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生涯を完結させるまでに歌いたい歌、最近始めたヴァイオリンとフルートはどこまで演奏できるようになるか、と時々ワンコ

死は人生の終末ではない。 生涯の完成である。(ルターの言葉)
声楽とヴァイオリン、クラシック音楽、時々ワンコの話。

楽器の音色

2017-08-16 23:10:40 | 思うこと

 フルートとクラリネット、オーボエ。これらの楽器は誰が吹こうが、それぞれがどんな楽器であろうが、まず聞き分けられると思います。何故聞き分けられるかと言えば、倍音の強度比がそれぞれの楽器によって異なるからですね。同じシングルリードの木管楽器と言うことで、音域によってはクラリネットとサクソフォーンの音色は注意深く聞かないとどちらの楽器の音か判別がはっきりしないこともあります。それでも音域によっては楽器毎に特徴的な音色があるので全く判らないということもありません。

 では同じ楽器の範囲に限定するとして、同じ素材・同じタイプの楽器を複数の演奏者が吹いた時と、一人の演奏者が異なる素材・異なるタイプの楽器を吹き比べた時、ブラインドでその音を聞いて複数の奏者が一つの楽器を吹いているのか、一人の奏者が複数の楽器を吹き分けているのか、聞き手が聞き分けられるかどうか?という設問に対する答えは簡単ではないかもしれません。と言うのは、音色の他にアーティキュレーションと言う表情の付け方にも演奏者毎の癖はあるので、音色で聞き分けているのかアーティキュレーションの個性で聞き分けているのか、判別できない場合もあると思います。ただ、曲を吹くのではなく一つの音を吹きのばして純粋に音色のみを聞き比べるという設定にすれば、アーティキュレーションの個性で判別している可能性は排除できると思いますが、一つの音のロングトーンで音色を区別することは、音程や音価が異なる音のつながりであるフレーズで聞き分けるよりはるかに難しいということも容易に想像できます。

 で、言い方は異なっていても内容はほぼ同じだと思っていますが、一流の演奏家の演奏能力をもってすれば、楽器の素材やデザインの相違などを僅かな相違にしかすぎない程度に演奏家の演奏能力・技術が音色を決定する場合もあるだろうと思っています。一方でそこまでの演奏能力・技術を持ち合わせていない演奏者の場合には、楽器の素材やデザインなどの相違点が音色に影響する場合も否定は出来ないと思っています。もしそうだとすると、どうせ一流の演奏能力・技術を身に着けることは出来ないから、せめて楽器の素材やデザインを自分にとって許容できる範囲の中で最も高級な楽器を選んで少しでも良い音色で演奏しようと思うか、楽器に掛ける金があったらそれをレッスン代に回して自身の演奏能力・技術を向上させて安い楽器でも良い音を出せる様になろうと言う姿勢で臨むか。若くて時間はあるけれど経済的余裕は無い場合は安い楽器で我慢して自らの演奏能力・技術を向上させることを追求する方が良いのかなと思います。一方でレイトスターターで経済的余裕はあるけれど時間の方がそれほど残されていないという場合は費やせる経済力を最大限発揮して、白金メッキでも、金製でも白金製でも、良い楽器を入手すれば良いと思います。しかし、良い楽器ほど吹きこなすのに必要な最低限の演奏能力・技術も高くなって行きます。結局技術は自分で精進して身に着けるしかなく、技術を金で買うことは出来ないということですね。

 ピアノ等はどうでしょうか? スタンウェイとかベヒシュタインとか有名な楽器は多々ありますが、ピアノこそは誰が叩いても一つの音の音色については同じですよね??? それでもアーティキュレーションという演奏上の表情の付け方の個性などで、演奏者が誰かが判ることもあると思います。また、たった一つの音を鳴らす時ですらキィを叩くときの指の使い方等で、誰が叩いたのか聞き分けられることもあるのでしょうか? ご意見のある方、ぜひコメントをお寄せください。


音色とは

2017-08-15 22:13:34 | 思うこと

 音色とは何か。ピアノの音がピアノの音として認識され、ヴァイオリンの音はヴァイオリンの音として認識される。初めて聞く楽器の音であればともかく、すでに聞き覚えている楽器の音であれば目をつぶっていてもその楽器だと認識できるのは何故か? その答えは、特定の音程の音であることを認識できる基音の他に、オクターブ上、オクターブと5度上、2オクターブ上、2オクターブと3度上、2オクターブと5度上・・・、と続く倍音の、基音に対する音量の比が楽器毎に異なる特性を人間が聞き分けられるからですね。シンセサイザーが電気的・電子的に様々な楽器の音を再現・模倣できるのも、多数の倍音の強度比を人工的に再現しているからですね。

 そして音響学や流体力学の教えるところからは、楽器の材質・素材が倍音の強度比に与える影響は微々たるもので、それ以上遥かに楽器の幾何学的な形状の方が音色に影響する、と普通の理科系の頭脳は認識できる訳です。したがって管体の素材よりも頭部管のデザインの方がはるかに音色に影響するはずなのですが、私自身の数少ない経験からしても、どうも頭部管の形状の違いよりも素材の違い、あるいはメーカーの違いの方が音色に影響する様な気がしています。最も製造メーカーが異なれば楽器の幾何学的形状も当然異なる訳ですから、メーカーが異なれば音色も異なる、言い方を変えれば製造メーカー毎に個性的な音色がある、ということは経験的にも納得できるように思います。

 とは言え、素材が全く違っても音色を聞き分けることが難しい場合もあります。例えばフルートの場合、木管フルートと銀製フルート、金製フルートの音を、これは木管フルートの音、これは銀製、これは金製と区別できるほどのそれぞれの違いを私は聞き分けられません。それよりも演奏者によって音色が決定するという印象を持っています。ところがムラマツの特殊白金メッキであるPTPモデルについては、PTPに特有の音色がある様に思います。ある意味数ある様々なメーカー、素材、デザインのフルートの中で、PTPのみは聞き分けられるけれどPTP以外は皆一つのカテゴリーにまとめるしかない様に思われる、ということです。補足すれば総白金製のフルートについては生では聞いたことも無ければ吹いたこともないのでわかりません。ただ、サー・ジェームズ・ゴールウェイ氏が16本のフルートを吹き比べて何れも違いが判らないと指摘した動画を私も見ました。その中に総白金製のフルートも入っていましたが、その動画を聞く限りでは確かに他の素材のフルートとの違いを聞き分けられないとも思います。ただ、様々な素材のフルートがそれぞれ持っている楽器の音色の相違以上に、サー・ゴールウェイの吹奏能力・吹奏技術が卓越している場合には楽器の素材の音色ではなく、サー・ゴールウェイの吹奏能力・吹奏技術が作る音色しか聞こえてこない。一方で多数の凡夫でしかない演奏家が吹奏する場合には、吹奏者の音色よりもそれぞれの楽器の素材が持つ音色が聞き手に認識されるという可能性はあるだろうと思っています。

 では、サー・ジェームス・ゴールウェイと同程度かそれ以上の吹奏能力・技術を目指すフルート奏者は、楽器の素材に対する拘りを捨ててひたすら自己の演奏能力・技術を磨くべきということになるのかも知れませんが、そこまで高い水準までは目指さないという多くのフルート愛好家にとっては、素材自体が持つ音色が優先する楽器の中から自分の好みに合う楽器を探すというアプローチに、意味がないとは言えないだろうと言うのが今の私の判断です。サー・ジェームス・ゴールウェイ程の卓越した演奏能力・技術を獲得した演奏家であれば、どのような素材やデザインの楽器を用いても、自分自身の音色を奏でることが出来る。ところがそれ程の演奏能力・技術を獲得することが出来ないほとんどのフルート愛好者にとっては、素材やデザインの違いによって音色に差が出る可能性はある、ということです。

 とは言え、いかなる素材の楽器であろうとも、年月をかけて吹奏していく中で自分の吹奏能力・技術と楽器が持っている固有の潜在能力が相互作用を起こして、その演奏者とその楽器の組み合わせに固有の音色が形成されていくものだろうと思っています。自分にとってベストの楽器を探すことは簡単に答えの見つかる問題ではないだろうと思います。自分が求めるイメージにある程度沿う楽器と出会えれば、本当にこの楽器で良いのか等と突き詰めて考えずに、この楽器が当たりだったらラッキーだな、というぐらいとの認識と言うか期待でその楽器と付き合うことに決めて、その後の何年と言う時間経過をともにして自分にとってかけがえのない楽器にともに育てていく(自分自身も育っていく)ことが重要ですよね。


音程について

2017-08-05 22:37:48 | 思うこと

 声楽関係で音程にうるさいのは合唱ですね。ただ合唱の時は同じパートの周りの音程に合わせていれば、指揮者=指導者の指示にしたがっていれば良いのでひたすら周りの音に合わせてさえいれば良かったとも言えます。独唱では本人の責任と言うこともありますし、合唱作品の様に必ずしもハーモニーで聞かせる訳ではないので、レッスンでも余程ひどい時以外はさほど注意されることはなく、むしろ発声法とか表現方法が指導内容の中心でしたね。

 声楽レッスンを受けることを止めて、ヴァイオリンとフルートのレッスンを受ける様になりましたが、当初音程を自分で作ることに不安を持っていましたがヴァイオリンは楽器の響きに注意していれば楽器が音程が正しいか正しくないかを教えてくれることが分かってきて、やはりヴァイオリンを始めたのは正解だったと思っています。一方で意外だったのはフルートと言うものは楽器任せでは案外と音程が外れているということです。最近の楽器になれば音程も正確になって来ているかと思いきや、最新の楽器でも自分の耳で聞き分けながら高めの音は低めに、低めの音は高めに、吹き方で微調整するしかないということを理解しました。音域が1オクターブであればかなり正確な音程の楽器を作れるようですが、音域が3オクターブになるとオクターブ毎に音程の微調整の方向性が変わるためにどうしても妥協せざるを得ないとのこと。フルートだけを勉強していてもレッスンを続けていれば少しづつ理解できると思いますが、私の場合は声楽でレッスンを受けるという経験を十分に積んだうえで、ヴィオリンのレッスンを受ける様になって、声楽レッスンとヴァイオリンのレッスンを受ける様になって共通することと異なることが整理できたうえで、最後にフルーtのレッスンを受ける様になってヴァイオリンのレッスンとの共通性よりも、息を支えるという点で声楽との共通点が多くて、フルートのレッスンで学んだことを声楽にもフィードバックできそうなのが嬉しい今日この頃です。

 でフルートのレッスンですが、声楽に比べるとフルートの曲は驚くような音程の跳躍があります。声楽でも1オクターブの跳躍は珍し宇ありませんが、10度とか12度の跳躍は殆どありません。2オクターブの跳躍も私自身は声楽では見たことも聞いたことも歌ったこともありません。ところがフルートではアルテの教則本第一巻でも2オクターブの跳躍が普通に出てきます。で最大1オクターブの声楽での跳躍でもそうですが、下から上への1オクターブの跳躍では上の音程を実際より高く感じすぎて出せないと不安になって体がこわばって出せなくなります。その癖がついているからか、先生の教え方のニュアンスからは私に限らず多くの初心者がその様に思えますが、フルートの跳躍でも多くの初心者は実際の音程以上に上行音程では高く感じ下行音程では低く感じる様で、跳躍する前に跳躍後の音程のイメージをきちんと感じる様に注意されます。跳躍する前に跳躍後の音程をきちんとイメージしきれていないと跳躍後の音が不安定になってしまいます。私のフルートの先生はそのあたりの処理に対する指導が厳しいです。上手く処理できていないときは跳躍後の音程をまず自分で歌ってみろと言われます。

 これまでの合唱経験と声楽でのレッスン受講歴、それからヴァイオリンとフルートのレッスン受講歴の相乗作用で、これまではかなり漠然・曖昧模糊としていた音程感が自分の中で少しづつ洗練されて来ていると思います。私が経験したような意味での音程感を洗練させるためには、ヴァイオリンとフルートとどちらが有効かと質問されたとしたら、どちらも重要と答えたいですね。必ずしもヴァイオリンとフルートの組み合わせが良いということでは無く、原理的に異なる2つの手法で自分の音程感を訓練すると相乗作用で効果的と言うことではないかと思います。


声楽と器楽の違い レッスンに対する姿勢

2017-07-19 23:09:12 | 思うこと

 過去に指示した声楽教師から聞いた話ですが、レッスンを希望する生徒の中には歌曲やアリアなどは指導してもらわなくて良いので発声だけを見てほしい、という生徒が時々いるそうです。まあその様に希望する生徒の気持ちもわからないではないですし、私自身過去の経験で歌まで行かずに発声だけで終わるレッスンが無かった訳ではありません。ただ、私にその様に語ってくれた先生は、発声練習だけでできても実際の歌の中で使えるかどうかは別問題だから、基本的に発声だけ見てほしいという生徒に対しては、その様に説明した上で歌も見る様にしているとのことでした。

 歌のレッスンに比べれば、やっと100分の1ぐらい経験したかどうかの器楽のレッスン体験ですが、現在継続してレッスンを受けている松先生は好きな曲を吹きたい気持ちも分かるけれど、今の技術以上の曲を無理やり吹くと、どこかしらに無理が行ってせっかく身に付けつつある基本的な技術までおかしくなってしまう危険があるから、出来るだけアルテのエチュードを吹く様にと言われています。より具体的に言えば、私がフルートを勉強してみようかと思ったきっかけの一つである、マラン・マレの「スペインのフォリア変奏曲」は、今の私の技術では力不足で、それでも吹こうとするとどうしても無理をしてせっかく身に付けつつある基本技術を壊してしまうので、吹いてはいけない、と封印されています。で、同年代に同じ「フォリア」の主題による変奏曲として作曲されたコレッリのヴァイオリン・ソナタ作品5-12のフルート版であれば、マラン・マレの「スペインのフォリア変奏曲」程は難しくないため、吹いても良いとお許しを頂き、練習しているところです。

 器楽の演奏者の肩は毎日何時間も練習するのが当たり前の様ですが、声楽では毎日何時間もの練習と言うのはなかなか難しいのではないかと思います。喉=声帯が毎日何時間もの酷使には耐えられません。声楽では極一部のヴォカリーズを除けば歌詞が存在するので、まずは歌詞をスムーズに発音できるようにしておく必要があります。それから音程=音取りについても、必ずしも歌わなければ音鳥出来ないというものでもありません。なので実際に歌う以前に、歌詞の発音を確認し、歌詞の意味を調べて内容を把握し、鍵盤楽器等を利用して音取りをして、それから初めて曲を歌うという作業になります。これらの作業=事前準備を端折っていきなり歌と歌いだして、歌いながら発音を確認し、歌詞の意味を調べ、音取りを確認するという流れで行うと、結果としてはるかに時間がかかります。なので声楽を勉強することは結構事前準備に掛ける作業が必要だと思っています。

 それに比べると、器楽では歌詞は基本的に存在しないので、楽譜をどう読むかということと、楽譜を読んだ結果を楽器を媒体として同演奏するか、ということになろうかと思います。この作業を通じて楽器を演奏する技術を洗練していって、一流のアスリートがそうであるように、一流の演奏家も一つ一つの演奏ステップを個別に意識するのではなく、一連のフレーズを一連の演奏行為として殆ど無意識に必要な体の捜査を行えるところまで、反復して体に覚え込ませる、ということかと思っています。

 声楽は自分の体が直接楽器であるため、楽器=自身の体は器楽の楽器を演奏するのに比べて無意識=本能的に演奏できる要素が大きいため、器楽での演奏家自身の体ではない客観的な楽器をいちいち操作することに比べれば、直感的に=何も考えずに歌えるという言い方も出来るかと思います。一方で歌には歌詞が存在してて聞き手にも歌詞の意味が理解されるので、歌詞をどう聞き手に届けるのかという器楽にはない作業が重要になってくると言えるでしょう。

 器楽は歌詞がないことで具体性が捨象され声楽に比べれば抽象性=一般性が高い音楽になりますが、聴衆に音楽を届けるためには楽器と言う媒体を経る必要があるため、自身の音楽を徴収に理解してもらうためには自身の体の一部ではない客観的な存在である楽器を自身の意のままに操れるようになるまで習熟する必要があるのでしょう。だから器楽の人は毎日何時間も練習する必要があるし、声楽の人は喉=声帯が何時間もの歌唱に耐えないと言う理由と同時に、歌詞を十分に理解する必要があり、そのためにはただ繰り返し歌うことよりも、歌詞の内容を調べ・確認するという論理的な準備が必要なのだろうと思う訳です。

 御幣を恐れずに更に本音に近いところで言ってしまえば、声楽はある程度の基礎訓練が出来ている人であれば、さほど難しくない曲であればそこそこ歌えてしまいます。一方で、特に聞き手が歌詞の意味を分かってしまう状況では、歌詞の意味を咀嚼して歌のなかでその時歌っている歌詞の内容と異なる所作をしない様にするなどの、器楽では必要にならない要点があるので、何も考えずに繰り返し歌っても完成度は上がらないので、頭を使って自らの演奏=作品の完成度を上げる必要があると思います。

 器楽は、楽器と言う媒介するものがあるため、また歌詞という具体的なものがなく、抽象性=一般性が高いので繰り返し練習することで楽器を無意識化に演奏できるようになることと同時に音楽表現の内容も洗練されていくような気がします。


人の痛みを共有できない人間が奏でる音楽に感動することは出来るのだろうか???

2017-07-14 23:27:14 | 思うこと

 ヴァイオリニストの五嶋龍氏が、日本の大学オーケストラに呼び掛けて、北朝鮮による日本人拉致問題に関するチャリティーコンサートを呼び掛けたそうです。ところが当初参加希望を表明していた少なくない大学が、怖いとか政治色が強いとかの理由を挙げて参加を辞退したそうです。北朝鮮のミサイル・核開発問題で韓国への修学旅行を取りやめるというのは理解できますが、拉致問題に関係するチャリティーコンサートに参加したら、オーケストラ団員や聴衆あるいは大学関係者が北朝鮮によって再び拉致されるとでも言うのでしょうか?また、自民党も共産党も北朝鮮による日本人拉致問題に対しては殆ど同じスタンスを取っていて、なんら政治的なイシューではないと思うのですが、いかがでしょうか???

 参加を見送る判断をした人間は、同じ日本人として例えば拉致被害者横田めぐみさんのご両親に対してどの様に説明するのでしょうか?人類が被る様々な悲惨な出来事に対して音楽(あるいは他の芸術)は何を出来るのか?という議論が様々な機会に生じていると思います。自然災害の被災地に出かけて行ってコンサートをすることは出来るが、拉致問題についてのチャリティーコンサートには参加できないというのは、どのような論理なのでしょうか。私には全く理解できません。せめて今日のブログのタイトルに記した様に、チャリティーコンサートを辞退する判断をした人たちに対して、その様な人たちが奏でる音楽を聞いても私は感動することは出来ないのではないかと大きな危惧を抱かざるを得ない、とのせいぜいの嫌味を言うくらいしか出来ません。

 ヴェルディのオペラの大半は親子の不幸な愛情を描いていて、私はそれに触れてどうしようもない人間の運命に触れて嘆きながらも感動の涙を流さざるを得ません。ベートーヴェンが楽聖と称えられるのはそれまで貴族階級が独占していた音楽を被支配階級にまで広げる先鞭をつけたからで、べーt-ヴぇンの才能があって初めてできたことでどれほどの逆風を受けつつ貫き通したのか、そこまで想像力を発揮できる人間であれば、絶対に拉致問題チャリティーコンサートへの出演を断ることが出来るとは思えないんですよね。音楽に限らずいかなる芸術の根底に存在するのはヒューマニズムの精神です。同じ日本人として本当に悲しく嘆かわしい判断ですし、同じ国籍・民族でないとしても個人的には許せない判断です。チャリティーコンサートを辞退したオーケストラの中にも、個人的にはチャリティーコンサートに参加したいと考えている団員が一人でも多く存在することを願うのみです。