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生涯を完結させるまでに歌いたい歌、最近始めたヴァイオリンとフルートはどこまで演奏できるようになるか、と時々ワンコ

死は人生の終末ではない。 生涯の完成である。(ルターの言葉)
声楽とヴァイオリン、クラシック音楽、時々ワンコの話。

JASRACがBGMでの著作権徴収で初の提訴

2017-07-11 22:21:02 | 思うこと

 ネット上のニュースサイトを見ていたら、”JASRACがBGMでの著作権徴収で初の提訴”との記事を見つけました。BGMでの著作権については正当な対価を支払うべきで、この点では私はJASRACの立場を指示します、と言おうと思っていたら、事はそう単純ではなさそうですね。今回JASRACから提訴された北海道の理容店と香川県の飲食店(のどちらか一方?)は、2015年に民事調停を起こしたものの不調に終わったとのこと。それ以来はラジオ番組等をBGMに流して、JASRACが管理する著作権が生きている楽曲については流さない様に気を付けていたとのこと。

 そうするとJASRACとしては請求権がないものに対してまで請求を申し立てていて、さらに侵害の事実が存在することはJASRAC側が証明する必要があると思われますが、そうすると明らかにJASRAC側の勇み足と思われるのですが、どうなっているのでしょう。裁判所に出訴した上で裁判所手動での和解で、過去分の未だ時効消滅していない分だけでも著作権料を徴収したいということでしょうか???

 どう見ても裁判費用の方が掛かる様に思いますが、象徴的な事例としてBGM利用での著作権についても今後きっちりと料金を徴収していくという決意表明の積りなのでしょうか? そうであれば、公正取引委員会が指摘した他の団体・企業が著作権管理ビジネスに参入しようと企図した場合に、現在のJASRACのビジネスモデルでは新規参入者を排除する構図が出来ているという批判に対して、それをどの様に解消しようとしているのか、その説明をすることがJASRACに求められていると思います。


公正取引委員会が、芸能事務所と芸能人の契約について関心を持っているそうですね

2017-07-07 22:45:26 | 思うこと

 ニュースを見ていたら、公正取引委員会が芸能事務所と芸能人との間の契約の内容について関心を持っているそうですね。必要以上に芸能事務所側に有利な内容に偏っていて、芸能人側の基本的人権すら侵害されている実態があるのではないかとの関心を持っているような(私個人の感想です)。芸能事務所側の言い分も良く判る気はします。芸能人が売れるようになるまで決して安くはない先行投資をして、ようやくその芸能人が売れるようになったと思ったら、勝手に事務所を変更されたりしたら投資の回収が出来ません。だからといって事務所側が認めない限り契約は解除できないとか、契約解除の意思表示をしてから無期限に他事務所との契約を認めない、と言うような契約内容はさすがに優越的立場の乱用になろうかと思います。例えば芸能人側から契約解除の意思表示がされた場合は、当該芸能人が売れるようになるまでに費やした費用の一部を事務所側が芸能人側に請求できるとか、書面で契約解消の意思表示がなされた場合は最長でも2年か3年程度は他事務所への移籍は認められないものの、2年程度経過すれば移籍は認められる、等とする方が憲法の基本的人権や、独占禁止法の精神に寄り添うものだと思います。

 さて、いわゆる芸能界の芸能人は芸能事務所に所属して活動するのが一般的ですが、音楽大学を優秀な成績で卒業して、更にコンクール入賞などの箔をつけたクラシックの演奏家の皆様も、芸能事務所ではありませんが、クラシック系の音楽事務所と契約を結んで活動されるのが一般的な様です。劇場版の「のだめカンタービレ」で千秋に無理やり契約させたエリーゼが音楽事務所の担当者ですね。芸能界とはいささか事情が違って、クラシック音楽界の音楽事務所が契約するのは、それなりに演奏家として活躍する可能性がある一定水準に達していると判断した演奏家に限ると思われます。芸能事務所と芸能人(志望者)の様に、売れるかどうかわからない志望者を十把一絡げに契約してその中から売れる芸能人を育てる訳ではないので、事務所側があまり高圧的な契約内容にはしていないだろうと予想は出来ます。が、おそらくはその様な契約内容については契約当事者以外に秘密にするという条項があるはずで、そのために一般的に契約内容については外部には中々判りません。Jasracの著作権料の横暴な聴衆に対してもその中身に立ち入ってやり過ぎに対しては大いに反対の声を上げていく必要があると思っています。しかしJasracの著作権料問題だけでなく、音楽(芸能)事務所と音楽家(芸能人)との契約についても、それが独占禁止法や知的財産、憲法の基本的人権を侵しているのではないかと疑われる場合には、せいぜい世論に訴えて行きたいと思っています。


十二音技法に新しい可能性はないのか?

2017-06-28 22:48:52 | 思うこと

 私自身12音技法について体系的に学んだことがある訳ではないので、誤った認識を持っているかもしれません。とは言え私が理解している限りでは1オクターブ内の12個の半音づつ離れた音程の全てについて1回使うまでは同じ音を繰り返してはいけない、という原理で音列を作るのが12音技法の基本だと思っています。この時に、それぞれの音程の音についてはその音価(=音の長さ)は全て同じとすることも基本になっています。ということで十二音技法は自ら音列の各要素を同じ音価にするという制限を課している訳です。しかし十二音技法以外の楽曲では構成要素となるそれぞれの音に関して音価を同じにするという制限を課していることは殆どないと思います。

 ということで、十二音技法で音列を作る際に、等しい音価で一度づつという制限を緩めるというのか拡張するというのか、その様なことが出来ないかと思う訳です。具体的に説明すると、例えば従来の十二音技法で十二の音からなる音列の一つ一つの音を全音符で書くとします。そこで全音符で書かれた音列を四分音符4つに書き換えます。そうするとドA、ドB、ドC、ドD,ド♯A、ド♯B、ド♯C、ド♯D,レA,レB、レC、レD,レ♯A、レ♯B、レ♯C、レ♯D、・・・と、12×4=48個の音符をランダムに並べて音列を作ると拡張することが出来ると思う訳です。でこの時にたまたま同じ音程の音が続いた場合は音価を2倍にして一つの音と考える、たまたま同じ音程の音が3つレン即した場合には音価を三倍にして付点二分音符と考える。

 そうすると四分音符、二分音符、付点二分音符、全音符と4種類の音価が入り混じった音列が出来ますよね。音価の異なる音符が混在するわけですが、音列全体の中で一つの音程の音が鳴っているトータルの時間で考えれば、全ての音程の音について合計した音価は同じになりますよね。さて、四分音符が4回鳴る音程と全音符が1回鳴る音程とでは等価と考えてよいかどうか?これが最大の問題ですね。四分音符が4回なる音程よりも全音符が1回鳴る音程の方が調性感を少しでも強く感じる様なら、あるいはその逆でも、私のアイディアは十二音技法を拡張することにはなりません。

 十二音技法とは1オクターブ内の12個の半音階音程の各音程を如何に平等に扱うか、という発想から出てきた手法だと思っています。一方でコンピュータ関連技術の進展も著しい今日、12個の音程を平等に扱いつつより複雑な音列を作るのはコンピュータにとっては最も基礎的な計算分野です。もう一捻りも二捻りも簡単に出来ると思うのですが、私が考え付くことぐらいとっくの昔にやられているとも思うのですが・・・。


茨城はイバラギではなくイバラキだったんですね

2017-06-22 22:41:12 | 思うこと

 大阪府下の茨木市は「イバラキ」で、北関東の茨城県は「イバラギ」だと何十年も思っていました。ところが今年の4月から始まったNHKの朝ドラを見ていたら、北関東の茨城県も「イバラキ」県だったんですね。ところが北関東の茨城弁ではキをギと訛り勝ちということで、関東ではほとんどの人がイバラキ県ではなくイバラギ県だと認知していると思います。

 訛りと言えば民謡ですね。日本には全国に豊かな民謡の集積があります。男声合唱曲にも編曲されている山形民謡の「最上川舟歌」は名曲だと思いますし、合唱曲に対する向き不向きはあろうかと思いますが、日本民謡はクラシックの声楽のコンサートピースとしても十分に評価されるだけの完成度があると思っています。

 ヨーロッパ各国・各地域の歌についても、全国区的な標準語で歌われる歌と、特定の地域で歌われることにより価値を見出している方言版での曲もあると思います。主に男声が歌う曲としては、トスティの「マレキアーレ」が真っ先に思い浮かびます。全音楽譜出版の「トスティ歌曲集」に収録されている「マレキアーレ」は全国区の標準語イタリア語バージョンですね。ところがCDや動画サイト等で紹介されている音源の殆どは全国区の標準イタリア語バージョンではなく、ナポリ方言バージョンがほぼ全てを制圧する勢いです。日本民謡を標準語で歌うか現地の方言で歌うかの違いと同じように、カンツォーネであっても、全国区の標準イタリア語で歌うよりもナポリ民謡ならナポリ方言で歌う方が良いことは、殆どすべての人たちが自然に自分自身の認識として身に着けていることだと思います。

 「マレキアーレ」以外には全国区標準語バージョンと地方区方言バージョンがある歌曲というものは知りません。しかしオリジナルの言語以外に他の言語でも歌われるという曲は多数ありますね。マルティーニの「Piacer d'amor(愛の喜び)」もイタリア語で歌われていますが、オリジナルはフランス語の様ですね。近代市民革命以前のヨーロッパでは王侯貴族社会では外交用語としてはフランス語、音楽についてはイタリア語が標準的に使われていた、という時代背景があった様です。耳に馴染んだ曲であっても、何語で歌われるのが自然なのか?何語で歌うべきなのか、そういったことにも思いを馳せて曲を味わい直したいと思う次第です。

 


私だってJASRACの主張を支持することはあります。

2017-06-13 22:31:19 | 思うこと

 今日のネット上のニュースに、JASRACがBGMとして流されている楽曲に対する著作権料の支払いを求める調停を申し立てているとの情報が伝えられました。私自身はJASRACの社会的影響力の行使に関しては、批判的立場に入ると認識しています。しかし、今回のJASRACのBGMに対する著作権料の徴収について言えば、JASRACの主張を支持します。

 様々な業種・業態の店舗で流されるBGMに関して、当該BGMの楽曲に著作権・著作隣接権がある場合には、当該著作権料・著作隣接権料を利用者が支払うのは当然のことだと思います。著作権が有効な楽曲に対しては、例外的に個人で楽しむ場合のみについて著作権料の支払いが免除されているにすぎません。営利目的の企業活動を行う上でなにがしかの貢献度合いが認められる楽曲の演奏については、私としても著作権料を支払うことが音楽文化産業の発展に資すると思います。

 もう一つは、楽曲の著作権が作曲家の死亡後50年という我が国の場合の著作権の有効期間を尊重していたとしても、音楽作品としても演奏家の演奏に関する著作隣接権を侵害する可能性があるということで、CDの演奏などをBGMとして個人的な営利事業のBGMとして流すことには、著作権上、あるいは著作隣接権上、問題がある可能性がないとは言えないと思います。

 たとえ著作権が切れているベートーヴェンの交響曲第5番「運命」であったとしても、それを演奏した指揮者、演奏家、プロデューサー、そのCDを販売する出版社等に著作隣接権がある場合には、当該著作隣接権を利用するために支払うべき金額は支払うべきだと思います。BGMとして音楽を流している(個人、あるいは零細企業者)企業主体がBGMを流すのであれば、支払うべき著作権料を支払う必要があると思います。作曲家の著作権料だけでなく、演奏家の著作隣接権料を個別に支払うのが面倒であれば、有料の有線(ラジオ)放送を流すという選択肢があります。私の勝手な想像では有線放送では聴取量の中に著作権料も含まれているとして、有線放送聴取に対する利用料金の中に著作権料の支払いも含まれているという抗弁が成り立つと思っています。

 BGMの問題についてはフランスのサティが活躍したころに、サティ等の作曲家が提起した問題に遡ることが出来ます。音楽表現の多様性に関するだけでなく、音楽に関する著作権についてはフランスのベル・エポック期に活躍した作曲家が重要な存在感を示しています。音楽家ではありませんが作家のヴィクトル・ユゴーとエリック・サティは著作権通史のなかでもっと評価されるべき存在だと思いますし、少なくとも現状の様にほとんど無視されている評価で良い訳がないと思っています。