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生涯を完結させるまでに歌いたい歌、最近始めたヴァイオリンとフルートはどこまで演奏できるようになるか、と時々ワンコ

死は人生の終末ではない。 生涯の完成である。(ルターの言葉)
声楽とヴァイオリン、クラシック音楽、時々ワンコの話。

フランツ・リスト ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ)

2016-11-10 22:50:20 | リスト

 フランツ・リストと言えば作曲家として以上にピアニストとしての印象が強いのではないでしょうか。作曲家としては交響詩という分野を創ったとして高く評価されています。とは言え、フランツ・リストの声楽作品を思い浮かべる人は少ないのではないでしょうか。ピアノ作品として有名な「愛の夢(O lieb so lang du lieben kannst, S.298)」は、実は声楽作品=歌曲として作曲されています。声楽作品が有名ではない作曲家の声楽作品にも興味はあって、イタリア語、ドイツ語、フランス語系であれば積極的にあまり有名ではない作曲家の歌曲も聞く(CDを購入する)様に努めて来たつもりです。リストの歌曲のCDも持ってはいます。

 ところが、リストの宗教曲については全く知識もイメージも持ち合わせていませんでした。日課的に眺めているインターネットのCDオークションサイトで、たまたまリストの「ミサ・ソレムニス」が廉価で出品されているのを見つけたので、先ずは入札してみました。すると他に関心を示す人がいなかったのか最初の入札価格(郵送代よりも安い)で落札できました。

 「ミサ・ソレムニス」と言えば古今の多くの作曲家が作曲している、カトリックの典礼に則った正式な宗教曲です。とは言っても「ミサ・ソレムニス」と言えば、少なくとも私にとっては何と言っても、ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス 作品123」こそが「ミサ・ソレムニス」です。なので、リストの作品に限らず「ミサ・ソレムニス」と言えば、どうしてもベートーヴェンの「作品123」と比較してしまいます。

 私にとっては、ベートーヴェンの最高傑作は「交響曲第9番作品125」ではなく、「ミサ・ソレムニス作品123」です。少なくとも、弦楽四重奏などの他のジャンルの作品にまだ私の知らない真の最高傑作が存在するかも知れませんが、「第9」と「ミサ・ソレムニス」とを比較すれば「ミサ・ソレムニス」の方により魅力を感じます。歌う機会があれば何度でも合唱を歌いたい作品です。神奈川フィル、金聖響指揮で合唱を歌ったことがあります。リハーサルの際にマエストロ金が言っていましたが、演奏を終えて聴衆の方を向くと寝ているお客さんが結構いる。ベートーヴェンの「第9」は1楽章から3楽章まで聴衆はひたすら忍耐して、4楽章に入ってそれまでの抑圧が一期に開放されて爆発して終わるイメージがありますが、「ミサ・ソレムニス」はどちらかと言うと前半の方がドラマチックで、後半は静かに落ち着いて終演にたどり着くイメージです。なのでベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」では終演の頃に眠りに落ちる聴衆も出てくるだろうと思います。

 さて、リストの「ミサ・ソレムニス」です。「ミサ・ソレムニス」と言えばカトリックの典礼音楽の中でも最も格付けが高いと思います。従って古今の作曲家が作品を残していますが、ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」の完成度が高すぎて、ベートーヴェン以外の「ミサ・ソレムニス」が霞んでしまっている感は否めないと思います。その中ではリストの「ミサ・ソレムニス」は中々良い作品だと思います。さすがにベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」を凌駕する作品と言おうとは思いませんが、中々よく出来た傑作と言っても良いと思います。一言で言えば何処にも破綻のない、良くまとまった作品です。ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」が前半がドラマチックで後半は静かに落ち着いた雰囲気ですが、リストの「ミサ・ソレムニス」は全曲を通じて緊張と弛緩が適度に交代しながら終演までたどり着くので、飽きずに眠らずに済みます。

 それぞれの「ミサ・ソレムニス」を初めて聞く方であっても、聞き比べればベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」の方が古い時代に作曲され、リストの「ミサ・ソレムニス」の方が新しい時代に作曲された作品であることは判ると思います。いずれにせよ、ベートーヴェンにしろリストにしろ、「ミサ・ソレムニス」という作品の性格からやや保守的な表現になっていると思います。その意味では破綻がない完成度の高さはベートーヴェンの作品にしろリストの作品にしろ、遜色は無いと言えるでしょう。ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」が古典派音楽の範疇の中で完成度を高めているのに対し、リストの「ミサ・ソレムニス」はその和声の響きから様々にロマン派音楽のある意味濁りのある新しい和声の響きの可能性を広げる試みを行っているように感じます。しかしそうは言っても「ミサ・ソレムニス」という作品に求められる格式から決して矩を越えていない完成度の高さとして結実していると思います。

 もっと人気が出ても良いと思うのですが、リストの「ミサ・ソレムニス」を演奏するなら、同じ「ミサ・ソレムニス」ならベートーヴェンの作品を、リストの作品としてということであれば「交響詩」等を取り上げた方が、日本ではチケットがハケるということでしょうか。「ミサ・ソレムニス」を聞こうと思い立ったときにどちらを選ぶかと言えば、気力・体力ともに充実して元気な時はベートーヴェンの作品を、そうでは無い時・さほど元気が無い時はリストの作品のほうが聞き疲れがしない様に思います。


二つの悪夢が現実になった2016年となりました

2016-11-09 22:26:16 | 思うこと

 年初に、今年起こりうる世界の出来事ワースト2はイギリスのEU離脱決定とアメリカでのトランプ大統領候補の当選だ、とする識者の見解があったそうです。そのワースト2が現実になってしまいました。イギリスのEU離脱決定よりも、トランプ大統領当選の方がショックが大きいように思います。EU離脱が決定した直後のイギリスの様に投票結果に後悔するアメリカ国民はいないのでしょうか???

 このブログでは政治的・時事的問題は積極的には触れてきませんでした。しかし、さすがにショックですよね。当選後のトランプ候補の演説がマズマズ常識的な内容であることが救いではありますが、アメリカ西海岸などでは反トランプの暴動も起きているとか。

 イギリスのEU離脱決定では、音楽家にも影響が出ることが予想されました。EU圏内での移動は自由であることから、ヨーロッパで活動する日本人演奏家は英語が通じるイギリスに居住する人も多かったとか。イギリスがEUを離脱するとその利点が失われるのでEU加盟国に住居を移す日本人演奏家が増えるのではないかと思います。その他としては日本から新たにヨーロッパに留学したりする学生・院生・若手演奏家の居住地の選択肢からイギリスが外れるということでしょうか。その他録音スタジオの立地としてはイギリスにも良い場所があったでしょうけれど、イギリスでの録音が減ることは当然あるでしょう。ヨーロッパ大陸の演奏家がイギリスで行う演奏会も減るでしょう。直接的な影響はそれぐらいでしょうか?後は間接的なヨーロッパ経済が影響してくるということがありますね。

 アメリカのトランプ候補大統領就任ではどうでしょうか?人種差別的な言動から日本人演奏家がアメリカで演奏する機会は減るでしょうか?ほとんど変わらないでしょうか?黄色人種に対する差別は確かにありますが、日本人だけは例外的に扱われているという可能性もあります。しかし、黄色人種・アジア人としてそれで良いのかという倫理的問題もあります。オペラやクラシック音楽の演奏会に限らず、ミュージカルや映画の演目も人種融合的なものから人種差別的なものに変わっていく恐れがあるのかもしれません。アメリカ合衆国建国に貢献した当時の人々は全てヨーロッパからの移民であったことを謳ったミュージカル「ハミルトン」の上演回数は減っていくのか、逆に増えるのか、何処かの報道機関が追跡調査してくれるとありがたいと思っています。

 イギリスのEU離脱以上に、トランプアメリカ大統領の方が、この先何がどう変わっていくのか予想ができないという不安が大きいと思います。各国の株価は軒並み下げています。おそらく明日になればドル円レートも大幅な円高になるでしょう。円高自体は私個人にとっては輸入CDや輸入楽譜、輸入楽器・輸入楽器アクセサリー等が安くなるのでありがたいですが。報道によればアメリカ国民の中で「ポリティカル・コレクトネス」にうんざりした人々はトランプ候補を支持しているという話もありました。「ポリティカル・コレクトネス」は政治的な事柄だけでなく、芸術表現にも関わってきます。オペラではモーツァルトの「魔笛」やヴェルディ(と言うよりは原作のシェイクスピア)の「オテッロ」等でも、今日的な視点では十分に人種差別的ではないかと思うわけです(「魔笛」ではモノスタトス、「オテッロ」ではオテッロその人が)。まあ、私ごときが心配してどうなるものでも無さそうです。クリントン選対関係者の言うとおり、とりあえず帰って寝るのが良さそうです。投票前にクリントン指示の有権者がニュースのインタビューに応えていたように、「第三次世界大戦」が始まらないことを祈ります。


より良い音程で演奏するためには

2016-11-08 22:59:25 | より良く歌うために

 より良い音程で演奏するために必要なのは、より厳密な音程のイメージを持つことですね。自分で音程を作る楽器であるヴァイオリンを弾くようになって、あらためて認識しました。練習曲を弾くときに痛感しましたが、弾くべき旋律の音程を予めイメージしていないと容易に音程が狂います。歌うように弾く、ということは自分で歌う時の用に表情を付けるという意味以上に、音程を予めイメージするということだと思います。とは言え、ヴァイオリンの4本の開放弦の音のソ、レ、ラ、ミの同音とオクターブについては、他の開放弦が共鳴してくれるので弾きながら容易に音程を修正できます。

 なので、音階=スケール練習をしていると一方向に高くなりっぱなしとか低くなりっぱなし、ということはありません。ただ左手がどうしても体に近づいてくるので途中の音程は低くなるよりは高い方向にズレがちです。良く調整されたヴァイオリンというのは、低い方の隣の駒とテールピースの間の弦の音が高い方の隣の開放弦のオクターブで共鳴するのだそうです。この様に様々に調整された楽器であれば他の弦の共鳴によって正しい音程感が自ずと身につくようです。

 歌=声楽の場合は、人間の体は同じ状態を続けるのは苦手に出来ています。10分とは言わずに5分、3分であっても、歩いたり走り続けることは可能ですが、直立不動で立ち続けることは極めて苦しいと思います。声を出す、普通に喋り続けることは5分、10分可能であっても、歌声として同じ音程や大きさで同じ声を出し続けることは難しいと思います。一定の音程・音量で声を出し続けるには、息を次から次へと出し続けるイメージが必要です。常にポンプを漕ぐイメージとも言えましょうか。この息の送り方が出来ない人は自然と音程が下がるか音量が下がるか、あるいはその両方になりがちです。ヴィブラートはこの声の音程・音量を下げないために常に音程を動かす方策とも言えます。太く豊かになるイメージもありますが、ハーモニーを濁らす影響もあります。より美しいハーモニーを作るには、ノンヴィブラートあるいはノンヴィブラートから最小限度のヴィブラートでハーモニーを確認することが必要だと思います。

 声楽にしろ器楽にしろ、最も重要なのは音程に対するシャープなイメージを持つことだとあらためて実感しています。平均律と純正律の違いは、その曲が平均律で演奏されているか純正律によって演奏されているかによって、自ずとイメージが出来ていると思います。普通のイメージでは平均律で、アカペラの教会音楽の様な雰囲気を感じる場合は純正律だと思えば良いでしょう。その程度のイメージだけで平均律か純正律かは自ずと調整出来ると思います。あるいはその違いがイメージ出来なければ、歌い分ける・演奏し分けることも出来ないので、気にしてもしょうがないということでしょうね。ひたすら聞き込んで音程感のイメージを自分の中に焼き付けることです。あるいは歌い込んだ・繰り返し練習した曲というものも、自然と目指すべき音程感が自分の中に出来てくるように思います。自分で納得できるところまで歌い込む・練習するということですね。


音程は全てに優先するか?

2016-11-07 22:43:43 | より良く歌うために

 「音程が全てに優先する」という音楽表現の分野があることは確かです。例えばプロとアマチュアのオーケストラや合唱を聞き比べれば、ハーモニーの純度・透明感が異なることが分かると思います。とは言えあらゆる場合に「音程が全てに優先する」訳でも無い様に思います。ハーモニーの美しさを売り物とするオーケストラや合唱ほどには、独奏や独唱では音程に五月蝿くないように思います。

 音楽愛好家にとってインターネットの普及の思いがけない(負の)効果としては、動画サイトに必ずしも上手くない演奏までアップされているということがあります。上手い演奏と下手な演奏とを同じ作品で聞き比べることが容易に出来るので、鋭い音感の持ち主でなくても何となく気持ち悪い演奏だと思って聞いていて、そうか音程がぶら下がっているのが原因だと思い至る機会が増えました。

 ハーモニーを構成する各々の音程と旋律に求められる音程とでは、その正確さに違いがあると思いますが、純正律と平均律との違いを考えれば、平均律に完璧に調律されたピアノとオーケストラによるピアノ協奏曲では、むしろハーモニーが濁ることになるのではないかとも思います。チェロの近代的奏法を確立したパブロ・カザルスは導音や上行音形での半音は高めに、下降音形での半音は低めに意識して弾いていたとも聞きます。

 あるいは私自身にはその様な技術はありませんが、ソリストはオーケストラから自分の音を際だたせるために僅かに高めに演奏するとの話も聞いたことがあります。とすれば「音程は全てに優先する」というよりも「音楽表現としての完成度が全てに優先する」と言い換えても良いような気もします。何れにしても聞く立場であれば気持ち悪いと思ったら聞かないという選択をすれば良いだけの話です。演奏する側としては、他人に不快感を共用するような演奏は慎まなければならないでしょう。では如何にしてより純度・透明感の高い演奏をするか。その為に最も必要なことは、純度・透明感の高い音楽のイメージを具体的に自分自身の中に持つ、ということだと思います。闇雲に練習するよりも、むしろ本当に良い演奏を聞くほうが効果的ではないかと思います。練習を録音して、それを何度も聞き直す方もいると思いますが、自分自身の演奏の良し悪しを確認するだけに留めるべきで、何度も繰り返し聞いた際に当該録音が手本とするべき完成度に達していない場合は、むしろ欠点を刷り込むことになるので逆効果にしかならない危険性があると思います。

 音痴を直すには、優れたオーケストラの演奏を聞かせることが一番、という話も聞いたことがあります。


ファッションとは自分のスタイルに拘ること

2016-11-06 23:38:35 | 思うこと

 お金を掛けたいことはいくらでもあるので、ファッションにお金を掛ける余裕はほとんど(全く?)ありません。少なくとも自分の装いにお金をかけようという意識は全くありません。

 それでも他人、特に女性から「おしゃれですね」と言われることがあります。お金は全くかけていませんが、同じ値段で選ぶ際には自己主張のはっきりしたものを選ぼうとは思っています。その積み重ねが自然に私のスタイルを作ってきているとは思います。会社に通うビジネススタイルでも、ベルトは使わずにサースペンダーを愛用しています。以前はネクタイ着用でしたが東北大震災以来のスーパークールビズでネクタイもスーツも着用しなくなりました。それ以前のネクタイ着用が必要な時もウィンザーノットとかセミ・ウィンザーノットではなくダブルノットでしか結ばないとか。

 もう一つは髭ですね。オペラの舞台に上がるようになってから、役作りとしてとの言い訳が出来たので、髭を伸ばすようにしました。個人差も大きいと思いますが、私は一本一本の髭は太いものの密度はあまり高い方ではないので、伸ばし始めて1ヶ月ぐらいえはまだ格好がつきません。3ヶ月ぐらいになるとバランスを取りながら適度に間引きして格好良くなる感じです。その為連続してオペラのオファーをいただく時は、サラリーマンながら常時髭を蓄えておりました。とにかく剃ろうと思えば数分で剃れますが、格好良く伸ばすには2ヶ月では足りないものですから。

 更に頭髪ですね。一応労働規約には第三者、特にお客様に不快感を与えない常識的な装いが求められていますが、保守的だからこそか案外細部については詳細に決められていません。大きな会社なので数は少ないものの中には長髪の社員もいたりします。そんなこともあって初めは言い訳がてら髭を伸ばしてみましたが、ついでに頭髪も伸ばしてみました。こちらも切ろうと思えば数分で切れますが、伸ばすには月単位の時間がかかります。オペラの舞台での役作りとして演出家、舞台監督にどうするか指示を受けるまでは、出来るだけ選択肢を用意しておくことと思い、会社で注意を受けた時はオペラの舞台に立つためでご容赦下さいと言う積りでおりまいた。ところである程度髪が伸びてくると、後ろにヒッツメにしてゴムでまとめることが出来ることに気付きました。ヒッツメでまとめると、これはこれですごく楽なんですね。問題はゴムでひとまとめに出来るまでの間をどう我慢するかですね。

 と言うことで理髪店で散髪するわけですが、必ずしも思った通りの仕上がりにはならず、それも理容師の腕というよりは自分と理容師との間のコミュニケーション不足だと思うわけですが、あまりに細かく修正してもらうのも気が引けます。ということで今回、スキハサミを購入しました。頭髪が伸びてきたなと気になるところだけをスキハサミで切っていけば、究極の自分らしいヘアスタイルが出来るのかな?という思いです。自分なりに納得できたらご報告します。