ、宗教的には二重にユダヤ人に対して苦しみを与える行為だったと認識すべきなのかも知れません。で、火あぶりが重要な役割を果たしているオペラがあるか? と言うと真っ先に思い浮かんだのがヴェルディのオペラ「イル・トロヴァトーレ」ですね。この「イル・トロヴァトーレ」のストーリーはいささか複雑で、簡単に要約は出来ません。が、ヴェルディのオペラの多くと同じように親子の愛が極めて重要なテーマになっています。私が好きなオペラのベスト1はヴェルディの「リゴレット」ですが、「リゴレット」の悲劇と親子の愛が極めて個人的な関係の中でのものであるのに対し、「イル・トロヴァトーレ」の悲劇性・親子の愛はもう少し広がりのあるパースペクティブの中で描かれていると言っても間違いではないと思います。同じく親子の愛がテーマではありますが、「リゴレット」の方が個人的な関係性の中で完結しているという点でまだ救いがあるかも知れません。「イル・トロヴァトーレ」の方が真正面からテーマに向かい合うとすると、おぞましさという種類の想念を無視できないような気がします。


ららら♪クラシック ヴェルディ 「レクイエム」 における死に対するヴェルディの恐れ

2017-02-18 22:47:16 | ヴェルディ

 先ずは今回で最後にするアキレス腱滑液包炎顛末記その3です。昼前に家族が運転する車で整形外科に松葉杖を返却しに行きました。その時はまだ右足かかとを地面につけると痛みを感じていました。その後昼寝、二度寝、三度寝を経て夜には更に痛みが和らぎ、殆ど不通に歩けるようになりました。すると喉元過ぎれば熱さ忘れるで、さっそく飲酒を再開し二日間飲まなかった分を体に補給しています。

 さて、ワイングラスを傾けながら聞いていたNHK-教育の「ららら♪クラシック」ですが、今日のコンテンツはヴェルディの「レクイエム」でしたね。ヴェルディの「レクイエム」については本番で歌った経験はありません。チャンスがなかった訳では必ずしもないのですが、私にとってヴェルディの作品はオペラのプライオリティが高く、次いで多くはない歌曲となり、「レクイエム」はどうしても歌ってみたい作品ではありませんでした。「レクイエム」という観点からもモーツァルトとフォーレのレクイエムに比べると、ヴェルディの「レクイエム」は「レクイェム」と言っても演奏会形式のオペラみたいなものだと認識していました。

 今日の「ららら♪クラシック」を見て、多少はヴェルディの「レクィエム」についての認識が深まりました。しかし今日の「ららら♪クラシック」のヴェルディの「レクィエム」に対する掘り下げは不十分だと思いました。「怒りの日」を中心に、ヴェルディが「レクイエム」を作曲しようと思い立った契機として、芸術家として尊敬する二人の先輩、作曲家ロッシーニと作家マンゾーニの死を取り上げていました。その流れからヴェルディの死に対する”恐れ”というものに焦点を当てていた様に思いました。しかし、ヴェルディのオペラではほとんどの作品のテーマとして親子関係、特に子供の死を看取る親というものがあります。このことにはヴェルディ自身の癒しがたい体験があります。

 ヴェルディの「レクイエム」、特に「怒りの日」にヴェルディの”死”に対する恐れが重要なモチーフであるとするなら、我が子の死を受け入れなければならない親の”恐れ”も必ずある筈だと思う訳です。その点で今日放送の「ららら♪クラシック」におけるヴェルディあるいはヴェルディの「レクィエム」に対する掘り下げについては、重要な一面を取り上げていない様に思います。


ヴェルディ オペラ「シモン・ボッカネグラ」からフィエスコのアリア「引き裂かれた心」 Il lacerato spirito

2017-01-07 23:28:09 | ヴェルディ

 昨年12月に日本で活動されているロシア人声楽家(バリトン)のヴィタリー・ユシュマノフ氏の存在を知ってから、改めて男声低声系の音源を聞き直しています。そんな中で新たに購入したのが、ドイツ人フランツ・ハヴラタ氏のヴェルディのオペラのアリアばかりを集めたCDアルバムです。例によってネットのオークションサイトで落札しました。

 収録曲は、ナブッコから2曲に続いて、シモン・ボッカネグラ、エルナーニ、イェルサレム、オテッロ、マクベットから2曲、ドン・カルロ、アッティラ、シチリアの晩鐘で、ナブッコとシチリアの晩鐘以外は全て1曲です。このような一人の歌手が歌ったヴェルディのアリアばかりを集めたCDアルバムはバリトンのレパートリーも歌い始めたドミンゴのものも持っています。他にも二人のフォスカッリ等、日本ではほとんど公演されない演目のアリアを含んだアルバムも持っていたはずですが見当たりません。

 シモン・ボッカネグラはドミンゴがバリトンであるタイトルロールを初めて歌った公演のTV放送で初めて見て、その後異なるキャストでのBlu-Rayディスクを購入して観て、さらに藤原歌劇団会員の自主公演オペラを生でも観て、好きなオペラリストの上位に位置付けています。なので当然フィエスコの「引き裂かれた心」も何度も聞いています。シモン・ボッカネグラは序幕と1幕から3幕までの全4幕構成ですが、この「引き裂かれた心」の序幕で歌われる、愛娘が息を引き取った直後に父親が歌う悲嘆にくれたアリアです。当然非常に印象に残るアリアなのですが、その後のストーリーの展開でどうしても印象が薄くなっていかざるを得ません。

 それをコンピレーションCDアルバムで聞くと、このアリアだけにスポットライトが当たるので、改めて曲の良さを再確認させられました。フランツ・ハヴラタ氏はこのCDアルバムを購入するまではその存在を全く認識していませんでしたが、2011年4月の新国立歌劇場の「薔薇の騎士」の公演を3.11大震災(福島原発事故)の影響で多くの歌手が来日をキャンセルする中で、来日してオックス男爵を熱唱された方だそうです。

 「引き裂かれた心」は素晴らしいアリアだと心底思うのですが、とはいえバリトンではなくバスのアリアですね。愛娘を病で失った父親の悲痛さがある程度抑制されつつ歌われているのが余計に悲しさを印象付ける傑作と思いつつも、私に歌いこなせるかという疑問も沸き起こります。改めて考えてみるとこれまでに聞いた時には、自分には歌えないと即断してスルーしていた様に思います。声楽を学ぶと低域側に声域を伸ばすことは出来ないが高域側には訓練次第で伸ばせる、ということが言われているように思います。訓練次第で高域側がグンと広がることもあると思いますが、実は低域側も息の流し方と声帯を柔らかく使うことを覚えることによってかなり伸びます。私自身声楽を本格的に学ぶまでは、低域側の使える限界がヘ音記号の五線譜の第一線にぶら下がるLow-Fまで、半分以上息の音が混ざる限界でその長2度下のLow-Esまでした出せませんでしたが、現在ではどこまで本番の舞台上で歌って観客席で聞こえるかは定かではありませんが、さらに下のLow-C位までは確かに音程として自分の声をコントロールしながら出せる自分を確認していますし、半分以上息であることを許容してもらえるのであれば更にその下のDoubel Lo-B♭ぐらいまでは声帯の振動音として鳴っているのが実感できます。

 ということでこれも例によってペトルッチ(IMSLP)のサイトでシモン・ボッカネグラのヴォーカルスコアを見てみると、「引き裂かれた心」の最低音はLow-Fisですね。私でも歌える可能性は十分にあります。さっそく練習してみて、昨年の5月依頼全く受けていないレッスンを再開することにしてみましょうか。


ヴェルディに隠し子がいた?

2016-02-25 22:39:54 | ヴェルディ
 ヴェルディといえば22歳でマルゲリータと結婚し、翌年長女ヴィルジーニアが生まれ、さらにその翌年長男のイチリオが生まれたもののヴィルジーニアが死亡し、そのうえ翌年には長男のイチリオが弱1歳にして死亡するという悲劇を味わっていますよね。そのためヴェルディの作品、特にオペラに関しては親子の愛情が様々な観点からの主題となっていると思います。「ラ・トラヴィアータ」のアルフレード・ジェルモンとその父ジェルモンしかり、「リゴレット」のリゴレットとジルダしかり、「シモン・ボッカネグラ」しかり。

 ところで http://style.nikkei.com/article/DGXMZO97459370Z10C16A2000000?channel=DF280120166611&style=1 によれば、音楽評論家の加藤浩子女史が昨年末に出版した「オペラでわかるヨーロッパ史」(平凡社新書)の中で後妻のジュゼッピーナとの間に、これまではいないと思われていた子供が存在して、更にはその孫と加藤女史ご自身が面会されていることが紹介されているそうです。

 ということになれば早速加藤女史の「オペラでわかるヨーロッパ史」を購入して読みたいところですが、夏公演の「エフゲニー・オネーギン」のロシア語講座が始まって楽譜の整備などが追いついていない今現在は、「オペラでわかるヨーロッパ史」を購入しても読む暇がとりあえずは確保できそうもありません。ということでとりあえずAmazomのほしい物リストに登録しました。じっくり読む時間が出来る頃には中古で安いモノが出ていることを期待しています。

 そういう状況で、ヴェルディに後妻との間に子供がいた事が判ったからといって、ヴェルディの作品に対する評価に多少なりとも変化は生じないのではないかと思います。むしろ最大の興味は、特段隠す必要性が理解できない後妻との子供の存在を隠さなければならない理由はなんだったのか、ということだろうと思います。どうしてなんでしょうか? 加藤浩子先生、「オペラでわかるヨーロッパ史」を読めばその理由が分かりますか?

ヴェルディ 歌劇「リゴレット」 第三幕 嵐の三重唱

2015-04-30 22:47:53 | ヴェルディ
 個人の理解力、認識能力がどれ程限定されたものかを痛切に感じています。オペラの中で最も好きな作品は何かと聞かれれば、迷うことなくヴェルディの「リゴレット」と答えています。ちなみに2番目の作品はレオンカヴァッロの「道化師」です。と言うことで6月11日に「リゴレット」の舞台に自ら立てることをこの上ない名誉なことだと受け止めています。練習にも極力参加する様にしています。他のメンバーとしてはアマチュアの方もいらっしゃいますが、多くはプロの方です。プロの声楽家の皆さんが一つの作品を仕上げていく過程に立ち会えるということは、様々な意味で大変勉強になります。

 NHKのBS放送で放映された、ドミンゴがタイトルロールを演じた公演を始め、レオ・ヌッチがタイトルロールを歌ったBlu-Ray、その他幾つかの公演を複数回見聞きしているにも拘らず、私自身の理解力・認識能力が低いために、これまでに何度も耳にした筈なのに印象に残っていなかった素晴らしい箇所が幾つもあります。その中でため息が出てしまうほどに印象深いのは、所謂第三幕の嵐の三重唱です。有名な四重唱の後で、リゴレットが立ち去った後でドゥッカを救うために殺されることを承知でスパラフチーレの宿の戸を叩くジルダ、ジルダとスパラフチーレ、マッダレーナの三重唱です。

 リゴレットは全編を通してテンションの高い作品だと思います。クライマックスはリゴレットのアリア「悪魔め鬼め」だと思います。リゴレットとジルダの二重唱「復讐だ!」もテンションが高いと思います。原作者でありながらリゴレット公演からは一銭も支払われないことに不満を持ちながらもヴィクトル・ユゴーが賞賛せざるを得なかった四重唱は実質的にはドゥッカとマッダレーナの二重唱が中心で、ジルダとリゴレットは合いの手を入れている程度とも言えます。嵐の三重唱は、死を覚悟したジルダが一人でスパラフチーレとマッダレーナの兄妹に立ち向かいます。四重唱のときのジルダと三重唱を歌うときのジルダとは、まるで別人です。四重唱と三重唱とをどのように歌い分けるかこそがジルダを演じる歌手に求められていることに気付きました。いやぁ~、オペラって本当に奥が深いですね。ヴェルディの才能は私にとって神そのものです。