先日の「題名の無い音楽会」は鉄道に関係する音楽がテーマでした。シャルル・ヴァランタン・アルカンのピアノの練習曲「鉄道」が出てくるかなと思って見ていましたが、オーケストラ曲ではなかったためか紹介されませんでした。一番印象に残ったのは、ドヴォルザークが鉄道オタク、鉄っちゃんだったということですね。チェコにいるときもアメリカに渡った時も暇さえあれば鉄道操車場に出かけていたそうですね。ある時忙しくて自分が鉄道操車場に出かけられないときに、娘と結婚することになっていた弟子に代わりに操車場まで行かせて機関車の車体番号を控えさせたらしいのですが、その番号が間違いであることに直ぐ気がついて、娘に対してあんな常識の無い男と結婚するつもりなのか、と言ったそうです。まあこの辺りの話は単なるトリビアですね。
さてMCのマエストロ佐渡裕氏のコメントですが、交響曲第9番「新世界から」第4楽章の冒頭が、正に蒸気機関車が発車するときのイメージそのものであると指摘していました。言われてみれば正にその通りで、蒸気機関車を描写した音楽は複数あると思いますが「新世界から」の第4楽章冒頭ほどリアルに蒸気機関車の発車を描いている曲はありませんよね?
左右のシリンダーに蒸気を交互に送り込んで動輪を回転させて初めは重々しくゆっくりと、次第に加速していく様。ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」、シューベルトの交響曲第7番「未完成」、そしてドヴォルジャークの交響曲第9番「新世界から」が三大交響曲と言われることがあるそうですが、確かに私も中学生の時に意識してクラシック音楽を聞くようになって以来、ドヴォルジャークの交響曲第9番「新世界から」を聞き始めて40年近く、第4楽章の冒頭を聞いて蒸気機関車を連想することは全くありませんでした。何故気がつかなかったのだろうとここ数日悩んでいたのですが、一つの回答としては描写音楽として以上の客観的な存在として、普遍性=絶対音楽としての視点の遠さ、すなわちドヴォルザークは単に蒸気機関車を描写したかったのではなくて、蒸気機関車を描写しつつその蒸気機関車が走る先に何があるのかまで思い描いていた、その普遍性を聞いていたのだと思います。ま、この様に言い訳しておけば格好がつくかもと思います。
いずれにしても、40数年聞いてきた曲の聞き方を変えてくれるとは、「題名の無い音楽会」は只者ではありませんね。
さてMCのマエストロ佐渡裕氏のコメントですが、交響曲第9番「新世界から」第4楽章の冒頭が、正に蒸気機関車が発車するときのイメージそのものであると指摘していました。言われてみれば正にその通りで、蒸気機関車を描写した音楽は複数あると思いますが「新世界から」の第4楽章冒頭ほどリアルに蒸気機関車の発車を描いている曲はありませんよね?
左右のシリンダーに蒸気を交互に送り込んで動輪を回転させて初めは重々しくゆっくりと、次第に加速していく様。ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」、シューベルトの交響曲第7番「未完成」、そしてドヴォルジャークの交響曲第9番「新世界から」が三大交響曲と言われることがあるそうですが、確かに私も中学生の時に意識してクラシック音楽を聞くようになって以来、ドヴォルジャークの交響曲第9番「新世界から」を聞き始めて40年近く、第4楽章の冒頭を聞いて蒸気機関車を連想することは全くありませんでした。何故気がつかなかったのだろうとここ数日悩んでいたのですが、一つの回答としては描写音楽として以上の客観的な存在として、普遍性=絶対音楽としての視点の遠さ、すなわちドヴォルザークは単に蒸気機関車を描写したかったのではなくて、蒸気機関車を描写しつつその蒸気機関車が走る先に何があるのかまで思い描いていた、その普遍性を聞いていたのだと思います。ま、この様に言い訳しておけば格好がつくかもと思います。
いずれにしても、40数年聞いてきた曲の聞き方を変えてくれるとは、「題名の無い音楽会」は只者ではありませんね。